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掌編「蛇」

「蛇って人を化かすんだよ」
と雨の廃堂で優太が言った。
突拍子のない発言に僕はただ「 へえ」と短い相槌を打った。

「へえ」としか言えない。気持ちに余裕が無いから。少し苛立ちもあったかもしれない。その苛立ちを感じたのか優太は気弱く「 ごめん」と言った。

***

どうしてこんな事になったんだろう?
夏休みに僕はS県の片田舎にあるお爺ちゃんの家に遊びに行った。山間には「くらみ」という小さな川が流れていて、その里川を囲む森は拓かれて温泉郷と集落が点在する。その集落の中で農家を営む爺ちゃんは町場に用事があって本日は終日不在。朝に爺ちゃんから特製田舎弁当を渡されて僕は日がな一日ザリガニ釣りをするつもりだった。だが昨晩の嵐で水流が増えて、ザリガニの居そうな淀みが見つからない。

さんざん歩いて嫌気がさして、僕は土手に座り込んだ。
蟻が長い行列を作っていた。
その行列の先端に、油蝉が転がっている。
蟻に蝕まれて油蝉は時折、バタバタと暴れたが、もう逃れる術は無かった。
蟻が油蝉を蝕んでいく。

その時。
生きながら解体される油蝉と、小さな黒い捕食者と、僕、の前に現れたのは、小さな黄色い蛇だった。
「 蛇!」
僕は言った。
思わず石を握ったが、止めた。蛇と、目が合った、気がして。
僕と蛇は、蟻の行列と死にゆく蝉を挟んで向かい合った。
無言で。

町内の放送塔から号笛が長く鳴った。正午になったのだ。号笛が鳴って村落に風が吹き抜けた。風が、黒い森をザアアアと揺らした。畑作業の大人たちがサイレンの鳴る間、黙祷していた。僕はそれを見ていた。喋る者も動く者もいなかった。それからサイレンが止んで、その谺を蝉の大音鐘が掻き消した。

山中の何百、何千といるのか分からぬ蝉たちが夥しく下腹を震わせる声。
死にゆく蝉の葬送のような。勝鬨(かちどき)のような。喝采のような。
大人たちが黙祷を止めて畑仕事に戻った。

小さな蛇は、人間世界の風習など我関せず焉。ぬるぬると小川に入り、瀬音を遡って上流に向かって消えた。

蛇の泳いだ「くらみ」の川のその先に青い空が広がる。昨夜の大嵐が今朝には嘘のように晴れた。僕と鬱蒼の森を見下ろす入道雲の純白と、終戦記念日の空の蒼。
夏休みはまだ半分残っている。

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掌編「蛇」 / 御首了一


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気狂いじみた青天と田舎の夏休みを持て余した僕は探検に行くことにしたのであった。
爺ちゃんは山にまつわる色々の昔話を教えてくれる。人を化かして食べる大蛇の話。神様に罰を受けて片目にされた蛇。観音堂に祀られた白蛇様。父母を探す幼子が小さな蛇になった話。それから夜泣き石。天狗岩と孕石。衝けば無間地獄に堕ちる鐘の話。

山の山頂に仙人が吊るした小さな鐘があって、その鐘を衝けば何でも願いが叶うと云う。それでむかしは沢山の人が鐘を衝いたが、その鐘を衝くために懸崖を滑落して死ぬ人も多くいた。幸福を願った筈の小さな鐘が人間の強欲の象徴になってしまった。それで近くの観音寺の住持によって、鐘は取り外されて井戸に沈められてしまったという昔話。

くらみの川に沿って登山道を上ると山頂近くにお不動様の滝があり、そこから尾根を越えたところに無間の鐘を沈めた井戸の跡が残っているという。
山には神秘がいっぱいだ。願い事が叶う鐘と、それが沈んだ井戸なんて上等の神秘じゃないか。僕の、ミステリーハンターの血が騒ぐ。

爺ちゃんが危ないから山に入ってはいけないと言っていたけれど、登山道を進めば問題ない。なんと言っても僕には冒険が必要なんだ。

途中、山中で優太に会った。彼は僕の友達なんだ。「 神秘を探しに」と言ったら優太も一緒に行くと言い出した。
「危ないぞ」
僕は言った。優太はトロくて運動が苦手だ。僕の冒険に付いて来れるだろうか。
「 大丈夫だよ、隊長」
優太は言った。
僕達は意気揚々冒険に出発した。喪われた神秘を求めて探検隊の出発だ。

などと元気があったのも数刻で、僕達はあっという間に道に迷った。面白半分に登山道から外れたのが良くなかった。懸崖は険しく危峰は峻険。崖谷の落差に戻る道を失って、登山道が何処にあるかも分からない。道なき道を進んで、足を滑らせたらどうかなってしまいそうな危険な場所を幾つも越えた。崖下には昨日の嵐によって水量の増えた渓流が暴瀑の如くドオドオと流れていた。
泥濘の中、斜面を攀じ登り、滑り落ちするうちに、疲労困憊が蓄積し、方向感と共に意気地を失った。気が付けば僕は全身が泥水に濡れぞぼち、陽の光も届かない真っ暗な森の中で立ち尽くしていた。

鬱蒼とした森の生臭い湿度がその場所には蟠っていた。
まるで百年もこの場所には風が吹いた事など無い、森の瘴気に満ちている。

真後ろに優太がいた。疲れ果てて僕達はもう語る言葉も無くしていた。
冒険の緒(いとぐち)であった願い事の叶う鐘など、既にどうでも良い事だった。

「雨だ」
山中の森をハタハタと葉を叩く雨音が包んだ。陽の光は届かなくても、雨滴が僕たちを容赦なく穿つ。
優太は僕を怒っているだろうか。向こう見ずな探検隊の、無能な隊長の僕を。

「あっちに家がある」
と優太が言った。

それは廃れた観音堂で柱も土壁も黒黴だらけ、雨水が滴るのか、壁も板間もぬるぬると濡れていた。疲れ果てた僕たちを癒すものは何も無かった。が、それでも鬱積した疲労と芯から冷えきった身体を抱える僕達にとって雨が凌げる事はありがたかった。
板張りの式台に僕達は並んで座った。
鼠の親子が目の前をとつとつと走って、堂内の隅に身を寄せあった。
生臭い黴臭は、雨の湿気で匂いを濃くしていた。そこに優太の匂いが混じる。人間にも体臭があるのだという事を僕は初めて知ったような気がする。

「蛇って人を化かすんだよ」
と優太が言った。
僕はただ「へえ」と答えた。
「ごめん」優太が言った。

「何が言いたいの?道に迷ったのは蛇に化かされたせい?それとも無能な僕のせい?」
苛立ちが治まらず、僕は優太に慳貪な言葉を吐いた。

「ごめん」優太は言った。
傍にいる彼の生温い体温が、じんわりと僕の皮膚を温めていた。

「ごめん」僕は言った。それから深呼吸して気を取り直してからまた言った。
「確かに蛇に化かされたのかもしれないね。昔話に出てくる悪い蛇に」

***

道を失う前。登山道を意気揚々と進んでいた僕たちを狭霧が包んだ。それでも僕たちには山頂の不動滝まで進むだけの蛮勇があった。不動滝に着いて水煙と霧によって霞んだ景色の滝上に僕は小さな鐘を見た。確かに見えた。見えたような気がした。「伝説の鐘だ」興奮して僕は言った。「駄目だよ」優太が言った。
僕は優太を押しのけて、滝上を目指した……。
そうして、僕たちは自分たちが何処にいるのかも分からない。

「ごめん」僕は言った。
巻き添えにして、ごめん。
本当は友達になりたかったんだ。

優太は口を開いた。
「友達になりたかったんだ」
僕は言った。
「 友達だろう、僕達は?」

強まった雨がバタバタと廃屋の屋根を叩いている。

「 蛇が鼠を飲み込んだのを見たことがあるよ」
土間の片隅にいる鼠の親子を見ながら優太が言った。
「大きなお口でね、少しずつ鼠が飲み込まれていくの」
「 鼠は逃げないの?」
「鼠は動かない、でも死んでる訳じゃない。ただ飲み込まれていくだけ」
「化かされているみたいだ」
ただじっとして、飲み込まれるなんて。
「 そうだね、蛇に飲み込まれる生き物はみんなじっと動かない」
「それから?」
「鼠は丸呑みされて、少しずつ頭からお腹に移動して。そして」
「 そして?」
「 溶ける」
つまり消化だ。
溶けて、消える。
優太の言葉の余韻が暗闇に響いた。
鼠は蛇のお腹の中で生きながら溶けていく。
ゆっくりした死、だなあ。

雨に打たれて冷えきった僕の体が、優太の傍にいる事で少しずつ体温を取り戻していた。雨が止むまで此処に居るのも悪くない。少しだけ眠ってしまっても良いかもしれない。

優太に身を預けて眠ってしまっても良いだろうか。

僕は急に眠気に襲われていた。優太にもたれて僕は深い眠りに落ちていく。暗闇の中で僕の意識は黒蛇の如き澱みに囚われて下へ、下へ……。

時間が溶けていくようだ。
蛇に飲まれた鼠のように。

「ーーーッ…!!」
突然、名前が呼ばれた。
「ここにいるのか!」
外から廃屋の木戸が乱暴に叩かれた。お爺ちゃんの声だ。帰りが遅い僕を心配して探しに来てくれたんだ。

僕は「 お爺ちゃん」と叫ぼうとしたが優太が抑えた。
優太は人差し指を唇に当てて、しぃっと言った。

「 あれは、お爺ちゃんだよ」
僕は小声で優太に言った。
「あれは、悪い、蛇」
優太は言った。
僕は首を振った。お爺ちゃんの声を聞き間違えるはずがない。
「 蛇は人を化かすんだよ」
優太は言った。
「 君を地獄に堕とすつもりなんだ」

早く返事をしなくてはいけないのに、優太がそれを止める。

「ーーーッ…!!」
急かすようにまた名前を呼ばれた。
僕は優太を見た。
優太は唇に指を当てたまま、首を振った。

「 静かにおやすみ」
暗闇の中で優太の目が金色に光っていた。
考えてみれば。
田舎に来たばかりの僕がこの土地に友達なんている筈が無い。

「誰なの?」
僕は言った。
優太は答えない。
でも答えは分かっている。

優太の口が裂けた。先の分かれた長い舌が伸びる。

僕は逃げようとした。
「 駄目だよ」
僕は優太の手を振りほどき、木戸まで走ろうとしたが、ぬめりのある雨垂れに足を滑らせて転んだ。
這いつくばった地面が生温く柔らかい。
粘液に濡れている。

ー 蛇って人を化かすんだ ー

優太の言葉が脳裏に蘇った。
ここは廃寺では無い。
廃れた御堂と思ったものが収縮を始めた。粘液が滴る肉壁が迫る。

体内なのだ、蛇の。

ー 蛇の体内で、動かない鼠が生きながら溶けていく ー

先程の優太の言葉が頭に響く。

土間の隅の鼠の親子が粘液の中で溶け出していた。
このままでは僕の体もゆっくりと溶けてしまう。

逃げなくては。

立って、逃げるんだ。
我に返った僕は勇気を出して下半身に力を込めた。

でも、出来なかった。

僕の両足が無い。

僕は思い出した。
僕は今日、一人で登山道を進んだ。不動の滝の崖上に小さな鐘が吊るされているのを見つけて、僕は泥だらけになりながら崖上に着いた。緑青の古びた鐘が松の木から提がっていた。「伝説の鐘だ」僕は興奮して言った。衝けば何でも願いが叶い、その代償として来世は無間地獄に堕ちる鐘。緑青の鈍い光に無音の圧力があった。無間地獄に通じる不気味があった。不吉だ、不穏だ。

……ッッーーーーーー!!

撞木を手にして俄かに起こった僕の躊躇いを、蝉の大音鐘が掻き消した。
僕は腹底に力を入れて、撞木で鐘を衝いた。

コオオ……ォン

鈍い音は直ぐに蝉と、滝の瀑音に消えた。

涙が出た。
父母が険悪となり、離婚をすることになった。その調停中、僕は爺ちゃんの家に預けられている。幻となった日々が、脳裏をよぎる。父も、母も、家族の姿は幻だった。

コオオ……ォン

また鐘を衝いた。
友人だった筈の同級生達はいつの間にか、僕を避けるようになり、僕は学級で孤立した。
友人を呼んだ僕の声が、谺を残して消えていく。

コオオ……ォン

また鐘を衝いた。
誰が書いたのか心無い罵詈雑言で、僕のノートが埋め尽くされる。
- 死ねば? -
それはかつての友人の文字。

コオオ……ォン

また鐘を衝いた。
飼っていた犬が死んでいた。
犬小屋の前で血と泡沫を吐いて。
柔らかくて温かだった毛艶が、死後硬直に冷えて固い。
僕を舐めた舌はもう動かない。
傍らに農薬瓶が転がっている。

コオオ……ォン

また鐘を衝いた。
鐘が響いて、僕にはもう何もない。
何も、無い。

コオオ……ォン

また鐘を衝いた。
嗚咽と共に今まで堪えていた涙が止まらなくなった。
例え来世で地獄に堕ちようとも願わくば。
願わくば。

七度の鐘を衝いた時、僕は足を滑らせて断崖から絶壁へ滑落した。

滝壺に逆巻かれ、荒々しい渓流の奔流に蹂躙され、険峻の巌岩に叩きつけられる事を幾度となく繰り返し、峡谷を蛇行する「くらみ」の川の砂州に打ち上げられた時にはもう、僕の上腕、下腿は砕けて無くなっていた。
蛇の如く手足の無くなった、僕のからだ。
砂州に転がる僕は一匹の赤い蛭であった。

残った半身に灼熱のような激痛が走った。

「……ッッーーーーー!!」

声にならない叫び声を僕は上げていた。こんなにも苦痛に塗れた残酷な死。
体が燃えるように熱い。そして剥き出しの神経を針で抉られるように痛い。
僕は深山幽谷の中に独りで死ぬ。

その時。
痛苦に身悶え絶命せんとする僕の前に、鱗を黄色に光らせる大蛇が現れた。
蛇は僕を見下ろすと、大口を開いて僕を飲み込み始めた。蛇の喉奥の筋肉に締め付けられながら思考が痺れて、全身の痛苦が蕩けるように和らいでいく。そして僕は体内で溶けながら夢を見ていたのだ。

僕は真っ暗な中に寝目覚めて、収斂する蛇の体洞に締め付けられる自らを発見した。目覚めると同時に半身を失った事の、耐え難い痛苦が蘇る。痛苦に侵されながら、目の前に死の奈落が見える。激痛のあまりに朦朧とする僕は、意識を失う直前に、僕を見下ろす優太の悲しそうな顔を見たような気がした……。

***

目を覚ますと僕は優太に凭れていた。眠っていたようだった。
「 まだ寝てると良いよ」
優太が言った。
「 そうか」
僕は言った。

「 ごめん」
優太だったものが言った。
「 友達になりたかったんだ」
彼の体温が、冷え切った僕を温める。

「 友達だろう、僕達は」
僕は言った。
そして彼の体温の中で再び眠った。



(了)

初稿、2023年4月21日
改稿、2023年6月16日
改稿、2023年7月21日

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