没ネタ祭「短編小説 幻覚」
友人に呼び出されて出向いたのは古書店街の喫茶店であった。古書店がひしめいた街外れにある雑居ビルの地階である。ビルは聞いたことも無いような出版会社や古書店がフロアを占有する。どのフロアも古びた本のすえた匂いがしていた。地階の喫茶店は湿気で空気を淀ませていた。ビルの階段にまで氾濫した書物が、ビル全体を湿らせていた。その湿度は地階に濃く漂い、地階は陰気を孕んだ場所となっていた。しかしながらその陰気さが隠れ家のようでもあり、長居をしても注意もされないことから読書に没入できる喫茶店として居心地は良かった。なにせマスターまでも読書に没入して客が来たことにも気付かない。クラシックのレコードの合間に客が鳴らすベルが時折聞こえる。静かな店であった。
友人は喫茶店の一番奥、書物が無造作に積み重ねられた壁際にいた。他の客たちは化石のように書物に耽溺している。友人はそわそわと落ち着かず、読む本もすら持ち合わせていないようであった。化石の店内に在って終始所在のない友人の様子が異様であった。
「や」片手を上げて友人は僕を呼んだ。他の客の一人が振り向いた。そして友人を見て、それから僕を見てまた目を書物に落とした。
僕が席に座ると友人はベルを鳴らした。マスターがノロノロとやってきて、友人が僕のためにコーヒーを注文した。それから、おずおずと友人は語りだした。
もう一年になるだろうか。
俺は幻覚を見るようになったのだ。
最初は気のせいかと思った。
しかし見える。
段々とはっきり見えるようになった。
君の目にはどう見える?
俺は狂っているのか?
友人の声は不安に震えていた。一人で悩んでいたのだ。しかし、決意に満ちていた。その不安に立ち向かうことを決めたのだ。
待ち給えと僕は言った。
落ち着こうじゃないか。
いいかい、そもそもが人間は誰しも狂気をはらむものだよ。
正確無比な認識をする者などおらぬのだ。
誰もが誤認をしている。
正常と異常を分かつものは
誤認の大小だけだよ。
かつて友人は自信に満ちており清廉にして潔白。徳に厚い篤志家。自身に満ちて的確に部下を指示する様に誰もが憧れるような人物であった。今はおどおどおどしながら何かに怯え、まるで別人である。
そもそもと僕は言った。
君に見える幻覚とはどのようなものだ。幻覚は人の認識の隙間に生まれるのだ。隙間とは認識と認識の狭間だ。そこに認識の光を当てれば幻覚は消えてしまう。
人に相談して客観視するだけで、そのような狭間に認識は及ぶ。幻覚の内容について話して見給え。心も幾分楽になるよ。
と僕は尋ねた。
友人は僕の言葉に小さく頷き、訥々と話し出した。
はじめは目の端に其奴は現れたのだ。
例えば駅のホームで。街角で。
なんの変哲もない奴だ。
何処にでもいるようなつまらない奴だ。
俺も其奴を見て何も気にしなかった。
だが或る日、唐突に気になりだした。
あまりにも其奴を見る頻度が多すぎる。
俺は気付いてしまったのだ。
その異常性に。
とうとう其奴は俺の職場にまで現れるようになった。俺の職場で何食わぬ顔で働いている。俺は煩悶した。其奴がそこにいることは明らかにおかしいのに、誰も気にしていないようだった。昔からさも其処にいたかのように溶け込んでいる。
そこで俺は其奴が幻覚の類いではないかと疑り始めた。
そう思い始めると其奴が現れる頻度は益々増えた。さも当然のように其処にいて、俺が行く先々に先回りして、時には居酒屋で他の馴染みと談笑している。
其奴の態度は傲岸で尊大。幻覚の癖に現実世界を我が物顔に振る舞うのだ。と彼は言った。
彼は怒っているようだった。うつむいた彼の顔に影がさしていく。
そうか。と僕は相槌を打った。それが精一杯だった。僕もまた恐怖していた。彼は深い幻覚に囚われている。現実世界と齟齬を来している。
不安であった。本当に彼は僕の見知っている人物なのだろうか。店内の暗さが増して、彼の顔は益々影が濃くなっていく。
黒い。
何もかも。
影のように。
僕は一体何処にいて何を見ているのだろう?
古本のすえた匂いが鼻につく。
うず高く積まれた古書が、煤けた壁が、店内が歪曲していく。
急速に僕の目の前から現実味が失われていく感覚。
彼の呟く言葉が耳に反響する。
つまるところ、と彼は言った。
いつも
目の前に現れる
お前は何なのだ?
と、彼は僕を見据えた。
僕?
自分が確たるものと信じていた世界は揺らぎ、疑義が生じた瞬間に僕は小さな声をあげて、「僕」なる認識はあっという間に消えてしまった。
(短編小説「幻覚」村崎懐炉)
没ネタ祭なので在庫整理を失礼します。この作品はなんとなく書いたものの、あまりのゴシック的(使い古された)展開に、わざわざ公開することの意欲が削がれ、結局公開にまで至りませんでした。当時、ショートショートの公募があったので、それに応募するつもりだったのかもしれません。
ショートショートだからなるべく短い文章量で「あっと驚く」展開をしたいのですが、語り口調が冗長でショートショートになりきれない。そんな中途半端な感じが、ねえ。
しかし、ここまで書き上げてしまうと捨てるのも忍びなく永い冬眠をしていた次第です。
因みに初稿は昨年12月21日。クリスマスの直前に私はこんなことをしていたんですね。
当時はnoteを始めたばかりで、今より短い作品を沢山アップしてましたね。「絵のない絵本」シリーズ、「短編小説」という名前の「掌編集」。「怪談」じみたものも書いてました。
この度は没ネタ祭ということで加筆修正を加えて公開しきれぬ後悔を南無三。御供養。