小説「死びと詩集(へるん先生1901)」
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「死びと詩集(へるん先生1901)」
3300文字
御首了一
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新美資雄が昨年に死んで、ヘルン先生は焼津にて今年は殊に駿河湾を感慨深く眺められて、いつものようなひと夏が終わり、東京に戻ると富久町には秋が近付いておりました。
暫くして九月。仲秋の夕刻。
先生がお子様達を連れて瘤寺に散歩に行かれるというので、私も先生達に付いて参りました。無骨を組み立てたような寺門をくぐって墓々のあいだの細道を歩きました。先生には気に入っている墓が幾つかあって、戒名の意味をご自身で調べて私たちにお話するのでした。「自証院殿光山暁桂大姉」とあるのが、瘤寺建立の開基となった振姫様で先生はその戒名を「光明山の月明かり」と訳されました。
夏中、あれだけ騒いでいた蝉はもう鳴きません。瘤寺の寂寥には秋の虫がそろそろと鳴くようになりました。
先生が虫の音を聞いてはアレは何の虫、と一雄ちゃんや巌ちゃんに話をしています。
急に、近くでお囃子の手鉦を鳴らしたように草雲雀が鳴き出しました。先生は一雄ちゃんと巌ちゃんに「コレハ、クサヒバリ」だと教えました。「何処ニ、クサヒバリ、イマスカ」と言うので子供らも私も墓石の裏や卒塔婆の間、叢の陰など探しましたが、草雲雀の声は極々近くで鳴いているようで、その実、それは遠くの声が反響しているようでもあり、声の出処は何処か知れず、幻想の中に迷い込んだような不思議の心持ちがしたものでした。
草雲雀、を見つけたのは小さな巌ちゃんでした。
羽翅のひしゃげて腹が潰れた草雲雀が黒蟻の行列に運ばれておりました。先まで聞こえていた草雲雀の声はもうしません。果たして鳴いていたのはこの死にかけの草雲雀の、最期の痛哭なのか、はた仲間の草雲雀が哀悼したものか、不意に墓地は何ンの音も無くなって、静謐となりました。静謐の中でただ私たちは葬送の草雲雀を黙って見送るのでした。
空がヤケに赤黒く染まっておりました。
「パパサマ、虫、どうなりますか」
小さな巌ちゃんが言いました。
「ナンボウ、カワイソウ、コノ虫、モウ、死ニマス」先生が仰いました。
「バラバラにされて食べられちゃうんだよ!」一雄ちゃんが言って巌ちゃんのお尻を摘んだので、巌ちゃんがびっくりしてキャっと言いました。一雄ちゃんは笑いましたが、先生は無言のまま、沢山の黒蟻の口鋏によって生きながらバラバラにされるだろう草雲雀を見ているのでした。
「……先生」私は憚りながらお呼びしました。
もう九月です。辺りはすっかり暗くなって、墓石の四角い縁が誰そ彼れ刻の薄闇に溶けて参りました。先生のお顔は夕闇に黒く塗り潰されて、真っ黒なお顔に白眼がひとつ光っておりました。
「本当に先生なのだろうか」誰そ彼れ刻には隣人に化けた魔が現れると言います。私達を墓地に誘ったのは本当に先生、だったでしょうか。
私は返事をしない先生の、見えないお顔を見ながら、急に不安に感じたのでした。一雄ちゃんらにも、私の恐怖が伝染ったのか、黙ってしまって、巌ちゃんにおいては小さな声でエッエッと泣き出してしまいました。
「ニンゲン、死ヌノトキ、戒名、送ルデス」先生が言いました。
「戒名貰ッテ、皆ンナ、詩ニナリマス。ソシテ、詩ノ夢ノ中デ生キル、シマス」漸く先生は喋ったのでした。
戒名を貰ッテ、死人は詩になる。先生らしい解釈でした。先生にとっては異界であるこの国の、我々が当たり前と思って疑うらくのないしきたりを、我々が思ってもみない方法で解釈をするのです。そして先生の解釈によって異界となったこの国に、私たちは招待をされるのです。先生はいつも漂泊の旅人で、私たちもまた先生の前に立つと旅人になるのでした。
戒名には故人の「その人らしさ」が暗喩的に表記されます。戒名は生前の生き様を表した詩です。墓標に詩を刻み、生前を夢見ながら安らかに眠って欲しいと、そうした安寧の願い方もあるのです。
しかし、死んで戒名の無い者共も沢山います。虫や動物たち、或いは植物。そして人間にも。
先生の周囲を囲んだ墓石に並ぶ卒塔婆の墨文字が、闇を重ねて色濃く浮かびました。どれも戒名の無い水子供養のものでした。生まれる前に死んだ子ども達には戒名がありません。無から無へ。生を授くる事なく死んだ子ども達。彼らには語る名前も戒名もありません。
「コノ虫ニ、戒名、付ケマショウ」先生は言いました。それから先生は「koji ,- plays the bell alone in the shadow of the grass……」と言いました。草葉の影で孤独に鈴を鳴らす。
「草陰院独鉦雲雀大居士」と言った所でしょうか。「alone」と言った先生のお顔は暗闇に隠れて見えませんでした。誰そ彼れに沈んだ真っ黒なお顔でしたが、そのお声はいつものお優しい声音に戻っておりました。が、その声音に陰影を孕んでいたように思います。
「誰か来るよ……ッ!!」一雄ちゃんが震えながら言いました。誰か歩いて来ます。とうに日も暮れた墓地に歩く者など居る筈はないのに。
墓石を見間違えたのだろう、私は思いました。しかし見間違えではありませんでした。墓石の並んだ狭い通路の向こう側にひとがおりました。
どんどんその者は近付いて参りました。逢魔が時の魔が現れたのだと子どもたちは先生の背中に隠れて怖さに震えました。先生も子どもたちを庇っておられました。
誰そ彼れ刻の闇に沈んで、その者の顔は黒く、姿形も曖昧で影としか分かりません。その影がどんどんと近付いて参ります。はた我々の命を刈り取る死神が現れたのかと私も恐ろしさに震えました。
「ママさん」先生が仰いました。近付いて来た者とは子どもらの帰りが遅くなるのを心配した奥様でした。もうご飯の支度が出来たようで呼びに来たのでした。途端に子供らが安堵して、奥様に駆け寄りました。緊張していた空気が和み、温かに変わりました。瘤寺の門前にある先生の御屋敷から漂う夕餉の匂いが此処まで届くかのようです。
また鈴虫達が鳴き出しました。
り、り、り……。
り、り、り……。
「秋ノ虫ニ戒名、付ケマシタ」先生は奥様に仰いました。
「パパサマ、虫に、戒名、変です」奥様はお笑いになりました。
戒名は夢。戒名は文学。戒名は詩藻。死者は詩となって夢の中に暮らします。昨年の秋に東京高等商船学校の練習船、月島丸が遭難して間もなく一年。学生79人が海の藻屑となって死体も戻りません。先生の書生であった新美資雄も死にました。爽健だった新美資雄の死体が今も海底に沈んでいて孤独の只中にあると考えるのは偲びない事でした。彼が、詩となって夢の中で幸福に暮らしているなら、どんなに良い事でしょう。私も新美が安寧の夢の中で眠っていることを願って止みません。
り、り、り……。
り、り、り……。
先生が愛した和歌のひとつに一休宗純の歌があります。
わけのほる ふもとの道は おほけれど
同じ高ねの 月をこそみれ
誰もが同じ月を見ております。
死んだ新見も、水子達も、今まさに聖餐に供されて死にゆく草雲雀も。今は生きている先生も、子どもらも。同じ月の下で生まれて、死にます。
夕餉の後に、先生と奥様は縁側に並んで庭を見ておられました。
庭の其処此処から秋の虫の小夜曲が聞こえております。お二人は静かに虫の音を聞いているのでした。
「ワタシ、死ヌ時、戒名、要リマセン、オ墓要リマセン、ワタシノ骨、田舎ノ寂シイ寺ニ埋メテ下サイ」と先生が仰るのが聞こえました。近親の人々が次々死ぬからでしょうか。最近、先生は時折自分の死んだ時のことを話すようになりました。
り、り、り……。
り、り、り……。
虫達が鳴いております。
「パパサマ、ワタシがパパサマの戒名、付けて、あげます」と奥様が仰いました。
「一緒の戒名付けて、一緒の夢、見ましょう」
り、り、り……。
り、り、り……。
死者たちの夢に呼応するかのように、虫たちが鳴いております。もしかしたらもうこれが、死人の夢なのではないか、そんな不思議の晩でした。
先生は奥様をご覧になりました。
「如何ニ、戒名、付ケマスカ?」
「パパサマ、お鼻高いから、鼻高院殿小泉パパサマです」
奥様がそう言って、お二人はお笑いになるのでした。
(了)
#小説
#小泉八雲
#墓表
#NEMURENU
#ネムキリスペクト
(小説「死びと詩集(へるん先生1901)」御首了一)
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草稿ノート
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本編の主人公は小泉八雲邸に暮らした書生、玉木光栄であるが文中に玉木光栄を想起させる箇所は無い。
そのため小泉八雲以下登場人物は明らかであるにも関わらず、「わたし」を名乗る主人公像だけが不透明で釈然としない。
本編小説のエピソードは創作であるが、
小泉八雲が日本の戒名について調べた内容は「異国情緒と日本(1989年)」に所収されれおり、本小説は主に本書を参考文献としている。本書では小泉八雲が瘤寺の墓の中から多くの戒名を選んで英訳をしている。恐らく現代の言葉で言えば無許諾使用であり、当家が知らぬ間に海外に故人の戒名が紹介されていたわけだから、後世になってそれによる奇縁が生じたかもしれない等と想像すると面白い。また戒名の説明にあたっては忠臣蔵の赤穂四十七士の戒名について触れており、全ての隊士の戒名に刀と刃の二字が諡られていることも紹介するなど戒名に対する造詣の深さが伺われる。
わけのほる ふもとの道は おほけれど
おなじ高ねの 月をこそみれ
一休宗純
の和歌も異国情緒と日本の「戒名」の章中に紹介されている。
本編小説の舞台となったのは1901年の9月。場所は小泉八雲邸の目の前にあった自證院、通称瘤寺。徳川家光の側室であったお振の方の死後に建立されている。
瘤寺の杉の木が切られた事からそれまで懇意にしていた瘤寺と絶縁し、転居までしたという、所謂「瘤寺事件」は1901年10月に起こっている。瘤寺事件によって小泉八雲は大久保に転居したので、この場面は瘤寺の境内を散策した最後の頃、という想定。
前年1900年11月に月島丸が遭難して、小泉八雲が邸内に初めて招いた書生新美資雄が死んでいる。また1900年10月は小泉節子夫人の養父、稲垣金十郎が死没。1900年は八雲にとって死臭の付きまとう年であった。