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カーテンをしめた食器乾燥機が去った部屋で

滝の裏からリゾートビーチを見ている、不規則で規則的な鳥の群れが過ぎていく、滝はごうごうとしているが音は聞こえない。確実な安心を感じる。いつか押し出されあの混沌の中でも無と有で遊びながら。

目まぐるしい。次から次へとイベントが起きる。ふと思い出したのが「私は私に必要なすべてを受け入れる」通勤の車の中で口に出して呟いた。それはそう思ったからで出来る気がしたからだ。

ツイッターを見ていてい想う。統計学のN=1だ。全部サンプル1だ。その人が思っていてその人に当てはまっただけのことだ。なぜあたかも全体の解として発せられているのか。人は人に共感しやすい。知っている物語を共に「わかる範囲」でことを落ち着けたい。誰もかれも、根から葉まで説明したくない、説明できない。代理戦争か。問いが始まる。私はなぜ私という意識を持っているのだろうか。こういうことを考え始めると疲れているのだな思う。なにもないから選んで作り上げるこの景色に、雨が積み木なら僕の庭に大きな壁、色とりどりの金平糖なら溝掃除しなきゃ、お湯を沸かして近所の人々と一斉に流す。知らぬ間にリゾートビーチに出ていた。観念だけの滝はもうない、無いということは今の私に必要が無いということだ。あふれ出す概念が、あふれかえる思考が、私の海をどんどん増やし、鬱血していく喉を振り絞り、小さな声は逆にわかりやすく、透明は濃く、滲めば広がり、間違い探しをあきらめたころに、鳥の群れは波に乗っている、リズムに成っている、溶け合う、つながる、初めまして。

The Cinematic OrchestraのTo Believeを聴いている。部屋の窓際に並べてあるポトス、吸着根を使い床に広がりつつある。この部屋をもっと緑でいっぱいにしたいな。私は私に変化を加える。積み上げる、なにも残さず積み上げる、つまり流れを通す管、大いなるものを受け入れそれとなく別れをもって。繰り返す作業はひとつ、選び、得て、捨てる。芝の上に車が通り轍ができる。そこに雨が降り水が溜まる、土から微生物が湧きだし、コロニーを生み出す宇宙のように無数に、シャボンのように壊れながら。日が照り、死滅しながら、水の粒は細かく浮かび、それぞれ次の巡りへ参加していく、轍は芝が伸び誰も気を留めなくなる。なにもないから浮かび上がる愛を、愛を感じた時を、愛だと気づく瞬間を、止まっていた日常に色が還るその一瞬を、生きていると感じるこの興奮を。灯り遠のく、つじつまを合わせる、わかりやすく飾られている、なにも知りえず、何かが去っていく。この痛みはいつの痛みだ。「わからない」と笑う不気味さに、すべてないのだからあっていいと強く念じるこの様を。人と呼ぶにふさわしく、人としてあることを許していく。これでいい。このままでいい。そう感じて、おやすみなさい。

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