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気づくとは何であろうか。

日々、気づく。小さなものから大きなものまで、見つけ、感じて、「私」にはあったんだと腑に落ちる。この現象を気づきと呼んでいる。その「気づき」はいつも暫定的で道半ばだ。私とはどうであろうか、それを一つずつ見つける。人は一つ、人は全体の流れの一つ、歯車ではない、川を流れる泡のように、海ではねた飛沫のように、自由でしかない。自由以外ありえない。

あらゆるコンテンツをぼーっと眺めていて、「愛」の使い方はこれであってるのだろうかと良く思う。違和感がより強くなっていて、ふと愛を再定義したい。そう思った。だけど、僕のもっている感覚に「すべてそのままでいい、それは過程で常にベストを叩き出している」というものがある。OSをアップデートするように不具合は修正される。木の剪定をしていると、内に込み入った枝を切ると飛び出しが気になってくる。いわゆる、悪いと評されることもそれが認知されることはベストだ。それぞれのもつ「価値」は整理され、何を直せばいいのか浮き上がる。これは個人でも国家レベルでも起きている。愛を再定義したいとは少し違うことに気づく。この時代の愛を(過去の愛はクリエーターが整理した)まるっと認めてしまいたいんだ。そのために僕はモノサシを捨てるのだと。正否を図りあうことにすっかり疲れてしまった。そこに楽しみや共感を見いだせなくなった僕は自分が使っていた思想、道理、倫理に気づく。そして全部まとめて整理だ。まだ使おうと思えるもの以外はさようならだ。

気付けば一瞬、顕在意識に上がれば一瞬だ。宇宙と細胞の形やあり方が似ている比較写真を見ながら、この星々も僕の内臓と同じような立ち位置なんだな、だから星の配置は私という現象を表すようになっているんだな。とりあえず占星術はこの辺の感覚で楽しんでいる。僕は射手座でキーワードは「冒険」らしい。確かに全部冒険だと思っている。何かの準備は歩きながらすればいいと思っている。現実と呼ばれる場所で誰かと食事していても僕の頭の中は冒険している。僕が誰かの話を聞くときは冒険譚が語られるときだけだ。未知へ向かったその話がとっても好きだ。そして常に未知を探している僕には痛いほどわかるのだ、その経験の大きさ、知って広がった意識の興奮。本当によく頑張ったと言えるのだ。

「美しさ」に気づいたの。「恐れ」に気づいたの。ずっと自分と同化していて苦しかった感情に気づいたの。気づいたら距離をとれる、客観視できる。そこまで行けば選べる、これからも同じく体験するのか、次のものを探しに行くのか。「苦しみ」は今の自分に合わないものを得ているから生まれる。それは違うというただの合図だ。意識に上がればそれは解消される。僕は最近、自動で働いている自分とらえるようにしている。ご飯を食べる時、どうしているか。誰かと話すときどうしているか。腹が立つとき、楽しい時、身体のどこかが痛むとき、いったいどうなっているのか。「なるほど」と知るだけでよい。意味などない、そういう反応があるだけだ。ただそれを知らなければずっと繰り返していく。僕の好きな未知ではなく既知の中でなにを楽しめるのだ。そんな感じで暮らしてる。

この世界はSNSというものによってあらゆる視点になれる。その視点がどんどん広がる。少数派の言葉も「1」として得られる。TVも新聞もそうやって視点の増えた人々が作るようになる。想像力、イメージは無尽蔵に。クリエイターはまだ向き合えていなかった事象へ。世界は何をしている?宇宙は何をしている?この「私(世界、宇宙)」の在りように気づこうとしている。

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