(未完)ゾンビハンター ・不倫妻依子、温泉無頼

未完ファンの皆様、こんばんは。note公式の企画にもなっている下書き「蔵出し」、若しくはネムキ派恒例没ネタ祭です。
本作は「東京オリンピックの仮想正式種目」をテーマに書き始められたナンセンスコメディです。「眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー」では「標本」テーマの月間でした。悪い癖で、いつものように思うままに書き始めた結果、「収拾がつかない」。ナンセンスコメディなので、ライトに8000文字くらいで終わらせるつもりが2万文字に突入。物語の進捗は50%くらいでしょうか。そんなに長いナンセンスを読んで頂く事に何の意味があるんだろうと、懐疑に至り結果、破棄です。
未完のため、途中で物語は断絶致します。
読んで頂く必要は全く御座いませんが、もし読んで下さる奇特な方がいらしたら、未消化でお話しが終わりますのでご注意下さいませ。ゾンビがモチーフとなっておりますが、本作自体生きるでなく、死すでなく。まさにリビングデッドでございます。
そのような「遺棄」をお楽しみ下さい。
皆様へ。
「眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー」のために作品を書き出してみたものの、途中で力尽きた。公開に踏み切れない。等の遺稿が御座いましたら是非、年の瀬に晒してご供養下さいませ。
見つけ次第、「没ネタマガジン」に綴らせて頂きます。勿論、アンソロジー以外の未完、未発表作品でも構いません。ハッシュタグは「没ネタ祭」をご利用下さい。簡単な経緯を添えて下さい。
皆で楽しむ没ネタ供養。年末年始のお焚き上げでございます。
本年もお世話になりました。
来年も宜しくお願い致します。
全てのクリエイター様に表敬と愛を。
ムラサキ

(未完)ゾンビハンター・不倫妻依子、温泉無頼

「あたいを舐めたらいかんぜよ」
と依子は中国鍼を辰夫の亀頭に突き刺した。

ああ、いたい。いたい。
辰夫は呻いた。
痛かったのだ。

温泉無頼。
依子は鬼怒川の温泉に来ていた不倫妻である。

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そもそも辰夫はゾンビハンターである。

ゾンビハンターはカリブ海に浮かぶ小島を発祥とする。ハンターである辰夫は常に5匹の小鳥を随行している。

微かに震える小鳥を両手に包み空へと放つ。

一羽、ニ羽、三羽。
そして五羽。

この鳥が人間の手を離れて空へ飛び立つ様が美しい。と辰夫は思う。

人間とは反自然的な生き物である。人間の手によって辰夫の生まれ故郷もまた崩壊した。美しかった山野の木々は薙ぎ倒され山肌は削られた。

故郷は見る影もなく無残である。

辰夫は飛び立っていく小鳥たちに喪われた故郷を重ねる。
美しい。
鳥たち。
ああ、僕の故郷。
おっかさん。
おとっつぁん。
いもうと。

一家は辰夫が高校生の時に離散した。
だが、辰夫には内緒で一家はすぐさま集合していた。辰夫だけがそれを知らされず、辰夫の家族幻想は崩壊した。

離散の夜、辰夫は事前に連絡された親戚の家に着いた。
出迎えるなり親戚は辰夫にバケツの水を浴びせかけた。雨水が饐えて黒色に黴た腐汁であった。
「おうぼぼぼ。」
辰夫は絶叫した。その辰夫を親戚筋の連中が斉しく罵った。辰夫は自分の体に付着した饐えた匂いと内耳に反響する騒音が堪らずに一目散にその場から逃げた。逃げて辿り着いた先が地場の商港であった。夜中の黒い波間に港の灯が反射していた。其処に巨きな貨物船が微かに揺れながら聳えていた。

辰夫は海に飛び込んだ。

自らの体が放つ饐えた臭いを、みすぼらしさを、惨めを洗い流したかった。

だが。
海もまた汚臭を放っていた。港内は汚水の海であった。

生活排水と糞便とそれを滋養にして繁殖した藻類の匂いが潮となり辰夫の周りに渦を作った。

辰夫はすぐに波止場に上がった。ずぶ濡れであったし嘔気を催してもいた。

其処に人が来た。誰だか知らない。だが辰夫は何故だか見つかってはならぬ、と思った。

暗がりの中、人目を避けてコンテナに忍び込んだ。
じっと息を潜めて、辰夫は己の心音だけを聞いた。
誰も来てくれるな、と強く念じた。
長い間、誰も現れなかった。誰の足音も聞こえなかった。

そうするうちに辰夫は緊張が解れてきて、次第にこれ迄の色々が思い出され、やがてそれが溶解した色彩と光の粒になり、いつしか辰夫は眠ってしまった。

随分と長く、深く眠った。

気が付いた時に彼はコンテナごと見知らぬ国に荷揚げされ、見知らぬ言葉を喋る人々に囲まれていた。

辰夫は自らの状況に気付いた時、途方にくれた。絶望して言葉を失った。
それを見た見知らぬ人々はまた同じく一様に言葉を失った。
アーオー!人々はため息をついた。

爾来、彼は独りで生きた。船乗りになって世界中の海を渡った。カリブの島で老いた盲目のシャーマンに出会い、辰夫は彼を師と仰いだ。

アンニュイ。
バタラメンディ。
辰夫は鳥たちの名前を呼んだ。
モーリシャス。
クトゥルフ。
ラフマニノフ。

辰夫の声を羽に受けて鳥たちはいよいよ高く飛ぶ。

鳥たちは空中で交差する。
鳥たちは美しく飛ぶ。
その真下で、大地が黒く影となっていた。土が黒色に染まっている。空には何も無い。物理的な影ではない。その影は生き物のように螺旋の渦を描いていた。大地が黒く染まるほど、物理法則が歪曲していく。

大地から黒きシャーマンたちの歓喜の声がこだましている。この世の理を覆す黒き声は地底に住まう黒き者共のアンセムであった。

この歌声が響く時、地面には黒い穴が開口して、そして穴から。

見よ見よ。
罪深き人々よ。
地獄の蓋が開くのだぞ。

ポコポコと音がして辰夫の直下に地獄の入り口が開口した。

見よ見よ。
罪深き人々よ。
死者が蘇るぞ。

すると地面には更に小さな穴が開いた。
開いた、と思ったらその穴から沢山の小人が出てくる。
出てくる、小人が。
いや違う。
小人たちが死んでいる。
ゾンビだ、これは。
小人たちの。

土地に眠る死者たちは様々だ。
地獄の穴(と老いたシャーマンは呼ぶ)、が開けば地底より死霊たちが這い出て来る。

人間、である事もあれば小動物である事もある。牛馬のゾンビーが出てくる事もある。

今、辰夫の前には大会競技委員によって呼び出された無数の小人が夥しく沈黙の行軍を続けている。

野生の掟。

辰夫の老いたシャーマンが語る。
生きるか、死ぬか。
食うか、食われるか。
喰らえ、辰夫。
貧して貪せよ。

アイアイサー!辰夫は叫んだ。
師匠、合点承知の助でヤンス。
辰夫の中の巨獣が目を覚ます。それは野性である、辰夫の。

猫が蜥蜴を捕らえるように、辰夫はもう己の中の野生を抑えることができない。
野性が、血流が達夫に命ずる。
狩れ、と。

ピューイーピピー

辰夫は唇に指を当てて口笛を吹く。

アンニュイ!
バタラメンディ!
使役される者ども。
翼ある者たち。
勇猛果敢に宙を切り裂け。
モーリシャス!
クトゥルフ!
ラフマニノフ!

飛べ。狩れ。悪霊を。
喰らえ喰らえ。貪欲に。

ニッポン。

辰夫の耳に観衆の声援が届いた。

ニッポン。五輪前哨戦ともなる世界選手権大会がバンクーバーで開かれていた。競技場の一角に日本人の応援席がある。

辰夫はいま日の丸を背負っている。昔の事を思い出しかけた。苦々しい胃液が込み上げる。それを頭を振って忘れた。

今は目の前のゾンビハントに集中しよう。

さあ喰らえ。ニッポン。
喰らえ、鳥たち。

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依子は目を覚ました。

依子はこのオリンピックに於いて女子ゾンビハンターの強化選手であった。
ゾンビハンターはカリブ海に浮かぶ小島を発祥とする。ハンターと呼ばれるプレイヤーは猫であれば一匹を随行する事が許される。
体躯のしなやかな黒猫を依子は伴っていた。

依子はこの黒猫の毛艶に喪った故郷を見る。

緑豊かな山野の木々は薙ぎ倒され山肌は削られた。
故郷は見る影もなく無残である。

ああ、おとっつぁん。
おかっつぁん。
おにいちゃん。

依子の一家は依子が中学生の時に離散した。
土地投機癖のある父親の借金が原因であった。
父親はいくつも山を持つに至ったが、農道すら通らぬ秘境の山に資産価値は無かった。

詐欺にアッタ、と父親は嘆いた。
そして泣いた。
俺は馬鹿だ。
と酒を呑んで、やはり泣いた。

だが翌月に父親は再び山を買った。一家の負債は増大し、資産には秘境ばかり増える。

払いきれなくなった借金は債権回収業者に転売された。絵に描いたような取り立てが始まった。
一度依子は誘拐されかけた。大きな袋を持った黒服の男達が、依子を袋詰めにしようとした。

いい加減にするっちゃ。

なんとか家の中に逃げおおせた依子はそう言った。
父親は泣いた。
俺は詐欺にアッタのだ。
そして酒を呑んだ。そして酔い潰れてぐうぐう寝た。

彼らは離散することを決めて、ある9月。闇夜の中を旅立った。

依子は親戚の家に預けられたが直に母親から手紙が届いた。

「マタ一緒ニ暮セル」

母の釘で引っ掻いたような拙い文字で書かれたすぐ下に住所が書いてあった。その手紙には旅券が同封されていた。

依子はすぐに示されたに住所に向かった。だが其処には誰もいなかった。父も。母も。その代わりに猫がいた。

「ねこ」と依子は言った。
「にゃあおん」と猫が言った。
そして「よりこ」と名前を呼んだ。毛並みの美しい黒猫は母であった。
兄はとうとう現れなかった。

「お兄ちゃんは」と依子は母に尋ねたが、母は寂しく笑うばかりであった。

にゃあおん。
依子の遠い目を見返して黒猫が鳴いた。
「母さん」と依子は黒猫を呼んだ。
「にゃあおん」と黒猫は鳴いて、「ぼやっとしてるんじゃないよ」と依子を叱咤した。

深い追憶に囚われていた依子は我に返った。
そうね。
黒猫に返事する。

バンクーバー大会。競技委員が呪言を唱え始める。
目に見えぬ精霊たちが震えてさわさわと塵芥が周囲を舞う。

ぼこりと
依子の眼前の地面が陥没した。

穿孔から禍々しいうめき声が聞こえる。
おーおーおー
その穢らわしさに依子は眉をひそめる。

死者どもイデヨ。
地獄から。

穿孔から瘴気が噴出した。

なんてコト。
依子は一歩後ずさる。
この敵は思っていたよりも巨大だ。

地鳴りがして地面がひび割れる。モグラの穴の如き小さき穿孔がひび割れと共に拡がって、牛が通る程の大きさとなった。

其処に

が現れた。
水かきが付いている。

穿孔の縁を指が掴み地面に食い込む。
またもう一つ現れた手が更に穴を割り巨穴を割いた。

とうとう現れた死霊は巨大な河童であった。
かつて瑞々しかった潤肌はとうに干涸らびている。
死んでいるのだ。
死んだ河童が死靈となって咆哮する。

カッパーーー!

雄叫びが依子の耳をつんざく。

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母親はいつも。

仏間に依子を読んで呪言を唱える。
幼い依子には苦痛の時間であった。一節一節を繰り返し反唱する。

日の翳った暗い部屋であった。欄間に、死人の顔が並んでいる。母が呪言を唱えるたびに、その死者たちが揺らめくようで、それが依子には辛い。

いま考えれば依子の母親は巫者であった。血筋が巫者の家であった。母はその血統の中で並外れた力を秘めていた。

その母が幼き依子に語る。
喰らい尽くせ、と。

依子は母を見た。
既にその姿は母ではない。

虚無の眼。
言葉を発する唇の其の奥は虚のように闇深い。
母親は虚無の袋であった。
呪言の唱えられる暗室で母と死人たちが依子に言う。

喰らえ、と。
依子は死霊に対すると我を無くす。

忘我の中で依子は内なる声に身を任せる。幼き日より母と亡者たちによって蓄えられた呪言が依子を包む。

依子は暗澹に陶酔する。
まず。
依子の顎が外れた。
そして皮が伸びた。椎間板が肥大して脊椎が伸長する。体組成が変容して軟体となり忽ち身の丈十尺の鬼女と化した。歪に伸びた体躯が蛇を思わせる。

喰らえ。
喰らえ。
依子の目の前に河童ゾンビが屹立する。
地響きが鳴る。

ビルディングの如く巨大である。
だが依子もまた同等に巨大であった。
二頭の巨獣は対峙した。そして己が敵を、その本能で認識した。

「喰ラエ」

二頭の頭の中に、同時に声が響いた。本能の、声。其処にはもう意識はない。「喰ラエ」と命ずる暗黒の声しかない。

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歌が聞こえる。

とさあのこおちの
はりまやばあしで
ぼおんさあん
かんざあし
かうをみいたあ
よさこおい
よさこおい

依子の故郷、COACHの唄。
あ、懐かしい。と依子は思った。

依子は夢の中にいる。
歌声にリバーブがかかっているから、それが分かる。

「起っきんしゃい」

と依子を起こす声がする。
猫のイングマールである。

「今日は学校じゃき」

そうだ。
今日は学校であった。

「おはよう、母さん」

依子は返事をした。
長い夢を見ていたようであつた。家族の夢。笑う母、笑う父、笑う兄。

黒猫のイングマール、即ち母から、父は死んだと聞かされていたが、兄は、何処にいるか知れない。依子の兄である辰夫の行方は知れない。

朝食はイングマールが作ってくれていた。
鰹出汁の味噌汁に豆腐と若布が浮いている。白米。小鉢に鰹の佃煮。胡瓜の漬物。

猫みたいな食事だ、と依子は思った。

キッチンのテレビをつけた。
母であるところの黒猫イングマールも隣に侍っていた。

朝のワイドショーはグアテマラのコーヒー豆のフェアトレードについて報じられていた。 現地のリポーターがコーヒー農場で働くひとに取材をする。

「そうですね、ここで働く人々はちょっち過酷な環境で働いています。ちょっちお休みもありません。」

テレビを耳で聴いていた依子は、繰り返される「ちょっち、ちょっち」と言う言葉が耳に障って顔を上げた。答えたのは若い日本人青年だった。

「ちょっちね」

アフロヘアーがふさっと揺れた。

「お兄ちゃん」

依子は愕然と息を呑んだ。
兄、辰夫だ。生き別れた。
辰夫がグアテマラ?にいる?
(何故彼の人はアフロヘアーであるのか。いやそんな事よりも。)

「お母さん」

依子は母を呼んだ。

イングマールもテレビに写った辰夫に目を白黒とさせている。
リポーターと辰夫の周りには農園の子どもたちが集まってきた。

どの子も黒い。
上半身は裸である。

「チミたち、あっちへ行きなさい、ちっちちち」

と辰夫が言った。
だが彼らには辰夫の言葉が通じない。辰夫と遊びたいのかからかっているのか、子どもたちはみるみる増えていった。
リポーターの言葉もしどろもどろとなって番組が収拾つかない。
依子はハラハラとそれを見守る事しかできない。

「コーヒー豆は彼らの汗の結晶なんだ。資本力にモノを云わせてそれを安く買い叩かないで欲しい。」
と収拾つかぬ喧騒の中、辰夫は訴えた。

その時、農民たちの中からどよめきが起こった。

辰夫が振り返る。
農民たちが逃げ惑っている。
そして依子は、イングマールは、テレビをご覧の日本の人々は見た。

突如現れた奇怪な「群衆」を。ある者は欠損し、肉腐して、型崩れた肉塊の群衆を。地中から今なお湧き出る其れら、はあからさまに亡者であった。

腐乱死体、の行軍であった。

「チミたち、早く逃げて」とテレビに映る辰夫は叫んだ。逃げ惑う農夫達に押されてテレビカメラの映像は激しく揺れた。
その画面の片隅に辰夫が映る。子どもたちを押しのけ、奇怪な「死の行軍」と対峙した辰夫が。

テレビカメラの音声が辰夫の呪言を拾っていた。
依子やイングマールの聞いたことのない呪言。
耳慣れぬ外国の言葉。
その時。
空から。
雷光の如く小鳥たちが飛んできた。辰夫の周囲を小鳥達が高速に翔ぶ。

「バイト」と辰夫は叫んだ。

テレビの中で信じられない事が起こった。一羽の鳥が次々と分裂し、更にそれらが分裂し、数瞬間の間に鳥たちは夥しい群れとなった。

それら鳥が死体たちに襲いかかる。嘴が土気色の肌を刺し、裂き、啄む。

依子はテレビ画面から目が離せない。
恐らく、カメラマンもリポーターも番組関係者も誰もがその、名も知らぬ日本人青年の起こした残虐ショーから目が離せない。

人間、其れはかつて人間であったもの、が畜生に喰らわれている。恐ろしい光景であった。
その鳥たちを指揮する辰夫の姿は人々の目に「悪魔」と写った。

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現在生きている人類の約0.0001%、つまり一万人に一人がゾンビです。

ゾンビではありますが、本当のゾンビではありません。彼らはゾンビとして十分に死んでおりません。ゾンビとして存分に生きておりません。ですから半分だけゾンビです。

書物がうず高く積まれた小部屋で学者風のせむし男が語る。

その話を実況中継で受け取ったコメンテーターが尋ねる。

「本当にそんなことありますか?」
「死んだことにも気が付かないなんて。」

コメンテーターは懐疑的だ。さもしい性格を表すように顔は骨ばって蒼白である。
そのコメンテーターを、カメラ越しにせむし男は指さした。

「例えばあなた。」

指をさされたコメンテーターはいかにも不愉快そうに眉をひそめる。
「私?」
せむし男は言った。

「死んでますよ」

そう言われたコメンテーターは「まさか」と笑った。
そして「本当?」
と顔を曇らせた。

そして。
砂塵の如く消失した。

それを見ていたイングマールは言った。
何が起こるか分からない世の中ねえ。
依子が大学に行った後、家に残ったイングマールは午前のうちに洗濯物を済ませて午後は主にワイドショーなど見て過ごしている。

そして。
パリンと、煎餅を齧った。

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辰夫は。
いまニカラグアでゾンビに対峙している。

この度のゾンビは精霊樹であった。
精霊樹は木に集まる動物たちを愛していた。 また動物たちも彼の事を愛した。
だが樹齢が三千年に達しようとした頃、彼は自らの寿命を悟った。

私は消えるのではない。
と彼は言った。
枯木として此処に残る。
今は生物として。今後は物体として。
もし日差しの暑いものがあれば、私の影で休むが良い。
もし凍夜に震えるものがあれば、私の枯れ枝で火を焚くが良い。
私はずっとあなたたちを見守っている。

そう言って多くの動物たちに見守られて彼は息を引き取った。

息を引き取ったが、一週間後に彼は甦った。過去を失くしたゾンビ―として。
蘇った彼はまず、木陰で休んでいたウサギたちに枝葉を伸ばし忽ち食らった。
枝に巣を作った鳥たちと卵達も忽ち食らった。
彼は猛烈果敢に飢えていた。

精霊樹の暴走に困惑したニカラグア人たちはジュネーブにあるゾンビハンター協会に連絡した。
「精霊樹がゾンビになって困っているんです。」
「焼けば良いですか。」
「なんというか、その、それでは子どもたちの夢が壊れるんです。」
「どうしたいと?」
「できれば生き返る方向で」
「うーん」
連絡を受けた交換台は困り果てた。
世界各国のゾンビ問題を解決するのがゾンビハンターである。
それはゾンビと人類が共存できない、ことを前提としている。
だが人間たちはゾンビの生前の姿に固執を捨てられない。

似姿に、いつか元に戻るのではないか、そのような幻想を抱く。
あわよくば「死んだ」のが夢であって、或いは仮死であって、生き返るのではないか、
と。
教会に寄せられるゾンビ処理の依頼に、近年そのような浪漫イズムが増加していた。

「死んでますからねえ。」
と電話受付担当は言った。
「生き返らないですよねえ。」
「でも」とニカラグアの長老は言った。
「動いているんです、元気に。」
「全く違うものなんですよ、ゾンビは」
ああ、何度俺は。と電話受付担当のシナイ氏は考える。
この説明をしただろう。
「精霊樹は死んだんです。それは確かです。そしてその死骸に別のゾンビ的なものが入り込んだんですよ。」
生前のパーソナリティとゾンビは全く違うのだ。
何より魂が違う。
「例えばね」シナイ氏は言う。
「あなたの体があって、その中にあなたの魂がある。そして私の体があって、この中に私の魂がある。」
「うむ」
「あなたの魂と私の魂がうっかり入れ替わったら、それはどうなるでしょう。私の魂で動くあなたの体はあなたでしょうか、それとも私でしょうか。」
「うーむ」とニカラグアの長老は変な返事をした。あ、例えが難しかったかな、とシナイ氏は反省した。
「例えばね」とシナイ氏は言う。
「ウサギの体にはウサギの心が入っていて、虎の体には虎の心が入っている。もし、これが入れ替わってウサギの体に虎の心が入ったら、それはウサギでしょうか、虎でしょうか。」と言い直した。
「そりゃ、勿論」長老は言った。
「虎ですよ。」

ウサギの体であったとしても、心が虎であるのならば。

「虎です、それは。」
「そうですよ。その通り。」シナイ氏は言った。
「精霊樹の体にゾンビの心が入ったんです。もうそれはゾンビです。かつての精霊樹ではないんですよ。」
「おう・・・」国際電話の向こうで長老が、その長老の周囲を取り囲んでいたニカラグア人たちが大きく落胆した声がした。

シナイ氏もまた、電話に聴こえないように大きなため息をついた。
俺はまた。何度こうやって人々を失意に突き落とすのか。愛する者を失った者たちは悲しい、とても。彼らにもう一度悲しみを教えなければならない。シナイ氏の胸が痛む。

電話が終わった後にシナイ氏は案件をコーディネーターにつなぐ。事務的な言葉を以て如何にニカラグア人たちが精霊樹を愛していたかを切々と伝える。

実のところ、ゾンビハンターの定義は一様でない。広義で言えば「ゾンビを狩る事ができる能力」を持っているものは誰もがゾンビハンターとなり得る。

ハンターによってゾンビの狩り方は大きく異なる。

主流はオカルティズム、或いはサイキックを用いるものであるが、そのような特殊技能を用いずとも罠や薬剤などで対処する者もあるし、私設の軍隊を使って重火器で対処するものもある。

コーディネーターの頭内には、それらハンターの特性がインプットされている。
その都度適切なハンターを探すのだ。

「パラグアイの辰夫」

に、コーディネーターは連絡した。

辰夫はニカラグアの精霊樹ゾンビに対峙していた。
辰夫のやることは一つだった。

「バイト」と辰夫は命じた。

小鳥たちが攻撃色に変色する。そして小鳥たちの物理法則が歪んでいく。小鳥たちのアイデンティティが増殖するのだ。一羽が二羽に、二羽が四羽に。次々と爆発的に小鳥たちが増殖する。ニカラグアの空を辰夫の小鳥が覆い尽くした。小鳥に小鳥が重なって、ニカラグアは夜になった。
精霊樹は空を仰いだ。

かつてこの樹齢三千年、精霊樹の視神経が自らよりも大きな生物を捉えたことはあっただろうか。
精霊樹、或いはそれを蝕むゾンビーは突如目の前に現れた圧倒的な力量にただ喘息した。

辰夫のゾンビハントは常に一瞬で終わる。世界中の誰よりも辰夫の力は巨大であった。

ニカラグア人たちは辰夫と精霊樹の戦いを見守ったが、小鳥たちに取り囲まれて、誰も精霊樹の最期を見ることができなかった。

一瞬間のうちに、実際にはたった数分間でニカラグアの精霊樹は姿を消したのだ。

精霊樹の姿を見失った時、ニカラグア人たちは悲しいとも嬉しいとも知れず、ただ精霊樹がもうこの世にないことを悟った。

「精霊樹は消えました。」とニカラグアの長老は後日、シナイ氏に語った。

「そうですか。」シナイ氏は言った。長老の語意に不満は無かった。失意も無かった。だからシナイ氏はこれで良かったのだと思う。

誰もが満足できる答えなど無いんだよ。

シナイ氏はこの顛末を恋人に語った。
ニカラグア人たちは精霊樹が目の前で倒される事に耐えられなかった。だから誰にも精霊樹が朽ちる様を見せてはいけない。そしてその残骸を見せてもいけない。樹齢三千年の精霊樹は巨大であって、その枝葉は天に届く。実際に国内の何処からも精霊樹の立ち姿を見る事ができた。ニカラグアの全国民がこの戦いを見守り、そして実の所、精霊樹の勝利を願っていた、と思う。自分たちで精霊樹の始末を依頼したにも関わらず、だ。それくらいに彼らの精霊樹への愛着が強かったんだ。

でもその一方で精霊樹の被害は大きく、誰かが精霊樹を駆逐しなければならなかった。ミスタータツオが選ばれたことは最適解であったと思うよ。

恋人はシナイ氏に尋ねた。もし、一番ふさわしくないのはどのようなハンターであったのか。

そうだね、もっとも相応しくないのは「マドリッドのアラン」だよ。彼はすべてを燃やしてしまう。全国民の目の前で精霊樹が燃えて黒焦げになってしまったら人々は失意から立ち直れなかっただろうね。

ニカラグアを去る辰夫を見送ったものはいなかった。ただ辰夫は五匹の小鳥、アンニュイ、バタラメンディ、モーリス、クトゥルフ、イワンコフを肩に乗せて旅船に乗った。

この話を聞いた依子は興奮してイングマールに訴えた。今すぐ兄に会いたい。

だがイングマールの返事はつれない。
「何故」と依子は泣いた。
「母さんは、兄さんに会いたくないの?」「母さんと呼んではいけないと言ったでしょう」黒猫は答えた。
「私はもうあなたの母さんではないのよ」

そして黒猫は付け加えた。
「それと同じく、あの辰夫ももうあなたの兄ではないわ。」
だが、その言葉は未だ幼い依子には通じない。

それから10年が経った。
依子は地方大学の文学部に進学し、後に文房具メーカーに就職。それとない恋をして結婚をした。

結婚したが、なんというかすぐに冷めた。
全くツマラナイ男だった。
冷めながら依子は自分の熱芯までも冷却させていった。10年間の間に依子は一度もゾンビを見ない。文房具メーカーの総務にゾンビハンターは必要なかった。

全くこれは依子の誤算であった。これからは世界中がゾンビだらけになる、という確信めいたものを依子は感じていた。だが、新薬が開発されたり、新たな医療器械がゾンビ予防を促進させたりと、世界のゾンビ発生率は年々減少の傾向をたどった。

結婚を機にパートタイマーになった依子は午後三時に仕事を終える。子供はいない。

午後三時丁度にタイムカードを打刻して、帰りの地下鉄に揺られた依子は黒いガラスに反射した自らの顔を見た。

生気が抜けていた。
一体自分の人生は何なのだろう。
見積書と発注書のひな型と請書と納品書と請求書の作成で一か月が過ぎていく。
それが12回続いて一年が過ぎる。その繰り返しで10年が過ぎた。

黒猫のイングマールに愚痴をこぼした。
「そんなものよ」とイングマールは答える。

夫はイングマールが依子の母の化身であることを知らない。依子の母であり、使い魔であり、良きアドバイザーであり、一番の友人であることを知らない。
イングマールも夫の前では喋らない。

「 稼津男さんも甲斐性ないわねえ」依子が去った台所に、一匹残ったイングマールは溜息をついた。そもそもが稼津男は生気がない。全くない。まるで死人だ。ひと昔前で言えばゾンビだ。夫である 稼津男を蔑ろにする依子の態度にも困ったものだが、それに何も感じない 稼津男にも困る。二人は全くかみ合わない。最近は会話もない。
イングマール、いや依子の母である栄子は自分の夫のことを思い出した。依子の父親も種類は異なるが全くダメな人間だった。駄目な人間に引き寄せられる、そんな所が母娘なのだろうか。

その時、ものも言わずに 稼津男が帰宅した。玄関が開閉する音で依子も稼津男の帰宅に気付いた。だが依子は稼津男に反応をしない。にゃあと擦り寄る事もなく、おかえりと人声を発する事もない。依子と、またイングマールと稼津男との関係性はすっかり破綻していた。

依子が作った(と見せかけてイングマールが作った)夕飯に稼津男はチラリと視線を送ったが、瞳の色を変えずに仕事着から部屋着に着替える。

何気なくその様子を見ていたイングマールはぎょっとした。
稼津男の小指がポロリと落ちたのだ。
落ちた小指を稼津男は無感動に拾ってゴミ箱に捨てた。

「なんなのよ」とイングマールは声を漏らした。
そして己が失態に気付き、慄いた。うっかり稼津男の前で人語を喋ってしまったのだ。
稼津男の耳にも届いてしまった。

「しまった」とイングマールの全身から冷や汗が噴出した。
だが、それに対しても稼津男は無感動であった。虚ろな視線をイングマールに向けたが、其処には興味の色が一切なかった。その顔をイングマールは改めて凝視した。そして気付いた。稼津男はいつの間にか死んでいる。いつの間にか稼津男はゾンビーになっていた。

イングマールは驚いた。何故、一体我々はそれに気が付かなかったのだろう。
そして困惑した。この男を、ゾンビ―になってしまった娘婿をどうしたら良いのだろう。

依子とイングマールはゾンビハンターである。ゾンビに関してはエキスパートであるが、いつの間にか死んでおり、死んでいるにも関わらず毎日勤労に努め、食い扶持を稼いでくるこの男を、何ら害のないこの男を、生かせば良いのか消滅させれば良いのかイングマールには分からない。勿論依子の母として、栄子の立場になっても分からない。

狼狽えながらイングマールは依子を呼んだ。

「ちょっとあんた」
「何よ」と依子は答えた。

依子は自室でベッドに寝っ転がって漫画を読んでいる。この子はいつになっても子どもだ。子どものまま年老いていく娘に不安を覚えるが、今はそれどころではない。

「聞きなさい。」
「だから何よ」
「稼津男さん、ゾンビなのよ。」
「ええ、まさか」
「そうなのよ、本当に」
「そんなの、いつからなのよ」
「知らないわよ、さっき気付いたんだもの」「どうして気付いたの」
「小指が落ちたのよ」
「ええ」
「それを拾ってゴミ箱に」
「普通、小指は落ちないわねえ」
「それであたしもうっかり喋っちゃって、そしたら目が合ったの」
「喋っちゃったの?」
「そうなのよ」
「それで?」
「それが、全く関心がないのよ」
「関心が、ない」
「ちょっと、あんた一度見ておいでよ」

半信半疑の依子はシャワーを浴びている稼津男を覗きに行った。
浴室のドアを開けた。
稼津男がシャワーを浴びている。
突然開いたドアに反応して稼津男は振り返った。
全裸の稼津男の中心に稼津男の男性性がぶらさがっている。
依子は自らの夫の男性性を凝視した。
それから稼津男の表情を伺った。
虚無である。
稼津男は何ら興味のない虚無であった。

依子はドアを閉めた。曇りガラスごしに稼津男が見える。稼津男は機械的にシャワーを振り返り再び洗身を続けている。

「どうだった?」
とイングマールは依子に尋ねた。
「見て来たわよ、本当ね。死んでる、アレは。」
「そうでしょう。」
「びっくりよ」
「そうね、びっくりよ」

まさかゾンビのエキスパートたる二人が近親者のゾンビ化に気付かなかった事に驚きを禁じ得ない。

「それであんた」とイングマールは尋ねる。「どうすんのよ」

依子は即答した。
「このままよ」
「ええ」イングマールは素っ頓狂な声をあげた。
「どうしてよ」

夫がゾンビでも構わないというのか我が娘は。その神経に呆れる。
「だってゾンビと分かった所で今までと何も変わらないじゃない。」
「そうじゃなくて」とイングマールは反論する。

「稼津男さんがゾンビなんだから、消滅させれば離婚成立じゃない。」

そうしてまともな男と再婚すれば、依子もまた違った人生を送る事ができる。と母、栄子としてイングマールは考える。

依子がいたずらに時間を浪費しているように見えて、イングマールは日々が不安なのだ。

「アイツ、ゾンビなのに外で稼いでくるのよ。そしてゾンビだから食費だって不要なのよ」と依子は言った。

ああ、とイングマールは思う。この娘も大分、破綻している。

この日、イングマールの人生目標に、愛娘を正道に導いてくれるような再婚相手探しが加わった。

時に世は西暦2016年であった。季節は春であった。東京は四年後に開催されるオリンピックについて浮世熱が高騰していた。専ら人々の話題はオリンピックの新種目である。

「個人的には」と依子は言った。
「熱気球とか良いわね」
「熱気球?」摩天楼の高層バーで依子とカクテルを楽しみながら晴彦は言った。
「熱気球なんて競技にならないじゃないか」「熱気球のレースよ。実際にオリンピックの種目になっていたのよ。」

熱気球レースは現在、オリンピック種目からは外れている。オリンピック種目であったのは1900年のことであった。
モンゴルフィエ兄弟が発明した熱気球は1973年に初めて有人飛行が成功した。人為の力で初めて人間は地上を離れたのである。熱気球やガス気球は1903年にライト兄弟が飛行機を発明するまで主要な航空機械であった。

「この前ね、テレビにカッパドキアが映ったのよ。熱気球が次々飛び立ってね。気球に乗って朝日を見るツアーが流行しているのよ。」

カッパドキアの奇岩が朝日に光っている。その中を悠々と飛翔する熱気球。その色彩。

均整の取れた円球と奇岩。その不均衡が朝日の中で調和していた。その美しさは依子が幼くして描き続けた夢であったかもしれない。

依子の家はなるべくして離散した。それは運命であった。予定調和であった。奇岩は奇岩のままに、円球は円球のままに。それを運命と呼ぶのなら奇岩と円球が調和するカッパドキアは運命を覆す美しさであったと言える、少なくとも依子の目にはそう映った。土色一色の奇岩は依子の人生である。気球に当たるものがまだ無い。

あれこそが依子の求めていたものである。依子は気球に乗って飛びたい。隣にイングマールがいる。いやイングマールはいなくても良い。一人でも良い。恋人がいても良い。稼津男の事が頭をよぎった。

ツマラナイ男だ。とうとうゾンビになってしまった。

アレもまた依子にとっては奇岩の一つだ。そう言った依子の呪縛を気球の上から見下ろしたいのだ。

晴彦は依子の手に自分の掌を重ねた。晴彦は依子の職場の上司である。 婚姻している。子供が二人いる。

骨ばった晴彦の手の甲が依子の手を包むのを見て、その冷めた体温を感じてつい依子は手を引いた。

東京はオリンピックの新種目の話題に高揚している。

厚生労働省はその年の夏にゾンビ収束宣言をした。
世界で初めてゾンビが確認されたのはベトナム戦争が佳境に入った1961年の事である。 ゾンビ現象は瞬く間に世界に拡散した。
1968年にはジョージ・A・ロメロ監督が不朽のゾンビ映画「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」を発表した。
ゾンビに立ち向かうため、世界に偏在するサイキッカーはジュネーブに集結しゾンビハンター協会を設立。

以来50年、ゾンビに抗してきた。依子も幾度となくゾンビ退治に協力してきた。傍らにイングマールを置いて。

だが、この10年、ゾンビハンターとしての依子を求める事は無かった。

とうとう。
ああ、とうとう。
終わったのだ。
ゾンビ時代の終焉は確信されていた。依子にも分かっていた。

だが改めて収束が告げられると依子は、亡国にも似たある種の絶望を覚えた。

ゾンビハンター達は今後どうなるんでしょうか、とニュースキャスターが招聘された有識者に尋ねていた。

有識者がフリップを出す。

1961年 ゾンビ初めて発生

と書いてあった。

そして矢印が引かれてシールが剥がされると「世界中で爆発的増加」と書かれ、更にその下に矢印があり、

「ゾンビハンター協会設立」とあった。

そして2005年、新薬開発。医療機械カーボナイザーの販売開始。

その下の矢印には「ゾンビ減少」。そして2016年に「収束宣言」。

そして。

最後のシールが剥がされた。

「ゾンビハンターのスポーツ化」。

ゾンビハンターは人類を救うための逼迫した役目を終えて、今後は娯楽として存続する。まず手始めに2020年に開催される東京オリンピックの正式種目に。

有識者はゾンビハンターのナレッジをロストしてはいけない、と繰り返して語った。

スポーツ振興の名のもとにゾンビハンターを国家が保護するのですね。

キャスターが補説した。

欺瞞だ。ゾンビハンターである依子や、イングマールにはこれが国際的な欺瞞としか思えない。

保護とは随分と行儀の良い言葉だ。国家は、世界はゾンビハンターの禍々しい力を恐れているのだ。

10年前のニカラグア事件について依子は考える。

ニカラグアに現れた巨樹のゾンビは大規模災害レベルの被害をもたらした。周辺半径10キロ圏内の村々は巨樹の撒き散らす毒粉によって為す術もなく壊滅した。

そして巨樹は種子を実らせた。種子は驚異的な生育を見せて次々発芽した。

発芽して毒粉を巻き続けた。次々に村は壊滅し、廃墟と化した村は悪魔の木の苗床となり、その被害は止めどなく広がった。

人々は世界の滅亡を予感した。

この大規模災害を一体誰が解決できるのだろう。この強大な暴力を止める事など誰に出来よう。

世界を侵食する悪魔の木の前に立ちはだかったのは、一人の日本人ゾンビハンターであった。彼は当時、既に世界最強の能力者と認識されていた。

圧倒的なハントであった。

国中を、空を、彼の能力「小鳥」が覆った。その範囲は人工衛星から撮影された。全土に広がった巨樹の猛威は一瞬で駆逐されたのだ。

彼は英雄として称賛された。

だが彼の存在は、人々にとってそれ以上に恐怖であった。今はゾンビに向かっている彼の暴力がもし人類に向かうことがあったら。核兵器に匹敵する程の力が暴走したら。

ニカラグアを去る彼を見送ろうとする者は誰もいなかった。彼は一人で旅船に乗った。

船は三日をかけて南洋を航行する予定であったが一日目の夜、バミューダ海域にて船は失踪した。

海賊に攫われたとも、彼を恐怖する国家によって爆破されたのだとも言われる。失踪した場所が例の三角点であった事から彼は時空の狭間に落ちたのだとか、未来人に連れ去られたのだとかそのような俗話も盛んに風聞され結局真相は分からなかった。

だが依子は兄である辰夫、人類史上最強の物理力を誇るゾンビハンター、の力を恐れた権力が兄を殺したのだと思っている。

ジャパン国の諺に「出る杭は打たれる」とある、とイングマールが言った。

世界中の人々と平和を愛するゾンビハンター達が自らの身の置所に危機を感じた事件でもある。「国家的陰謀によって自分たちも消されるのではないか。」イングマールもまた危惧した。

依子は晴彦との交際が続いていた。晴彦は依子がゾンビハンターである事を知らない。その呪われた血脈を知らない。

晴彦にとっての依子は若くして一家離散によって家族を無くし、苦学の末に地方大学の文学部を卒業。地元の文房具メーカーに就職し、ツマラナイ男とツマラナイ結婚をして、現在夫婦間は冷戦に突入したパートタイマー、である。

依子は黒髪が美しい。

その黒髪を撫でることが晴彦は好きだ。

そうすると依子はくすぐったそうにして晴彦の手を払う。

未だ同衾はしていない。接吻すらもしていない。決定的な出来事を、依子の道徳観を押し流す奔流を晴彦は待っている。

「旅行にでも行こうよ」

と晴彦は言った。

「一泊二日で温泉にでも。」

だが依子に決心は着かない。

或日、依子は事務用什器の納品書をまとめていた。県内に大きなショッピングモールが出来るのだ。使用される什器は膨大で、デザイナーが作った図面から一点ずつ商品と数量を拾わなければならない。今朝から生理が始まっており、鬱屈した思考回路の中で仕事は遅々として進まない。

必然と苛々する。どうしても棘が出る。

そんな様子は周囲にも多少の影響を与えていて遂に係長から咎められた。

咎められて機嫌が回復するでもなく、却って発散できない抑圧が依子の不機嫌を募らせる。

台風が来ているという。

昼間を過ぎて風は不穏に強くなり始めた。遥か上空で軋んでいる空気団の軋轢が電気となって遠雷が聞こえる。

湿度が高まるにつれて隣に座る同僚の男はぶよぶよした美白肌から油を滲ませて変な匂いを発し始める。

エアコンが壊れた。

先日の納品について作業員の態度が悪かったから売価を下げるか、お詫びとして何らかの商品を追加で入れろとクレームが来る。

今朝、出勤前にイングマールと喧嘩した。

つまる所、依子にとって最悪の一日である。

ひたすら我慢。と依子は念じる。熱射に耐えて苦行するバラモンの気分である。

時刻は午後2時50分。パートタイマーの依子の定時は3時であるため、この時間は終業10分前であった。

もうすぐだ、と依子は定時が近づく事に救いの光芒を見た。

依子が今日の片付けを始めようとするとガヤガヤ音がして営業部の部長が総務部に怒鳴り込んできた。

納品書と其処から作成された請求書に間違いがあって先方との間に致命的なトラブルが発生したのだと言う。

どうも経緯を辿ると依子に帰着する。

「使えねえ女だ」

と一頻り罵声を浴びせた後で営業部長は吐き捨てた。

依子は自らを律していたが、不調の身体はこの不慮の事態に敏感に反応した。

依子の椎間板がぞわり、と音を立てた。体中を悪寒が駆け巡る。総毛立つ。鳥肌が立つ。

目覚めてしまう。と依子の理性が慮ったが理性の声は既に小さく、代わりに依子の中心には狂暴の獣がその存在を膨らめている。

依子の神経系が美しい黒髪のように漆黒に変色する。依子の肌にその黒線が浮かび、依子の節々は急速に、金属質の音を響かせながら歪な瘤を作り始めていた。

依子は次の瞬間に自らの体に起こる変化を知っている。増殖の命令を受けた依子の細胞は物理法則を無視して肥大し続け、依子は暴力性の命ずるままに人型も保てぬ歪な巨人となる。摂食本能に支配された空腹の虚無。その怪物はあらゆるものを喰らい尽くす。

もし、いまイングマールのいない中で変身してしまったら。一体依子を誰が止めるだろうか。

忘我した依子に声を掛けられるのは母であるイングマールだけなのだ。依子もまた世界に比肩する者のない「災害レベル」の異能者である。暴走すれば都市の一つも消滅しかねない。

依子の体節で、変形の瘤が大きく膨らむ。

「開放セヨ」と内なる声が命ずる。

「コバヤシヨリコ」

と依子は

不意に名前を呼ばれた。

見知らぬ男が自分の名前を呼んでいる。

「コバヤシヨリコ」男は再び名前を呼んだ。

青白い貧相な肌に黒いスーツ。黒い帽子。黒いサングラス。相似形の衣服に身を包む二人組であった。

突然現れた部外者に周囲は時間を止めた。

男は再び依子を呼んだ。

「コバヤシヨリコさんはおられますか。」

我を取り戻した依子は返事をした。

「私です」

怒りは消えて定時を待つパートタイマーの依子に戻っていた。

「こんにちは」と男はニヒルに微笑んだ、ようにも見える。

「オリンピック委員会です。」

あなたをトーキョーオリンピックの女子ゾンビハンター強化選手として迎えに参りました。

男の差し出した赤紙に「強化選手ご協力のお願い」と書いてある。

総務部長と係長、そして何故か居合わせた営業部長はオリンピック委員会の二人組と応接室で対峙する。

勿論その隅には依子も小さく座っている。

「コバヤシ君はゾンビハンターなんですか」

と係長が尋ねた。

オリンピック委員会の男が答える。

「その通りです。」

「あのゾンビハンター?」

「その通りです。」

「其れはどのような?」

と営業部長が尋ねた。

誰もがゾンビハンター達の破天荒な異能ぶりを知っているのだ。

「かいつまんで言うと」と言いかけて黒服の男は依子をチラリと見た。

「言わないで下さい」

と依子は言った。

「言えません。」

と黒服の男は営業部長に言った。

「だって説明されないと話が進まないじゃないか」

と営業部長は答えた。

「進まないんですか」

と依子は言った。

「そうだろう」と営業部長は答えた。

依子は係長を見た。

「まあ、そうかもしれません」

と係長は言った。

依子は黒服の男を見た。

「かいつまんで説明すると」と黒服の男は説明を始める。

「コバヤシヨリコさんは能力を開放するとおよそ新宿都庁三つ分の大きさに膨らんで、この世のあらゆるものを食らい尽くします。」と黒服の男は説明した。何ら誇張ではない。

「ええ?」

と営業部長が言った。

「なんてことだ」と係長が言った。

「ひどい女もいたもんだ」と心の声が聞こえたような気がした。

「どれくらい食べるんですか」

と総務部長が尋ねた。

「練馬区が地図から消えてなくなるくらいですかね」と黒服の男は言った。

「そんなに食べません」と依子は言った。未だ依子の中に残る乙女が言わせた。

「その気になれば」と黒服の男が言う。

「それくらい食べますよね」

事実である。依子は反論できない。

「フードファイター」と係長が呟いた。

その日から依子は東京オリンピック正式種目女子ゾンビハンターの強化選手となった。

後日ゾンビハンター強化選手を集めて説明会と懇親会が開かれた。

配布資料の中には強化選手の一覧が掲載されていた。知っている名前も幾つかいたが、兄辰夫の名前はなかった。

「兄さんの名前がないわ」

依子は言った。

「辰夫に固執するのはおよし」

イングマールが言った。

もしかしたら兄に会えるのではないか、依子は淡い期待を抱いていた。国内の名だたるゾンビハンターが集まるとなれば、兄はその筆頭とも言える。いない筈がない、と半ば確信を感じていた。

不意に。

「やあ」と依子は声を掛けられた。ドキリとして振り返る。

同年代の男が笑っていた。見知らぬ顔だ。

「あなたも強化選手?」

と尋ねられた。

「ええ、一応」と依子は答えた。

「お名前は?」

と尋ねられたので名前を答えた。

「ああ」

と依子の名前を聞いた途端に男は曖昧な笑みを浮かべて、途端に口調はしどろもどろとなりその後の挨拶もそこそこに足早に立ち去ってしまった。

「なんだい、ありゃ」

イングマールが言った。

「慣れてるわ」

依子は言った。

依子は友達がいない。

説明会の後に暫く質疑の時間が取られた。

幾つか他愛のない質問と回答が続く。

「ホンゴウタツオの名前がありませんが」

兄の名前だった。

質問者は若い女だった。

「ないですねえ」

オリンピック委員会の担当者は言った。

「ホンゴウタツオは実力不足とでも」

女は言った。会場がどよめいた。ゾンビハンターホンゴウタツオの名前を知らぬ者はいない。

たった一人で「国家」をも滅ぼしかねない暴力である。寧ろ、その名前を口にする事すら憚られる。

その空気を感じていたからこそ依子もその質問はできなかつたのだ。「出る杭は打たれる」という日本国のことわざは深く依子に浸透していた。

外国人かしら。依子は思った。一見して日本人のように見えるが、帰国子女ということもあり得る。

「お母さん、あの人、日本人かしら。」依子は小声でイングマールに聞いた。

「またあんた馬鹿なこと考えてるのね」とイングマールは呆れた。

「ホンゴウタツオ氏はご存知の通り、生死が定かではありません。この10年、ゾンビハンター協会がホンゴウタツオ氏の行方を探しておりますが、彼に関する報告は何も無いのです。」

誰もが知っている話だった。

「私の情報筋からはホンゴウタツオが見つかったと聞いております。そしてJOCは既にホンゴウタツオ氏に接触したとも。」

会場が大きくざわめいた。

依子もまた驚いた。兄が見つかった?

「エルビス・プレスリーやヒトラー、植村直己が未だに生きている。そんな都市伝説が消えてなくなる事はありません。勿論私達もホンゴウタツオ氏の行方を探しております。しかし、ご期待に添えるような成果は何もない、と言うことが目下の回答となります。」

次の質問は、と聞かれて小さくてチャーミングな女のコが「恋愛は禁止ですか」と聞いていた。

説明会の後で依子は声を掛けられた。

先程兄のことを質問していた女性だった。

「あなたコバヤシヨリコさんじゃない?」

「変なのと関わるんじゃないよ」イングマールが依子に耳打ちした。

「あら、あなたは黒猫のイングマールね。噂通り美しいわ。」

イングマールは依子の耳元で舌打ちした。

「私、あなたのお兄さんのファンなのよ。」と女性は言った。
「兄とはもうずっと会っていないの。」と依子は言った。
「そうなの」と女性は言った。

「またね」

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イングマールは死んでいた。

何故。

依子は慟哭した。
嗚咽した。憎い、全てが。

その日から依子は強化合宿から姿を消した。

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「お兄ちゃん」と依子は言った。「また皆で一緒に暮らそう」

依子は呪言を唱える。
依子の言葉が空間を歪ませていく。見よ、地獄の蓋が開くのだ。
彼方の世から死者たちが蘇る。

依子の足元に黒い円が描かれた。
穴だ、何もない、虚無の。

その穴から浮かび上がる死霊たちがいた。
二体の屍体。

それは辰夫にとっても見知っている、肉親の。
辰夫の、そして依子の父、そして母であった。

「また一緒に暮らそう」依子は言った。

(未完「ゾンビハンター・不倫妻依子、温泉無頼」村崎懐炉)

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