小説「G 怨霊村の恋」
(更新履歴)
20240801 初出
20240802 結末を加筆、「狐と呼ばれる一族」、ミナミが遠縁の従姉妹になる
あらすじ「G 怨霊村の恋」
僕は死んだ姪、花都長良千代を弔うためG村を訪れた。G村では恋をしてはいけない。恋の怨霊に呪われた土地だから。恋に堕してはいけないと知りつつも、姪の双生児である花都長良美代と僕は亡き千代の葬儀の準備をしながら、次第に距離を縮め、いづれとなく恋に堕ちるのであった。恋色に染まった僕を見て隣家の老婆が不吉に叫ぶ。僕と、美代、そして死んだ千代の三角関係が始まる……。御首了一が贈る純文学恋愛ホラー。(15000字 読了時間40分)
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G村の田園に心地良い風が吹く。
炎昼、とめどない蝉時雨、碧落に聳える雲の峰。
僕は屍人の為にG村にいる。
遠くの農道を、僕とは無縁の葬列が歩いて山裾の火葬場に向かう。喪服を着て顔の無い人、人。人々の静かの行進。
稲穂の青く茂った瑞々しい田園と、抜けるような青い空。深く青い山稜。晩夏。
蝉は死ぬ。死蝉の腹腔から漏れ出づる啾啾の声。集まる蟻蟻蟻蟻蟻蟻蟻蟻。外骨格の伽藍堂。出棺と喪服の人々。人々の担ぐあれは棺桶という伽藍堂。がらんどうがらんどう、山寺の鐘が鳴って僕はそれを見ている。
風が吹く。その風の行先に。
僕の愛した姪御は田舎建の木造平屋の昏い仏間で、美しかった顔を白布で隠して冥っている。
今日はあの葬列を最後にして火葬場の仕事が仕舞いだから、彼女が焼かれるのは明日。今日はもう何ンにも無い。何ンにも無い。
青天から波羅波羅と小雨が降り出した。
晴れ間に降る雨を狐雨、とこの地方では呼ぶ。
前夜。
良き友人でもある従姉妹がカードを使った古い占いをしてくれると云うので、嫌々ながら付き合った。
従姉妹と言っても本当の従姉妹ではない。もっと遠縁の何か、だ。民間の地図作成会社から国土地理院に出向が決まって配属された部署で彼女と知り合い、お互いの情報交換の中で遠縁の親戚に当たる事が分かった。この関係性を呼ぶのに感覚的に相応しい言葉が見つからず、合理的に従姉妹ということばに嵌合する事で合意を獲た。
黒い記号の三つの数字が縦に並んで従姉妹は言った。
「死の暗示だ、君は死ぬよ」
「馬鹿を言うなよ」
「もう一度やろう」
カードが切られて、僕の恣意で一枚を選び、それに付随して二枚のカードが選ばれた。
それを一枚ずつ捲る。
「やはり君は死ぬよ」
良き友人にして従姉妹たる彼女は言った。朗らかで屈託なく笑顔だ。
「先程とは違うカードだ」僕は言った。
「そうだね、先程とは異なる結果だ」
「それでは何故?」
「このカードの暗示は恋」
「恋?」
「身を焦がす程の恋」と、彼女は言った。僕の心裡の神妙が増して、僕は彼女の言葉を繰り返した。
「……恋」
「そう、君は恋によって死ぬ、という暗示」
「死ぬ程苛烈な恋をするということ?」
「いや、もっと物理的な死。恋に落ちる事で、君は物理的に死ぬよ。恋に気を付けな、死ぬから」
僕の顔を興味深げに観察しながら彼女は言葉を続けた。研究職である彼女はカードの暗示と、僕の因果が彼女の研究欲を満たす対象になったようだ。
「恋とはなんだろうね」
「さあ、何かな」
「恋とは良いものだろうか」
「分からないけれど」
恋とは。
「しかし、善良の羊飼いよ、恋とは何なのか、教えてください。
蛇と、それは失楽園。それにも関わらず人々から羨望されるもの。」
彼女は詩の一節を諳んじた。
「何だね、それは?」僕は尋ねると彼女は僕に一冊の詩集を渡した。
「古い古い時代に読まれた恋、だよ。君も読んで見給え」
これを書いた男は、政治家で軍人で詩人、冒険家のロマンチスト、英国女王の寵愛を受け、それを失い、塔に幽閉されて、最後には斬首されて死んだのだ、と彼女は言う。
「恋と死、興味深いテーマだ」
「迂闊に恋をしないよう、気を付けるよ」僕は言った。
「そう、気を付け給え。」
彼女は僕の瞳を覗く。
彼女の瞳には深淵が揺らいでいる。
突然、彼女の目が光を亡くしたと思うと、彼女の首が揺ら揺ら震えて長く伸びた。
気の所為だった。
そう、それは寸毫に見た幻。
G村から外れて国道沿いの懸崖に掛かった大橋には最近になって人溜まりが出来ている。
その日、僕はK市市街のG村に来て、明日に控えた姪御の火葬を待っている。双生児の姪妹から、死んだ姪姉が奉納する筈だった葛布を、峠の先の神社に届けて欲しいと頼まれた。
葛布とは葛の蔓を収穫して繊維を得て、それを使って布を編んだものだ。素材の発する光沢と荒い目が織り成す素朴の美、丈夫さと防水性を備える機能性によって古くから重宝されてK市の特産となっている。
姪姉は葛布を織って染色して製品に加工する事を生業としていた。
僕は奉納される筈だった真っ赤な葛布を持って峠にいる。その道中、変哲の無い懸崖の大橋に人々が群れていたので僕も急ぐ旅路でなし、車を降りて人々に事情を尋ねたのであった。
「渓流の淀みにカモノハシが出るんだよ」とメガネを掛けた白シャツの男が言った。
「カモノハシ?」
「知ってる?カモノハシ」
クチバシのある鳥だか何だか分からない哺乳類的な獣だ。哺乳類なのに卵を産んで、卵を産むのに授乳する。確か生息地は豪州だったか。
僕は電話をしてそれを友人たる従姉妹に伝えた。
「そんな処にカモノハシなどいない」
研究職である彼女は言った。
「カモノハシは豪州政府が輸出を禁じているので、豪州と新西蘭国以外にカモノハシはいる筈がない」
「豪州からこっそり持ち出して倉真川の渓谷に放した人がいるかも。放たれたカモノハシが山野で野生化したかもしれない。何せ多くの人が目撃しているんだよ」
「無い、絶対無い」
と彼女は言う。
「そもそもカモノハシの体長は大きくても50センチ。そんなに小さい獣がそんな場所で頻繁に目撃される筈が無いじゃないか」
「それが大きなカモノハシらしいんだよ。ゾウの大きさくらいある」
「それじゃまるで古生物じゃないか。カモノハシのご先祖さまだ。古代に絶滅して豪州にもいないものが国内にいる筈が無い。みんな阿保なのか」
「みんな見ているんだよ」
大橋の人々は陽炎立ち昇る熱射の中で汗を拭きながら渓谷を見つめている。望遠鏡を除く初老紳士。合成樹脂の外殻の安価のオペラグラスを覗く子供たち。今にも巨大カモノハシが現れると信じているのだ。僕も人列の背後から、小さな単孔類の獣が今や現れるのでは無いかと渓谷の碧水を見つめた。
獣は現れなかったが、件の獣を見つけようという人々が更に増えた。皆々、日傘をさしたりハンケチで汗を拭きながら、口々に渓流に現れるという謎の獣について語り合った。夏となれば白いシャツの人々が目立って、彼らの衣服が太陽光線を反射していた。白いパラソルや白いハンケチが太陽光線を反射していた。
僕は東京の友人に再び電話をしたが、彼女の声は不自然に断絶して電波が途絶え、もうその後は繋がらない。
僕は炎天下を再び歩き出した。
「カモノハシ饅頭」を売る屋台が三つ。大橋の袂に点々と並ぶ。僕は其れをひと袋買った。平たい饅頭に可愛らしいカモノハシの焼印が押されている。どうやら国内にはカモノハシブームが到来している。
僕の休暇はまだ終わらない。
「カモノハシって何を食べるの?」
「肉食だよ」
姪御の家の隣の農家の縁側で、集めたヤモリを串に刺している老婆が居て、僕を見るなりチェッチェッと不機嫌そうに舌打ちをした。
「こんにちは」僕はイヌマキの生垣から声を掛けたが、老婆は舌打ちを繰り返すばかりで返事をしない。
そこに若い奥さんが出てきて挨拶をした。「こんにちは」
老婆の指がヤモリの腹を割いて、内蔵と背骨を抉って取り除く。薄い身肉と皮だけになったヤモリを編み棒を繰るように竹串で刺す。
既に何本も老婆の前にはヤモリ串が出来上がっているが、プラスチックの虫籠にはまだまだ沢山のヤモリが蠢いている。
「声なんか掛けるんじゃねえ」と、老婆は言った。
一体この老婆は何歳なのか。僕が実姉の嫁ぎ先であるこの田舎家に出入りしていた十数年前から、この隣家の老婆は老婆であって、地蔵のように何も変わらない。僕は十数年の年嵩を経て、昨年、姉の享年を越えた。今後は遥かに年上だった実姉が遥かに年下になっていく。
姉の子供である姪の姉の方が死んで、田舎家は伽藍としている。いまはもう姪御の双生児である妹がひとりになってしまった。
姉が嫁いで双生児たちが生まれて、若くして姉が死んで、近年に義兄が死んで、義父義母と次々人を亡くして伽藍堂。
僕は隣家の祖母様には昔から嫌われていた。祖母様の松柏のような掌にまたヤモリ串が出来上がって、串刺しの行列に並んだ。
死んだ姪御の編んだ赤い葛布を、隣市の神社に奉納し、それから神社で封筒を頂いて、僕は封筒を双生児の姪妹に渡した。姪妹は封筒の中を見た。
「何?」
中に納まっていたのは「ヒトガタ」だった。和紙に切れ込みを入れて人間の身体に模したもの。夏越しの大祓に使う厄除けだ。身体をヒトガタで撫でて息を吹き込むと、ヒトガタが受厄の身代わりになってくれるのだと言う。姪姉が注文していたものかもしれない。
姪妹は無機質の目で「ヒトガタ」と同封された案内書を読んでいた。僕は姪妹を見ていた。死んだ姪姉、花都長良千代と同じ顔。
姪姉が死んで、生気の無い目をしている。双生児としてひとつ屋根に暮らして来たのだ。姉を亡くして大きな喪失感を抱えているに違いなかった。
僕は同情して彼女を見つめた。
一瞬、ヒトガタを見る姪妹の瞳の奥底に、小さな灯りが点った、ような気がした。何か、良からぬ、不吉のような。些細の一瞬で、見直すともう彼女は平素の、元の気落ちした生気の無い顔に戻っていた。
暗い情念の笑みが、一瞬彼女の相貌に浮かんだような気がしたが気の所為だっただろうか。僕は言い知れぬ不安を感じた。
「姉と結婚して欲しいのよ」と、双生児の妹、花都長良美代は言った。
「待って」
と、怪訝な私の顔を察して彼女は僕が口を開くのを制した。
「もちろん、姉はいま、其処で死んでいるわ。そう、死んでる。それは分かってる」
彼女の言わんとする所が僕にはよく分かるのであった。籍を入れろと迫っているのでもないし、僕に共連れして死ねと言うでも無い。儀礼的に僕が死んだ双生児の姉、花都長良千代を娶るのが一番なのだ。それが、最もの弔いであるという姪妹の意見に僕も至極賛成であると同意するのであった。
姪妹の勧めによって僕は花都長良千代の死体に同衾した。
死体が寝る床には、花都長良千代が織った真っ赤の葛布がラグのように敷かれている。その次第が冥むる敷布が婚礼のように華美である、或いは死体から流れた流血のように異様の様相を帯びていた。
死んで数日経った千代の死体は、生温い室温に同調した生温い何かであった。皮膚は硬化していたが、シリコーンが注入されて皮膚下の弾力は失われていない。
詰まる所は花の匂いのする塩化ビニールの等身大の人形が、花都長良千代の死体であった。
彼女の肉体が女になってから、初めて僕は彼女に触れた気がする。
彼女の肉体は注入された紅色シリコーンのお陰でほんのりと桜色に上気していた。彼女の肉体の具合はそれで分かったが、僕には顔隠しを外して彼女の相貌を見る気にはなれなかった。
死体加工術によって彼女の相貌は美しいままであるかもしれない。だが、死者のそれは僕を狂わせるに違いないのであった。
かつては家人が賑やかにしていた農村の大家も今宵は千代の死体と僕と生きている美代の三人しかおらぬ。
美代は彼女の私室に下がり、仏間には一組の布団に収まる私と、千代と、充満する花の香りだけがある。
深夜零時の時計針がカチリとなった。
僕は布団の中で寝返りを打った。
実の所、G村で死人が多いことには理由がある。かつてG村には惣ヶ谷という大字があった。むかしむかし、惣ヶ谷にヤスという嫗がひとりで暮らしていて、葛の蔓を売って暮らしていた。或日のこと、嫗が溜池の畔て怪我をしていた狐の子を拾った。嫗は狐の子を宇吉と名付けてよく育てた。狐の子も嫗の言うことに従ってよく働いた。が、狐も大きくなって、いつまでも狐のままでは村民の人目に憚られるのであった。それで宇吉は若衆に化けて、人間のフリをして嫗の家に暮らした。
働き者の宇吉は村でも評判の若衆になった。その噂を聞いて庄屋の娘、お菊が宇吉を見に行くとお菊はもう恋に堕ちてしまった。それからお菊は恋煩いをして家に閉じ籠るようになり、それを心配した庄屋にも自然、事の次第は伝わるのであった。それで庄屋は嫗の家に行き、宇吉を婿に取ろうと申し出たが、宇吉が狐である事をしっている嫗はそれを良しと言わない。宇吉も嫗も頑なに申し出を断って庄屋を追い出してしまった。その夜、庄屋の娘、お菊は恋慕が破れたことから気が触れてしまって宇吉、宇吉と名を呼びながら嫗の家に火を付けて、自分はG村の溜池に入水して死んでしまった。嫗と宇吉は燃える屋敷から逃げる事が出来ずに焼死して、焼け跡には抱き合って黒焦げた嫗と狐が見つかった。
僕はこの話を幼い頃にG村に嫁いだ実姉から聞いた。G村に伝わる有名な昔話だ。お菊の死んだ溜池は埋立られて無くなってしまったが、そこには今でもふたつの人魂が飛ぶのだという。
「ふたつと言うのは」とその話をした時に、実姉は僕に尋ねた。
「一体誰の人魂なのかしら」
嫗と宇吉と庄屋の娘。理不尽に殺された嫗と狐の魂なのか、宇吉に添い遂げたいと願ったお菊と彼女に囚われた宇吉の人魂なのか。或いはまた?
僕たちは人魂が飛ぶのだ、とされた湿地に行った。
「ア、」と僕たちは人魂が飛ぶのを見た。蛍だった。
幾匹の蛍が明滅しながら、僕たちの周囲を飛んだ。蛍の青白い光が軌跡を描いた。
屍人に囲まれている。僕は思った。
恋をして死んだお菊の怨霊がG村を祟っている。それで、G村では恋をすると死ぬ、と言われている。
僕は以前、それを友人であるミナミに言った。彼女は大笑いした。
「恋の怨霊!」
方向性を間違えた昭和歌謡のようなフレーズだと、彼女はこの話をいたく気に入ったようだ。罰当たりな、と僕は面白く無かった。
「恋の怨霊はどうやって祟りなさる?」ミナミは言った。国舎の研究員らしく、好奇心が旺盛だ。「惚れると死ぬのか、惚れられると死ぬのか。どちらだい?」
「惚れると死ぬんじゃないかな」僕は言った。
「なんだ、随分曖昧な物言いじゃないか」ミナミは言った。
「G村に行けば私は死ぬかな」
「誰かに恋をしている?」
「そうだな……、そうなんだ、実は」ミナミは言った。
G村は死人が多い。
恋の怨霊に呪われているから。
「私がそちらに行けば君だって死ぬぞ」ミナミが言った。
「夏のバカンスで開放された私の魅力に、君はヤッツケられるからな」
「ヤッツケられて恋をしたら死んでしまうじゃないか」
「そうとも、恋をしないように気をつけろよ!」
ミナミは電話口で笑った。G村で恋に堕しては不可ない。死ぬから。姉さんは死んだから。
刻一刻と夜は更けて、仏間を満たす花の香りが濃厚を増す。
千代の死体はエンバーミングされて、死体らしさを無くしていた。死体の恐怖というものは朽ちる事にあるのだ。イザナギ神話で黄泉の国が恐ろしいのは死んだイザナミが腐乱するからで、腐らない死体は恐怖でない。
僕は防腐処理されて生き人形と化した千代に恐怖を感じない。
僕はまた寝返りを打って千代に向いた。
美しかった黒髪が色艶を無くして、味気のない下品に乾いた繊維になっている。髪にも命が宿っていて、その命が失われると毛髪はこんなにも魅力を無くすのだ。
僕は目を瞑った。
真っ暗い仏間の中で、僕と千代の死体の周りを座、座、座と膝を擦っていざる気配がする。
千代かな、僕は思った。きっと千代の魂が肉体に戻りたくても戻れないのだ。身体が防腐処理されてシリコンで満たされてしまったから。それで赤い葛布の周囲を座座、座座、と回るしかない。
だが僕はこうも考えた。
「本当に千代なのだろうか」
千代、ではないかもしれない。
昔に死んだ僕の実姉であるかもしれない。別室で寝ている美代の生霊かもしれない。今もG村を祟っているお菊の亡霊であるかもしれない。かつて千代であったとしても、もう千代ではなくなってしまった何か、かもしれない。
僕が懇々と考える間にも、気配の主は拙速に仏間の、僕たちの周りを周回した。
座、座、座……
伽藍堂となった千代の肉体の腹腔から、既に動かぬ喉奥を通って、「声」がした。
「*%+;48=;%#2」
何を言っているのか、分からないが其れは千代の声ではない。肉体が変質したのだ、同じ声では喋れないのかもしれない。
「&+%%5-;*」
戦慄っとする声だ。
深淵に蟠る人性の、堪えきれぬ慚悔を絞り出すような。生前の、千代の声とは違う。彼女の声は凛として残響に透き通るような美しさがあった。
「7(43/@-:)79」
呪言だろうか。僕を呪う?僕を冥府に共連れするための?この言葉をこれ以上聞いてはいけない、と本能が告げる。だが、僕は千代の死体と同衾しながら、死体が放つ果実が爛熟したような甘い香りに理性を鈍麻させていた。
もし千代が僕を冥府に共連れするというならば、それでも構わない。僕は思った。
「殺さないで」
千代の死体の奥底から聞こえるか細い声がそう言った。その言葉だけは千代の声であったかもしれない。
僕はハッとして蒙昧から覚知した。
殺さないで?
誰を?
……不自然に周回する気配は、僕を殺そうとしていたのだと気付き、全身の血の気が引いた。その瞬間にぴしゃりと冷水を浴びせ掛けられたように、僕は蒙昧から覚知して、一体自分は異常の中にいて何を安穏としていたのかと急に恐ろしくなり、おもむろに僕は目を開けた。
千代の死体が、首が、反転していた。彼女の顔にかけられた顔隠しが落ちていて、死体の首は僕を正面から見据えていた。
千代の死体の目が、開いている。
元々開いていたのか、何かに刺激されて今宵に目を開いたものか、遂に千代の顔隠しを捲らなかった僕には分からない。千代は虚に目を開けて、虚無の黒眸で僕を見ている。
やはり死体は朽ちるのだ。防腐処理をされたとて、皮膚が桜色に染まっていたとて、この黒眸は屍人のものだ。生命の脱落。千代は朽ちてしまった。
「起きたの?」
と、声を掛けられた。
美代であった。
彼女が枕元に端座して床の中に眠る僕たちを見下げていた。
僕は床の中から尋ねた。
「いま、誰かいなかった?」
「いいえ」美代は言った。
「千代がこちらを見てる」
「そうね」
美代は千代の顔に手をかざし、瞼を閉ざした。千代の表情は穏やかに目を閉じた。それから美代は千代の曲がった首に手を差し伸べて元に戻した。
「首の座りが悪いのよ」
千代は溜池で溺れ死んだと聞いていたが、そうではない、と僕は察した。美代が千代の首を傾げた時に、千代の首が長く伸びた。頚椎が折れている。この関節の接合が外れて伸び切った首に僕は見覚えがある。千代の母たる僕の実姉もまたこの仏間で死んだから。
仏間の梁に縄を掛けて、首を括って死んだのだ。頚椎が折れて長く伸びた首。揺れる体躯。発見したのは子供たちだった。僕と千代、それに美代。
千代は首を括ったのだ。何処で?恐らくはこの部屋で。それが何故か溜池で溺れた事になっている。
美代の手によって元通り千代の首は仰向き、再び白布で覆われた。
「痛ッ……」僕は呻いた。足脛に鈍痛が走った。ぬるりと、痛みの箇所を触った掌が足脛の上を滑った。そしてまた痛み。足脛に創傷が開いていた。
「血だ」僕は言った。
「本当ね、傷が深いわ」美代が言って血を舐めた。
思いも掛けず千代と顔を合わせた事で僕の動悸は千々と乱れた。全身から汗が噴き出して、それが瞬時に冷えて鳥肌が立っている。僕は諤々と震え出した。
翌朝、千代の死体が無くなっていた。死体が無くなってしまったので美代が電話をして火葬場の予約をキャンセルした。
僕は美代が何らかの事情を抱えて死体を隠したのだと思っているが、美代は僕を疑っているような素振りを見せる。お互いに牽制する事になって警察への届出は憚られた。
「焼かれるのが嫌で逃げちゃったのかな」僕は言った。
「そうかもしれないわね」美代は言った。
「まずはよく探して見よう」
僕は言った。
「警察に言うのはそれからでも良いでしょう」
その日も朝からの晴天であった。僕は千代の死体を探すフリをして屋敷の外に出た。外に出た途端に皮膚には汗が浮かんで、午前の湿気を孕んだ生温い射熱が僕を蒸し焼くのであった。
隣家の老婆は既に縁側にいて、本日も捕まえたばかりのヤモリをプラスチック容器に集めて、一匹ずつヤモリを捌いて串を作っていた。
ヤモリの首を抑える。身体を伸ばす。ヤモリの手足が空中に藻掻く。腹が裂かれる。抉る。其れを洗う。串に刺す。
老婆は私を見つけた。
「ヒイイ……ッッ!!」
僕を見るなり奇態の悲鳴をあげて家の中に逃げてしまった。
「ボケちゃったのかしら」
庭の物干し竿に洗濯物を干していた隣家の若い奥さんが言った。
「今日は火葬の日?」
「いえそれが」
僕は死体が見つからないことを説明した。
「それは大変ね」
奥さんは言った。奥さんの干す洗濯物が白く眩しい。服裾から覗く奥さんの若い肌が白く眩しい。
G村の祟りは惚れたら死ぬのか、惚れられたら死ぬのか。呪いの定義は曖昧だ。
恋に堕したら庄屋の娘の亡霊が現れて?僕は殺される?
「恋をしたら死ぬとして、僕はどうやって死ぬのかしらん?」
村内に幾つも点在する溜池の畔で、僕はミナミに電話した。
「いま仕事中なんだけど?」
ミナミは言った。彼女は多忙なのだ。国家機関に忙しく使われていて、毎日研究と真理と締切に追われている。
「祟りというのは事故死とか衰弱死とか狂死と相場が決まっている。君はその村で誰かに恋でもしたのか」
山稜に続く森の林道に入ると美代が僕を追いかけてきた。
「何処に行ったかと思った」
「考え事をしていたんだ」
「死体はあった?」
「無いよ」
僕は答えた。G村の田園風景の中に千代の死体は見つからない。
僕たちは森林の木漏れ日の中を暫く歩いた。
「千代の事、好きだった?」
美代が訊いた。僕は答えなかった。彼女は千代と同じ顔をしている。いやそれは詭弁だ。美代と千代の顔は僅差に異なる。その僅差によって二人の印象は随分異なる。千代は美しかった。だが美代もまた千代とは異なる美しさを持った女性だ。僕は千代には無い美代の魅力を重々承知しているのだ。
「昨晩のことを聞かせて?」
美代が言った。
「何ンにも無いよ」
僕は言った。
酩酊しそうな程濃密な、仏間に充満した花の香り。爛熟の甘い匂い。千代の肉壁の内側から漂う腐爛臭。
「どうして千代の死体にエンバーミングなんて施したの?」
「嫌だった?」
僕は返答に詰まった。その僕を美代が抱いた。
彼女の体温が僕に移り、高温となった僕の体温が彼女に戻る。木立の陰で僕たちは互いの身を寄せ合わせていた。全身の血液が沸騰していた。心臓が拙速に動悸していた。
これは恋だろうか。
僕は尋ねた。
恋よ。
僕の中にいる誰か、が答えた。
恋をしちゃダメじゃないか。
そうね、でもそれが止められないのが恋なのよ。
「しかし、善良の羊飼いよ、恋とは何なのか、教えてください。
蛇と、それは失楽園。それにも関わらず人々から羨望されるもの。」
僕は詩誦を諳んじた。
「ふうん」美代が返事をした。
僕は小さな美代を見た。
虚無の黒眸。その顔は千代だった。いや千代では無い。美代、だが、屍人の千代と同じ黒眸で、無表情に僕を見つめている。身悶えするような高熱を発していた彼女の身体が見る間に冷えて、彼女の体温は屍人のものだ。
「どうしたの」屍人の顔をした美代が言った。
「何ンでもない」僕は言った。
「続き、する?」
「いや……」
僕たちは田園の中を歩いて帰った。
「疲れているのよ」
彼女が僕を労った。
死体が見つからないまま、一日が終わった。隣家のおばあさんがヒステリーを起こして、拝み屋さんのような友人を連れて、屋敷に押し掛けてきた事以外、日がな一日平和の日であった。
おばあさんが泡を吹いて倒れてしまったので、救急隊員が呼ばれて騒動はそれで終わった。
本来であれば本日、千代の火葬を終えて、今日のうちに僕は東京の国舎に戻るつもりだった。
「帰れなくなった」
僕はミナミに電話した。
「そう」
彼女は言った。
夕食にお隣の奥さんから貰ったヤモリ串が並んだ。
「一応、焼いて見たけれど」
美代が言ったが、僕も美代も食べる気にはなれなかった。
仏間には千代の死体の横臥した布団が未だ敷かれていて、千代の肉体の形に敷布が凹んでいる。
「ねえ、」
美代が言う。
「仏間で一緒に寝ましょうよ」
美代は仏間に敷かれた屍人の布団に身体を横たえた。赤い葛布の上の純白の布団。千代の窪みに美代の身体が納まった。昨晩の千代は死んでいて、今晩の美代は生きている。僕は夕べのように仏間に横たわる女の肉体の横に自らの身を置いた。
僕らは並んで天井を見つめた。
「G村の祟りはさ……」僕は美代に尋ねた。
「恋をする人と、される人はどちらが死ぬんだろう?」
「千代はお兄さんの事が好きだったわ、とても」
「どうして千代は死んだの?」
「行方不明になって溜池で死んでいるのが見つかったのよ」
千代が死んだのはこの仏間だ。僕は天井を見つめる。きっとあの梁に縄を這って、千代は首を括って死んだのだ。今もまだ千代の肉体が揺れているようだ。頚椎の接合が外れて首がキリンのように首が伸びた千代が揺れている。僕は死んだ千代の残像を見ている。
美代はそれを隠している。もしかしたら首を括った千代を梁から下ろして溜池に捨てたのも美代かもしれない。
「?」
千代が首を括った梁に何かがある。汚れた赤紙が梁に張り付いている。
「ねえ」と僕は美代に言った。「何か、天井に張り付いているよ」
「古い家だもの、何かしらあるものよ」美代は言った。僕は赤紙を凝視した。厭わしい感覚に皮膚が粟立つ。あれは良くないものだ。いつからあったのだろう。昨晩に、あれは、あの場所にあっただろうか?
赤紙に切れ込みが入ってそれが四肢に見立てられている。人間の身体を模した形代。ヒトガタだ、あれは。
血で汚れたヒトガタが、幾本もの釘で梁の上に磔されている。
呪いだ。悪意だ。純然と、人型を貫く釘は悪意に溢れている。殺意だ。誰をか、仇なさんとしている。誰をか弑殺する為の呪いであった。
昨晩は無かった。
戦慄っとして全身に冷たい電流が流れる。それならばいつ、誰が?
それが出来るのは美代しかないではないか。
僕は美代を見た。
「気にしないことよ」美代は言った。
そう言った彼女の目にも虚無が宿る。それでいて、歪んだ笑みが浮かんでいる。その顏に見覚えがある。神社に葛布を奉納し、千代が取り寄せたヒトガタを代わりに受け取った美代の、瞳に宿った昏い光。美代はあのヒトガタを穢して磔にしたのだ。誰の血……。赤黒い血液が純白であった筈の人型に染み込んでいる。僕は気付いた。僕の血、だ。昨夜、僕は足を怪我した。手当したのは美代だった。即ち、磔されたのは僕なのだ。
彼女は虚無の目を僕に近付けた。美代の匂い。肉体の奥から発する彼女の、爛熟の体臭。僕は覆い被さる彼女の肉体に磔にされる。
千代が死んだ真下で、僕と美代は同衾しているのだ。
寒気で身体が震えて目が覚めた。寒い。歯の根が噛み合わずにガタガタと鳴った。真夏の夜に異常であった。寒い。全身全皮膚に蛇の如き悪寒が這い回る。
震えながら身を起こすと、長い首をした千代が虚無の黒眸で僕を見つめている。
その口に咥えているのは天井に磔されていた赤いヒトガタだ。和紙で作られた筈のヒトガタに厚みがあって、まるで肉片だ。千代が犬歯で強く噛むと、ヒトガタから血煙が出て、吸……と美代の唇に吸い込まれた。
美代は次第に呼吸が荒くなり、苦しげに呻き始めた。ガタガタと震え出す。皮膚が高熱を発している。それとともに僕の身を包んだ悪寒は引いた。まるで悪寒が僕から美代に伝染したかのようだ。
「ひいいいいいい」美代は魘されている。
「ひいいい」魘される声が幽鬼のようだ。
「美代?」
僕は声を掛けたが、眠っている美代に僕の声は届かないようだった。その僕の耳元に、千代の長い首が蛇のように捻転して近付いた。
「お兄さん」
千代の首が僕を呼んだ。
「美代……?美代……?」
僕はうなされている美代を呼んだ。美代の唇の端から血が一条、零れた。
「美代……、美代……」
僕は美代を呼んだ。
唇から零れる血液は、量をいや増して美代の喉奥を沸々と鳴らした。美代が死んでしまう。
「お兄さん、このままにしないと不可ないわ」と千代の首が言った。
「助けてくれ」僕は言った。
「美代はあなたを呪っているのよ」千代は言った。
先程の天井に磔られた赤いヒトガタは美代の仕掛けた呪いだったのだ。その呪いが失敗して呪力が美代を襲っている。
このままでは美代が血液で窒息してしまう。喉奥に血液が溜まって、美代は血を噴きながらむせている。
「美代を助けてくれ」
「美代に殺されるわよ」
「何故だ」
「恋よ」
「恋、とは」
「恋とは蛇と、誰もが羨む失楽園」
「頼む、美代を殺さないでくれ」
眉根を顰めて溜息すると千代の首は咥えたヒトガタを噛み潰した。
美代の口元からドロリと赤黒い塊が吐き出されて、美代の喀血はそれで止まった。血溜まりの中で美代はまた眠りについた。
花の香りを残して、もう千代の首はいなかった。
翌朝になって昨晩のことを美代は何も覚えていない。
「何も?」僕は訊いた。
「何が?」怪訝の顔で美代は言った。
言いながら美代は僕に口付けたが、違和感を感じた僕は美代の唇から離れた。
美代の唇が朱に染まっている。
あれは血だ。
だが美代が喀血している様子はない。僕の喉が獄と鳴った。鉄の味。喉奥に香る鉄臭。
舌と歯の間に鋭利の痛みが走った。不快を感じて口内の蟠りを吐くと大量の血だ。僕の舌が抉れている。
美代は唇から舌を出してみせた。その舌に剃刀刃が載っている。
「どうしたの?」
美代は言った。
それからも美代の奇行は止まない。料理をしていたと思えば、包丁の手が滑り僕に向かって飛んでくる。灯油をかけられて、火を付けられる。一緒に外を歩けば走っている車に向かって突き飛ばされる。僕の傷が殖えていく。
美代は狂っていた。何かにとり憑かれて、あらゆる手段で僕を殺そうとしている。
これが、恋、なのだろうか。
仏間で眠る僕たちを、天井の梁から提がる千代の首が悲しげに見つめる。僕の肉体は度重なる不慮の事故によって生傷が絶えない。その日は僕は美代の倒した箪笥に潰れて足の小指を無くした。
煮えた油がかかって半身に火傷をしている。割れたガラスコップの破片が目に刺さり片目が見えない。
「これが恋、か」僕は尋ねた
「それが恋、よ」千代の首が言った。
「僕は彼女を受け容れる事ができるだろうか?」
「受け容れる必要なんて無いでしょう?死ぬわよ」
「美代が子供の頃に、猫を殺して生首を弄んでいた。あの頃からきっとこうなる運命だったんだよ」
「わたし、そんな話知らないわ」
「君には言わなかった」
「猫の首をお兄さんはどうしたの?」
「僕は……」
記憶の中の猫の生首の行く末を僕は探している。美代が猫たちを殺して首を並べている。
それを見て僕は?
千代の、無くなった死体は何処に行ったのだろう。
「それはね、」と千代の首が言う。
「この屋敷には地下蔵があって、そこにみんなと一緒にいるのよ」
「みんなって?」
「知ってるでしょう?」
「姉さんと、義兄さん、おじさん、おばさん……」
「みんな、よ」
猫の生首を弄ぶ美代に僕は恋をしたのかもしれない。
G村の惣ガ谷の溜池の埋立後には、庄屋の娘お菊の人魂が舞うのだと言う。
「言ってみない?」と美代が言う。
僕たちは夜の溜池跡地に言った。以前、僕が実姉と言った時もこんな季節で、僕と実姉の周りを蛍が飛んだ。
「蛍、ね」美代が言った。
蛍達が飛んでいる。
「人魂のようだ」僕は言った。
「人魂よ、蛍だもの」美代は言った。
「千代の人魂もいるかな」僕は言った。
千代の首が首を振った。
「私も死んだら此処で人魂になるのかな」美代が言った。僕は千代の首を見た。彼女は頷いた。
「僕は?」
宙空に浮いた千代の首は黙っていた。
美代の周りに蛍が集まり、彼女は光の衣装を纏っているようだ。美代が僕を振り向いて笑った。
庄屋のお嬢さんはどうして狐の宇吉の家に火を付けたんでしょうか?
隣家の縁側で若い奥さんがヤモリを捌いていたので、庭先までお邪魔して僕たちは世間話をしていた。
お嬢さんのご遺体は見つかったの?
いいえ、それがサッパリ。
まるで狐に騙されたみたいね。
そう、狐。どうして狐は焼き殺されたんでしょう?だって、一目惚れした相手に例え許嫁がいて恋が叶わなかったというだけで火まで付けますか。
「好色お七の話はご存知ですか?」と僕は尋ねた。
江戸時代、恋人である吉三郎に逢いたい一心で自宅に放火して火刑に処された女性です。吉三郎とは恋仲だったので情交が通じている。
「ではお菊と狐の宇吉は情交が通じていた?」と奥さん。
「そうでなければ火など付けますまい。」
「ああ、それでは」と奥さんが言った。「きっと庄屋のお嬢さんはお子さんを身篭っていたのよ、既に」
だから人魂はふたつ……。
その時、ドオオン、ドオオンと地鳴りがして屋敷が揺れ出した。思わず、僕と奥さんは口を噤んだ。
それから突然豪雨が降り出したので、奥さんは慌てて洗濯物を取り込んで屋敷の雨戸を閉めねばならなかった。自然と僕と奥さんは薄暗い田舎家の屋敷の中にいた。
G村を呪うお菊お嬢さんが、僕たちの不敬の話に怒っているようだ、と僕は思った。
その瞬間、バアンと雨戸が外側から叩かれた。
仰と驚いて、僕は仰け反り土壁に寄りかかった。
「奥さん?」僕は若い奥さんを呼んだ。返事が無かった。
奥さんは首を括っていた。
ズルリと頚椎の関節が外れて、括った首が伸びてゆく。
ぶらりぶらりと奥さんの体が揺れていた。
何処から現れたのか蛍が、屋敷の暗闇の中を飛んだ。
蛍の火点が仄かに周囲を照らすと、縊死した奥さんの周りに人影が群れている。
翌日、僕と美代は峠を越えて隣市に出向き、幾つかの彼女の買い物に付き合った。買い物を終えて、僕たちはまた国道の峠を戻る。
懸崖の大橋には未だ人だかりが出来ていて、人々の着る白いシャツが林緑の中、残暑の厳しい太陽光線を反射する。
大橋の眼下を流れる倉真川の渓谷にはカモノハシに似た怪物が出ると言われていて、実際に目撃したという人が何人も現れていた。それがメディアに取り上げられて、いまや全国から人が来て渓谷の碧水を眺めている。
卵を産む四足獣、それがカモノハシだ。鳥が鳥たるには進化の過程において四肢を退化させて鳥足と羽根に変える必要があったが、それらの所作を怠って、途中以降は哺乳類として進化してしまったような奇矯の動物。豪州政府が国外持ち出しを禁じているので豪州と近辺のオセアニア各国以外には生息していない。そんなものが、G村から外れた国道下の渓谷で目撃される。
「例はあるよ」
そこにいる筈のない動物が度々目撃される。
「イギリスのロンドンやハンプシャーに現れるピューマとか」
イギリスには大型ネコ科動物は生息しないが、歴史の中でイギリスの各地で度々大形ネコ科動物が目撃されてきた。都市部で目撃される事が多い。トウキョーにライオンが歩くようなものだ。目撃情報は絶えないが捕獲された事は無い。群集心理の見せる幻だろうか。
イギリスの神出鬼没の大型ネコ科動物はエイリアンビッグキャット(ABC:Alien Big Cat)と呼ばれる。
「UMAの一種だ」
「そうなのね」
僕の隻眼には渓谷を見つめる美代の横顔が映る。白い日傘をさしている。素材は葛布だ。陽射しを反射して葛布が光っている。柔らかな光が透過して、日傘の中で美代は仄かに光っている。
蝉時雨。抜けるような青い空。白輝煌々たるたる雲の峰。青い山稜の裾辺を吹き抜ける青い風。晩夏。
と、恋。
恋。
群衆の間隙を抜いて大橋の欄干から身を乗り出し美代は碧水の底を眺めた。
緩やかに時間が流れた。その時が止まったかのような緩やかな時間の中で、何故か美代は橋桁から逆さまに落ちて、渓流の底面に頭を打って、水飛沫が止んで、美代はだらしなく水面に浮かんでもう動かない。
「え?」
群衆の白いシャツが夏の陽射しを反射して、フレアが広がってあれ程五月蝿かった蝉時雨も消えて、白い光の中に僕は立ちすくんだ。
「え?」
僕は掌を見た。僕の掌にはまだ美代の肉体の柔らかな感触が残っている。その美代は遥か下の水面に浮いている。
蝉時雨が戻った、のでは無かった。周囲では群衆の喧騒が怒号が飛び交っていた。
「落ちたぞ!」
「アイツが突き落とした!」
「誰か、助けを!」
蝉時雨では無い。
人波の発する叫喚だった。
十数分後にサイレンを鳴らしながら消防隊と救急隊員が国道の大橋に来て、橋桁からロープを降ろして隊員が下降し、砂州に倒れている美代を引き上げた。彼女の白い夏服に藻が絡んでいた。数瞬間のうちに美代はもう美代でない。
僕は人々に取り押さえられて地面に組み伏せられている。
橋の上で弛緩して横臥わる美代と、地辺に平伏を強いられた僕の目が合う。
彼女の相貌には未だ赤みが残っていたが、見開いたその瞳はもう何も写していない。瞳孔の昏い穴底には虚無だけがある。虚無が僕を見つめている。
絶命した美代は救急隊が病院に運んだ。僕は後からやってきた官憲によって捕縛され、留置の後に拘置所に送られる。
拘置所に届けられた古人の詩集を僕は読んでいる。僕がミナミから貸されて、美代に貸したものだった。
サー・ウォルター・ローリー。エリザベス1世統治下のイングランドに台頭した政治家、軍人、作家、詩人、冒険家。彼の遺した詩の一説。彼は女王の寵愛を受け、栄華を尽くし、やがて失脚し幽閉されて後に斬首刑に処せられる。
では、恋とは何なのか、教えてください。
それは、歓喜と慚悔の湧き出づる泉です。
それは、おそらく、すべての人を天国と地獄に導く鐘の音。
そして、私が聞くところによると、これが恋です。
しかし、恋とは何なのか、教えてください。
それは休日に課された労働です。
12月と5月の肉体が重なって交歓した十月の後に、情熱の血肉がファンファーレを奏でます。
そして、私が聞くところによると、これが恋です。
しかし、善良の羊飼いよ、恋とは何なのか、教えてください。
それは晴れ間に降る霧雨。
それは純然とした痛み。
誰も勝者の無い遊興です。
若娘は抵抗するが、決して抵抗しえない快楽。
そして、私が聞くところによると、これが恋です。
しかし、羊飼いよ、恋とは何なのか、教えてください。
それは肯定、それは否定。
規則に則る折り目正しい紳士の競技。
しかし如何なる形を得ても「それ」はすぐさま消失することでしょう。
美しきニンフたちよ、あなたたちはいつまでも美しあれ。
そして、私が聞くところによると、これが恋です。
しかし、善良の羊飼いよ、恋とは何なのか、教えてください。
蛇と、それは失楽園。
それにも関わらず人々から羨望されるもの。
「それ」は私のすべて、あなたのすべて。
「それ」は私たちの間に確として存在する。
ねえ羊飼いよ、これが恋なのだと私は思う。
(ウォルター・ローリー卿「恋とはなんでしょう」)
恋とは何なのか。
それは私たちの間に確かに存在した。
私は目を瞑る。
古代より山に暮らしてきた「狐」、と呼ばれる民族がいる。平地民と交わらない忌民であったが明治の国民総皇臣化の中で「狐」たちは平地民として暮らすようになり、狐であった記憶を無くした。が、狐狸、川獺、山牛のように伝承の中に彼らの記憶が残っている。K市G村の狐、宇吉と庄屋の娘、お菊の伝承も忌民と平民の悲恋を描いたものだろう。お菊が狐の子供を宿している。これを畏れた村民が宇吉とそれを匿う媼を焼き殺し、粗末の家が炎に包まれ焼き崩れるのを見て絶望したお菊は、宇吉の名を呼びながら身重の身体で縊死をした。お菊の縊死の死体の首は長く伸びて、ぶらんぶらんと梁に揺れる。それも不吉と、お菊の死体はG村の溜池に捨てられて、宇吉と媼を焼き殺したのはお菊なのだと偽の歴史が語り継がれた。
お菊の怨霊は宇吉を焼き討ちしたG村の人間を呪うのだ。
僕と実姉の家系もまた狐の家系で、血脈が依代となってG村の祟りに感化されやすい。G村の中で殺人衝動という病に毒されていた実姉も、美代に千代たちも。病の中で僕たちは恋をして、恋の中で病になった。病に翻弄されながら、僕たちは確かに恋をしていた。
恋とは何でしょう。
それは私たちのためのもの。
かつての私たちの間に確かに在ったもの。
詩集から紙片が落ちた。
「あなたを止められなかった私を許してね」
美代の字だった。
この手紙を見つけたということは、もしかして私は死んでいるんじゃないかしら。そして、もしかして私はあなたに殺されてしまったのではないかしら。もしそうなら、あなたを止めようとしたけれど、あなたを止められなかった私を許してね。あなたとずっと一緒に生きたかったわ。愛してる。
田舎家の地下蔵から発見された数体の死体が官憲によって発見されて、田舎で起こった凄惨の猟奇事件としてG村は世間から騒がれている。最も古いものが20年前に死んだ僕の姉のものだ。そして最も新しいものが、先日死んだ千代の死体。美代が死んだことも含めて、僕の仕業という事になっている。
蛍が、舞い始める。
その中に立つ彼女。
やがて彼女も蛍になって、僕を囲む幽冥の光たち。
(「G 怨霊村の恋」御首了一)