大好きな人の異変。命の大切さ。
中学2年生の春休み。
ひいおばあちゃんのお家に私たちと従兄弟が
集まりお泊まりをしていました。
そして私達と従兄弟が帰った次の日の朝
その異変は起きました。
まずはおばあちゃんから母のところに電話が、、、
どうやらひいおばあちゃんが寝室で
「財布がない」と言いながら押し入れの布団を
全部出しているとのこと。
以前から物忘れはあったけど
こんなに早く認知症が悪化するとは、、、
前日までいつも通りだったひいおばあちゃん。
会った途端に全く違う別人に進化していました。
トイレの場所もわからず
使ってない部屋でズボンを下ろそうとする姿、、、
いちいち涙か止まりませんでした。
病院にも行き
おばあちゃんは週に数回ひいおばあちゃんを
デイサービスに生かせる選択を取りました。
行きたくないひいおばあちゃん。
行ってほしくない私。
悩んでいる間も進行は止まってくれません。
何回かは行ったけど私は家で面倒が見たいと
わがままを言い家で介護をしました。
不登校で学校に行けなくなった私は
毎日お家に行きお世話を続けました。
そしてとうとう私のことが誰なのかも
ひいおばあちゃんはわからなくなりました。
そんなある日
「〇〇ちゃん、学校は行ってるの?
私はあなたのことが心配で心配で仕方ないの。
あなたのペースで生きていったらいいの。」
私のことがわからなくなり
デイサービスのお姉さんと言っていた
あのひいおばあちゃんの口から久々に
私の名前が発せられました。
そして強く私の手をずっと握りしめてくれていました。
私は「大丈夫だよ、心配ばっかかけてごめんね」と。
「良かった良かった、安心して寝れるね」と言うひいおばあちゃん。
帰る時間になり「また明日来るね」とバイバイしました。
次の日の朝おばあちゃんから電話が
「亡くなった」と突然の報告。
そう、あの会話がひいおばあちゃんとの最後の会話になりました。
生まれた日からずっと一緒に過ごしてきて
多分、父より時間を共にしました。
幼稚園の送り迎えは母とひいおばあちゃん。
運動会も必ず来てくれました。
優しいひいおばあちゃんのお陰で
私はしっかり生きてこれたと。
心配ばっかり掛けて何もしてあげられなかった後悔は
今も残っています。
きっと私の元気な姿を見せることが1番の恩返しなんだと思っています。
中学3年の2学期から私は週1は教室に入れるようになり
少しだけ、、、ほんの少しだけ前進した気がしていました。
しかし中高一貫校と言うことで
出席日数が足りずに高校には進学できない事に。
それを言われたのは2月でした。
そして色々考えた結果
通信制高校に進学する事を決めます。