短編小説「グッモーニン、ミスター・フェルプス!」
夜になって皆が寝静まると、その街には爆弾魔が現れる。
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諸兄らには秘密裏に打ち明けるが。
何を隠そう吾輩は国家が秘匿する極秘機関のエージェントである。国内外の機密事項を入手して我が組織に送達するのだ。
あらゆる情報網に精通する吾輩にとって、どんな秘密を入手する事も容易い。情報の為にこれまでも火中、水中の死線を超えてきた。悪逆の徒らに対抗するため、世界の尾根から深淵を股に掛け、吾輩の行かぬ場所などこの世に無い。
諸兄らには改めて言おう。吾輩の前にどんな秘密など無意味だ、と。
と・・・云うのは冗談で我輩は諸兄らと同じく何ら変哲の無い平平凡凡のサラリーマンである。朝起きてカーテンを開ける。着替えて珈琲を飲んで満員電車に揺られて出勤して一日の仕事が終われば茅屋に帰り、飯を食らい、風呂に入って寝る。諸兄らと同じく、いや諸兄ら以上にうだつの上がらぬ日々を送っている。無為の日々、無為の徒である。
医療機器メーカーの営業部門に奉職している。吾輩がこのような泥色の小職に就く理由は偏に社会貢献であり、弊社の作る崇高の商品が多くの人命救助に役立たん事を願い、粉骨砕身の覚悟で働くこと云々。
「早く来なさい!」
と平坦な胸の女が言う。
二人の男を傍らに従わせている。
「そこの山田ポンタ郎!ぼんやりしない!」
女が言った。
「山田ポンタ郎」
平々凡々の吾輩の名前だ。
彼女は吾輩の上司である。
吾輩が務める大日本医療器械南都営業所の営業所長だ。名前は秋葉姫子。胸は平坦だが美人だ。凛とした美しさがある、と思う。
男勝りの性格が災いして未だ独身だ。
「ぼんやりしてると蹴るわよ!」
彼女は空手の有段者なので、その言葉は冗談ではない。迂闊に近寄れば骨を折る。
だが、快活で屈託のない性格と美貌を武器に、彼女を信奉する社員も多い。
いま彼女の傍らに侍る男達も、彼女の信奉者だ。彼女にならば骨を折られても良い、くらいの事は思っていそうだ。
「思ってないでござるよ」
彼女の傍らのやせぎすが言った。痩せすぎている。まるで骨皮筋右衛門。
「山田氏の独りごとは全部聞こえているでござる」
彼の名前は十七夜月持碁郎(かのうじごろう)。大日本医療器械南都支店の営業だ。つまり吾輩の同僚。無二の親友。頼れる朋輩。
「褒めても何も出ないでござるよ」
入社してまだ一年にも関わらず、かつてから当事業所に身を置くかのような無恥厚顔、傍若無人、慇懃無礼。変な口調の生意気な新入社員。
「酷いでござるよ」
というのは冗談で、容姿とは裏腹に頼れる仲間だ。
「何をぶつぶつ言っているんだ?」と隣から口を挟んで来たのは破滅田龍之介。やはり南都営業所の営業職、兼技術者だ。天才的に手先が器用であらゆるものを修理する事ができる。ああ、なんて素晴らしい仲間たち!
「わ!吃驚した、急に大きな声を出さないで!」と秋葉姫子女史が言った。ちなみに我々は彼女のことを「姫たん」と呼んでいる。
「ニヤニヤしているぞ」
「気味が悪いわ」
「きっと緊張してるでござるよ」
そう、吾輩は緊張している。今日は大日本医療器械の営業職が全国から一同に会する研修会なのだ。つまり知らない人々に囲まれる日なのだ。吾輩は緊張している。
「山田氏は緊張しているって言ってるでござるよ」十七夜月氏が言った。
「この小声の独りごとがよく聞き取れるわね」と、胸の平坦な姫たんが言った。歩いても揺れない。走っても揺れない。
「いま、何か悪口を言われた気がするわ」
「気のせいでござるよ」
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グッモーニン、ミスター・フェルプス
御首了一
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大日本医療器械の研修会場は南都駅近くの名門ホテルで行われる。
山田ポンタ郎はこのような瀟洒な雰囲気が好きだ。
「こちらのネームホルダーに社員証を入れて下さい」
と受付でネームホルダーを受け取り、山田ポンタ郎は名刺を入れようとした。
「おっと」
背後の誰かが、山田ポンタ郎にぶつかった。
「すみません」
見知らぬ男だ。
山田ポンタ郎は少しムッとして、落としたネームホルダーと自分の社員証を拾った。
ぶつかった誰かもまた、落としたネームホルダーと社員証を拾って足早に去った。
研修開始前の忙しない空気が流れている。カレもまたそのような慌ただしい空気感に飲まれている。
余裕を持たなくてはいけないな。
と、山田ポンタ郎は思った。
余裕を持たなくてはいけない。
と思った矢先に、また彼にぶつかる者がいた。
「わ」
それで山田ポンタ郎はまたネームホルダーを落とした。
「気を付け給え」
不機嫌顔で山田ポンタ郎は言った。
その山田ポンタ郎が見たものは双つ聳える巨大な肉丘であった。
「あら」
肉丘の主は山田ポンタ郎を一瞥して言った。
ヤマダポンタ郎の務める南都営業所は女子社員が営業所長の秋葉姫子女史しかおらず、その秋葉女史も果たして女子と言えるかどうか。女史の平坦な胸を見るにつけ、山田ポンタ郎は人間存在の摩訶不思議を感じるのであった。だが姫たんこと秋葉女史の平坦な胸を毎日毎日見るうちに、山田ポンタ郎にも新常識が芽生えて、平坦でも女子は女子と仙郷の達観を感じないでもない。
だが、改めて峻険な巨峰を目の当たりにして山田ポンタ郎は人間存在の迫力に感得した。
「先生、こちらです」
研修の担当者が双丘女史に挨拶をした。
「そうね」
まだ年若の女史は言った。今日の研修講師なのだろうか。
「またね」
おっぱいの大きな研修講師は山田ポンタ郎氏に言った。
気持ちに余裕を持たなくてはいけないな。
雄大な自然美の前に、山田ポンタ郎は心を入れ替えるのであった。
研修が開始されるまで、彼はホテルのラウンジで珈琲を飲む事にした。
ロビーは吹き抜けになっていて、見上げると研修会場のある2階には、研修を待つ社員たちで賑わっている。
婦女子が多い。上階にいる婦女子たちのスカアトがひらひらと揺れている。
其処に同僚である十七夜持碁郎(かのうじごろう)がやってきた。
「山田氏、何を見てるでござるか?女御の太股でござるか?」
そう言って十七夜月持碁郎は山田ポンタ郎の隣に座った。
「お花畑、お花畑でござるよう」
と、十七夜月氏は言った。
彼らの勤める大日本医療器械は女子社員の制服のスカアトが短い。
居住まいを平身低頭に正せば、女御のスカアトが秘匿する肌布が露わに覗く。彼らは天上の花畑を観覧するため、床を掘り下げたホテルラウンジのソファに座る。我が身を謙虚に徹して平身低頭、二階の女御たちを見上げるのであった。
山田ポンタ郎は珈琲を呑んだ。
かぐわしい香りが鼻腔に抜ける。
「ウム」
山田ポンタ郎は言った。
彼はこのような平和な時間を愛して止まない。万民が健康と平和を謳歌している。
「あの女御の股布はピンクでござるよ」
十七夜月氏が言った。
上階を見上げながら山田ポンタ郎はそれとなく目を凝らした。ピンクの花畑が揺れていた。
「平和だ」
山田ポンタ郎は言った。
研修会は年間に一度、毎年行われる。その都度全国から営業職が集められる。幾度も目にした顔もあれば、初めてみる顔もある。それはお互いのことであって、空いた時間にはこれまでの研修会を通じて誼を結んだ者同士が久闊の挨拶を交わしていた。
山田ポンタ郎もこの研修会に参加すること数回。見たことのある顔もある。黄色い股布の女子は確か北都営業所の女御であった筈。薄青い股布の女子は京都営業所。話をした事はない。
ピンクの股布の女子は見た事がない。新人であろうか。
「拙者は研修に出るのは初めてでござる」と十七夜月氏は言った。十七夜月氏が南都営業所に勤め始めたのは一年前。秋葉姫子営業所長がどこからか連れてきたのだ。女子社員がいない南都営業所にいては分からぬ弊社の魅力が、この研修会には詰まっている。
「お花畑でござるよう」
十七夜月氏は言った。
吾輩らの天上にお花畑が揺れている。
「珈琲のお代わりはいりますか?」
彼の目の前にホテルラウンジの女給が立った。それで、彼にはピンクの股布が見えなくなった。
「ああ」と山田ポンタ郎は横に座り直して曖昧な返事をした。ピンクの股布が見たかったのだ。
「かしこまりました」と女給は言って黒い珈琲をカップに注いだ。それから彼の珈琲ソーサーにポーションをひとつ置いて去った。
その間にピンクの股布はいなくなってしまった。
吾輩がスパイ、に憧れていたのは確かだ。
子どもの頃に何度も観たテレビ番組。
「おはようフェルプス君」
と、ホテルラウンジで珈琲を注文して、運ばれてきた珈琲ソーサーにはテープレコーダーが乗せられている。そのテープレコーダーから淡々と大平透が喋り出す。
誰もが知る有名企業の子息が一年前に、革命軍によって誘拐された。革命軍はご子息を人質にして社長に莫大な身代金を要求し続けている。その身代金が悪しき革命軍の原資になっているのだ。愛と平和を脅かすテロイズムは根絶させなければならない。
そこで今回の君の任務だが、我々が掴んだ極秘情報でご子息がその会場の近くで監禁されているという情報を掴んだ。君はご子息が捕らわれた場所を速やかに見つけ出し、彼を救出しなければならない。
愛と平和と自由の為に君が活躍することを期待している。
例によって君もしくは仲間が捕らえられ、或いは殺されても当局は一切関知しない。
尚、このテープは自動的に消滅する。
吾輩は愛と自由と平和のスパイに憧れていた。
が、憧れというのは未だ世間も知らず、愛と平和と自由の意味さえ知らない子供時代の無責任の夢である。世間の意味合いを人並み程度に知った今となっては労働基準法も遵法されない胡乱な組織に就職したい筈もない。
ところが現に吾輩の眼前のコーヒー皿にはいつの間にやらテープレコーダーが乗っていて、大平透的音調で愛と平和と自由の為に、某企業のご子息を救い出せと言っている。
「なお、このテープは自動的に消滅する」
と、テープレコーダーは言った。
消滅……?
「コーヒーをお下げしましょうか?」
ボーイが言ってカップとテープレコーダーを引き取った。
「ああ……」と吾輩は曖昧な返事をした。
ボム。
テープレコーダーが爆発し、ボーイ諸共消滅した。床には僅かな焦げ跡のみが残る。
いや、吾輩の頬に一滴の血飛沫が。
一個の人間が眼前で、血飛沫の一滴を残して消えた。
「……」
どのような仕組みか分からないが、人間一人が消滅する程の爆発で、他に被害は全く無い。まるで夢でも見たかのようだ。
警察に通報する?
いや、とりあえずホテルの人間に。
逡巡する吾輩の目の端に女給の黒服が映った。あの女給が!
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山田ポンタ郎は彼に珈琲を運んだ女給を追った。
「あんた」
彼女が山田ポンタ郎の元にテープレコーダーと、共すれば彼をも消滅させる爆弾を運んだに違いなかった。
「何ですか?」
女給は言った。彼に珈琲を運んだ女給では無かった。山田ポンタ郎は女給の顔を思い出そうとしたが、もう彼には思い出せない。
サラリとした黒髪のロングヘアー。
山田ポンタ郎は周囲を見回して黒髪ロングヘアーの女給を探した。だが、彼の探すサラサラ髪は何処にもいない。
「どうしたでござる?」
山田ポンタ郎を追った十七夜月持碁郎が不思議そうな顔をした。「いや」と山田ポンタ郎は言葉を濁した。
「……何でも…無いッ…!!」
山田ポンタ郎は言った。
何処で秘密組織が監視しているか分からない。迂闊な行動をすれば、山田ポンタ郎や、同志十七夜月持碁郎氏が暗殺されかねない。平常だ、何も無かったフリをして平常に努めなければならない。
研修会が始まるアナウンスがされた。
不穏の中、大日本医療器械の全国研修会は開始される。
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「そこの山田ポンタ郎!」
平たい胸の女の声がする。
「姫たん」
と呼んだ吾輩を姫たんが蹴った。
「痛い!」
「破滅田を見なかったか?」
「見てません」
「私は一度営業所に戻る」
「どうしたんですか?」
「営業所でトラブルが発生した。破滅田がこの前修理した製品が爆発したらしい」
「爆発?」
「病院がカンカンになって、営業所に直談判をしに来ているらしい。破滅田を見かけたら、直ぐに営業所に戻れと伝えるように」
「分かりました姫たん」
「姫たんじゃない!」
と姫たんが吾輩を蹴った。
骨の軋む音がした。
吾輩は姫たんを見送った。
この研修会場は危険だ。
外に出た方が良い。
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山田ポンタ郎に見送られて、大日本医療器械南都営業所の営業所長秋葉姫子は会場を後にした。
帝都を、混雑する雑踏を足早に過ぎる。
人波の奔流。
眼前を無機的に過ぎ去る人生のような。
営業所に来たというクレーム主。無事に対応できるだろうか。研修会場に残してきた部下たち。何も問題は起きないだろうか。我が身一つが恨めしい。
不穏の空気に胸騒ぎがする。
秋葉姫子は立ち止まり、後ろを振り返った。
無言の人波の渦中にある。
背後には南都の摩天楼が聳える。秋葉姫子に人波がぶつかった。
あからさまに不機嫌で舌打ちをして通り過ぎる男。摩天楼の合間に見える、やけに青い空が、不穏だ。
———
「落としましたよ」
廊下に佇む山田ポンタ郎に声を掛けた者がいた。
振り向くと、それはピンクの股布の女御であった。先ほど覗いた彼女の股布が、今の山田ポンタ郎にはありありと見える。
「すみません」
山田ポンタ郎は言って、「それ」を受け取った。
「……」
テープレコーダーであった。
爆発物!
反射的に彼はそれを隠した。先程のテープレコーダーの爆発で人間一人が消失した。この、テープレコーダーは危険だ。
テープレコーダーのスイッチがカチりと鳴った。
彼は慌ててその場を後にした。歩き去る彼の耳には新たな指令の声が流れる。
「おはようフェルプス君。」
このホテルの向かいの珈琲ハウスは我が国に反旗を翻す革命軍のアジトになっている。今日はその珈琲ハウスに革命軍の幹部が現れるという情報を我々は掴んだ。彼らの勢力を弱めるためには幹部をひとりずつ粛清していく必要がある。そこで今回の君の任務だが、爆弾を使って珈琲ハウスに現れた幹部を店舗もろとも爆破してくれ。幹部の詳細な情報はない。君と仲間の調査力に期待している。
例によって君もしくは仲間が捕らえられ、或いは殺されても当局は一切関知しない。
尚、このテープは自動的に消滅する。
と言ってテープレコーダーは彼の目の前で噴煙を上げ始めた。
「待て待て待て」
慌てた彼は噴煙をあげるテープレコーダーを放り投げた。
それを、たまたま歩いていた掃除夫が受け取った。
「あ!」
山田ポンタ郎は慌てた。それは爆発する。
「投げて!」
山田ポンタ郎は言った。いまこの瞬間にそれは爆発し、近くにいた人間は爆死する。
掃除夫は怪訝な顔で、山田ポンタ郎に向かって、テープレコーダーを「投げ返した」。
「……!!」
山田ポンタ郎は声にならない悲鳴をあげた。空中でテープレコーダーは爆発し、消失した。彼は呆然と、眼前の花火を見届けた。
「フェルプス君、だと」
彼はフェルプス君ではない。
だが、彼をフェルプス君と呼ぶ輩がいる。その連中が、何故か山田ポンタ郎氏を国家的エージェントに仕立て上げようとしている?
いや、単に彼を爆殺しようとしている?
「司令」と呼ばれる爆発物が彼を暗殺しようとしている。
「いや、そんな馬鹿な」と山田氏は言った。
「悪戯が過ぎる……」
研修会の余興か何かだろうか。
今晩の親睦会で、山田氏が謎の組織に翻弄される姿が放映されて、皆で彼を嘲笑うのだろうか。先程、消失した筈のホテルのボーイがプラカードを持って笑顔で現れるのだろうか。
彼は自らが「国家の秘匿する秘密組織の重宝員と誤認され国際的犯罪集団を壊滅させることになる可能性」と「某テレビ番組好きの愉快犯が山田ポンタ郎に固執して爆発物を送りつけ山田ポンタ郎の命を狙う可能性」と、単にこれらが悪戯である可能性、それらを検討し最も現実的な「現実」を検討した。
そして、それらの可能性に関わる重要な事実を彼は思い出した。
「そういえば」
今日は吾輩の誕生日だ!
ひとりで生きる事が長過ぎて、彼は今まで自分が本日誕生日を迎えていることを忘れていた。
「サプライズ!」
そう、これはサプライズなのでは無いか。
サプライズという名の悪戯だ。
それが「現実」だ。
周章狼狽する吾輩の姿を誰かが盗撮している!技術に明るい破滅田が一枚噛んでいるに違いない。所長もそれを認めているかもしれない。それでは同志十七夜月氏は?彼も加担していのかも。破滅田が作成した盗撮装置が山田ポンタ郎を隠し撮りしている。
山田ポンタ郎は周囲を見回した。隠しカメラか、撮影班がいるのではないか。
「騙されないぞ!」
途端に彼は心臓がウキウキと鼓動するのを感じた。誕生日!なんと素敵な響だろう。彼にも生まれた日があって、祝福された日がある!
太陽!空!風!全てが彼を祝福しているように感じた。
「騙されないぞ!」と独りごちた彼の顔は数瞬間前の猜疑に満ちた顔では無い。これから起こる幸福を期待して喜色満面となっている。
「騙されないぞ!」
と言った彼の右手が、何かに触る。上着のポケットに何か固いものが入っている。
彼はそれを取り出した。
一見して、爆発物の遠隔スイッチである。ボタンがひとつ付いている。
「君の任務は幹部の現れた珈琲ハウスを店舗もろとも爆破すること……」
大平徹調の指令が甦る。
「まさか?」山田ポンタ郎氏は言った。
彼の手に握られたのは爆弾の起爆装置なのだろうか。これも悪戯であろうか?
「どうしたでござるか」
山田ポンタ郎氏の不審な挙動を気にした十七夜月氏が彼を追いかけ、肩を叩いた。
「うっわでべでべ」
山田ポンタ郎は素っ頓狂な声を挙げた。危うくボタンを押しかけた。
だがそうして驚いた彼を彼自身が嘲笑した。「まさか爆弾など!」
これは起爆装置では無い。これを押しても目の前のコーヒーショップは爆発しない。
そう、これはジョークだ。
彼は十七夜月氏を観察した。隠しカメラは十七夜月氏に取り付けられている可能性が高い。
「じろじろ見てなんでござるか?」
十七夜月氏が言った。隠しカメラは見つからない。だが山田ポンタ郎は破滅田龍之介の技術力を知っている。彼ならば、洋服のボタンに隠しカメラを仕込む事だって容易いのだ。
周章狼狽の姿を晒すより、いっその事カメラの前でスイッチを押してやろう。
つまりサービスだ。彼を担ごうとする心優しき同輩への。
山田ポンタ郎は十七夜月氏を見据えて、起爆装置の黒ボタンに手をかけた。
カチリ。
外から爆発音がした。
次いで、人々の悲鳴と喧騒が始まった。
窓から、立ち上る黒煙が見える。
彼は二階の窓から外を見た。
ホテルの通りを挟んだところに珈琲ハウスがあって、その入口から朦々と煙が上がっている。
「本物だ……!」
彼は思った。人が立ち止まり、店の周囲を遠巻きに囲んだ。
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「ある商品が普及する段階にはキャズムと呼ばれる波があり……」と研修講師が喋っている。南都支店のお転婆な営業所長と異なり、服の上からでも分かるようなナイスバディな若娘だ。だが、彼女のカーブも吾輩、山田ポンタ郎の精神を癒せるものではない。
未だに窓外に上る黒煙を見ながら吾輩は恐怖に震えている。
研修講師が説明する裏側で、いま外の街路には救急車や消防車、警察車両が次々到着した。
日中の爆発!
と、モバイル端末のニュース速報が止まらない。
ニュース速報で発表される死傷者数が次々増えた。
「死者15人を超える大惨事…」とニュースの見出しに。
「殺ってしまった……ッ!!」
吾輩の浅慮によって、吾輩は大量殺人者になってしまった。
吾輩は知らぬ間に我が国の、或いは某国の秘匿する秘密組織のエージェントになってしまったようだ。吾輩の下に次々謎組織の司令が送られてくる。
「それでは」とおっぱいの大きな研修講師の若娘が言う。
「お手元の端末をご覧下さい」
各自がデジタルパッドから伸びるイヤホンを耳に挿す。
「ある先進的な商品が生み出された時に、それらを意欲的に用いるユーザーをイノベーターと呼び、次いでイノベーターにインフルエンスされて用いる層をアーリーアダプターと呼びますが……」
と、研修講師がおっぱいを揺らして説明をしている。研修生たちはデジタル端末の画面に映し出された研修映像を眺めている。
それなのに吾輩の端末には……
「おはようフェルプス君」
と、端末が喋り出す!
来た……ッッ…!!
この場所は危険だ!何せ、司令の後にこいつらは必ず爆発する!吾輩は端末を持って研修会場を出ようとした。
「何処へ行くつもり!」
研修講師が制した。研修開始前にあったおっぱいの大きな若娘である。
「お腹が痛くて……ッッ…!」
吾輩の渾身の演技だ。早くこの喋る端末を何処かに捨てなければ!
「我慢しなさい!!」おっぱいの大きな研修講師は言った。
「そんな…馬鹿な……ッッ!」
この研修講師は頭がおかしいのか!もし吾輩が本当にお腹が痛かったならば、爆発するのは爆発物ばかりでは無い!
そんなやり取りをしながらも、端末から流れる音声は冷静沈着に、吾輩に向けて司令を伝える。
君と仲間たちの活躍により、反政府組織のアジトは壊滅した。先程の指令は反政府組織の幹部を爆殺するものであったが、こちらの思惑に気付いた反政府組織はアジトから機密情報を極秘裏に持ち出そうとしていたのだ。もし機密情報が持ち出されていれば、また彼奴らは別の場所にアジトを構えていたに違いない。
君の迅速の判断が彼奴らに与えた損害は大きい。流石、国内随一と呼ばれるスーパーエージェントだ、と言わざるを得ない。
だが、我々にとっての問題は残されている。何故、彼奴らは我々の思惑に気付いたのだろう?我々は君たちの中に敵のスパイがいると疑っている。そこで、次の君の任務だが、君は革命軍のスパイを見つけ出し、拘束し、無力化して欲しい。我々は君の捕まえたスパイから様々な優位の情報を得られるだろう。念の為、君に爆弾の起爆装置を届けておく。我々が隠した爆弾を見つけ出し、有効に活用してくれ。君と仲間たちの活躍を期待している。
例によって君もしくは仲間が捕らえられ、或いは殺されても当局は一切関知しない。
尚、このテープは自動的に消滅する。
と言った直後に吾輩の端末が煙を噴いている!
「ちょ、まっ!」
吾輩の目の前で端末は爆発した。幸いに吾輩は爆死を免れた。
研修会場がざわめいた。
「あら、これは何?」
女講師がどう見ても爆弾の起爆装置を手にしている。
「ま、ままま」吾輩は言った。
「なに?」女講師が起爆装置のボタンを押した。
何処かで、爆弾が爆発する音がした。会場が揺れた。
そのざわめきのただ中に吾輩は佇んでいた。
「爆発君」
誰が呼んだか吾輩のアダ名が確定した。
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「ねえ爆発君」
と女御達が興味本位の不躾な視線を投げかける。
本日の研修プログラムはホテルのボーイが爆発に巻き込まれて人知れず消失したこととホテル前のコーヒーハウスが爆発し多数の死傷者が出たこと、ホテルの上階で爆発物が爆発し、数部屋の宿泊客が巻き込まれたことを除けば無事に終了した。
いまはホテルの別会場で社員交流会を兼ねて立食パーティが催されていた。
世界平和と万民の健康生活を願い乍ら静粛の私生活を送る吾輩を、乳ばかりが発達し浅瀬仇浪の婦女子が囲む。彼女らの乳が学科を終えた開放感によって一層の倨傲を増していた。吾輩が所属する南都営業所の営業所長とは異なって、乳たちが揺れている。右を見てもぶるんぶるん。左を見てもぶるんぶるん。凶悪だ。素晴らしい。いや凶悪だ。極悪の乳だ。罵られながら蹂躙されたい。
「なんでござる?」
寡黙症の吾輩に代わり、乳たちからの質問には我が友人十七夜月持碁郎氏が返事する。
吾輩と朋輩十七夜月氏を囲む乳達は三人。名前は知らないがこれまでの研修会で見た事のある面々。名前は知らないが今日のパンツの色は右から白、白、青である。
「何で爆発したの?ウケるww」
と白いパンツの女子が言った。
「それwww」
と隣の白いパンツの女子も笑う。
「吾輩は秘密組織のエージェントであるからして」
と吾輩は説明を試みた。
「吾輩!ぶげら!」
単に女子達の失笑を買って終わった。笑う度に女御たちの乳がぶるんぶるんと揺れた。
乳たちの快活に揺れる事に相反して、吾輩には陰翳と焦燥があった。
この会場には少なくとも吾輩をスパイと思い込み指令を届けるメッセンジャーと、敵対組織に吾輩らの情報を横流しする裏切り者がいる。
吾輩に課せられた使命は我々を裏切り革命軍に情報を流すスパイを見つける事である。
……。
いや、違う。
秘密組織のメッセンジャーに人違いである旨を伝えて、司令という名の爆発物を回避し、吾輩の平和な日々を復権させる事である。
某企業のご子息の救出や裏切り者の拿捕、反政府組織の殲滅などは瑣末事であって、吾輩が吾輩の日常を取り戻す事。これが最優先事項である。
「最後に確認するが」
吾輩は女子達に言った。
「本当にこれはドッキリでは無いのだね?」
「イミフ!」
女子達は爆笑した。諸兄諸君、事情を知らぬパンツ共に嘲笑される吾輩を憐れみ給え。
「爆発君は千載君に似ているわ」
青いパンツの女子が言った。推定Dカップだ。スリーサイズはB85W58H82、28歳B型獅子座。某県某市在住。通勤方法は自転車。特技はピアノ。学生時代は水泳部所属。末っ子。両親のどちらかは公務員。事情は知らないが最近婚約者と破談をしていて恋人募集中。あくまでも推定だ。
—--
「千載君」という名前を吾輩は知らない。
Dカップ。スリーサイズはB85W58H82、28歳B型獅子座と目される青パンツの彼女に千載君を誰何した。
「千載君は彼のことよ」
青いパンツのDカップ。スリーサイズはB85W58H82の彼女は吾輩に千載君を指差した。
「彼よ、ええと所属は何処なのかしら」
と青いパンツの乳娘が教えてくれた御仁、千載君と呼ばれる男は吾輩とは似ても似つか無い。吾輩の方が貫禄があるし、渋みがきいている。あのような青二才と一緒にされるのは心外だ。乳たちの目は節穴だろうか。
「似てるでござるな」十七夜月氏が言った。十七夜月氏の目は節穴だろうか。
「似てる」
破滅田氏が何処からともなく現れて言った。破滅田氏の目も節穴だ。
「所長知らない?」
破滅田氏は言った。
「姫たんでござるか?営業所に帰ったでござるよ。うちの製品が爆発したとかで、病院が営業所に怒鳴り込んで来たでござる」
「あれ?そうなの?」と破滅田龍之介氏は言った。
「破滅田氏が修理した製品らしく、姫たんが貴兄を偉い剣幕で探していたでござるよ。早く行かないと貴兄は空手チョップで死ぬでござるよ」
「え?そうなの?」と破滅田氏は言った。
「じゃあ」と慌てて破滅田氏は営業所に戻るのであった。
社員の親睦会にも関わらず、千載君は一人で会場の隅端に居て、ひとり食事をしている。
彼もまた寡黙症であって世界平和の希求者であるように思われた。
推定、A型蟹座。座右の銘は推察するに「勤倹力行」。吾輩に劣らぬ普通人、平平凡凡のサラリーマンとお見受けする。
その時。
吾輩に恐ろしい、悪魔の考えが浮かんだ。
何故か秘密組織のエージェントに間違えられている吾輩の立場を、吾輩に近似する千載君に替えられないものか。
彼が吾輩に変わってスーパーエージェントであると誤認されれば、危険な任務も、火薬の分量が適当な爆発物(テープレコーダー)も千載君に届くのだ。そして吾輩は元通り平和の希求者。医療機器メーカーに奉職して万民の健康生活を希う平平凡凡のサラリーマンに戻れるのだ。
その為には。
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丁度、ステージでは余興が始まった。
有志のバンドメンバーが生演奏を披露する。ジャズだ。
次には素人マジシャンが手品を披露する。彼は確か北海道営業所の人間だ。器用なものだ。吾輩はつい、危険も忘れてステージに魅入った。
様々な営業所が集まる本研修は、営業所対抗のかくし芸大会が恒例となっている。
各営業所から一人、もしくは一組がステージに立たされるのである。優勝者以下には賞金や豪華賞品が進呈されるので、進んでステージに立つ者も多い。
吾輩の所属する南都営業所からは十七夜月持碁郎氏がダンスパフォーマンスで参加する。
「その格好は?」
「らびたんでござるよ」
恐らくは十七夜月氏が自作した大日本医療器械のマスコットキャラクター「らびたん」の着ぐるみを着ている。
「行ってくるでござる」
氏の鼻息が荒い。らびたんが彼に憑依したのだろうか。
「頑張って」
吾輩は言った。
ロックミュージックが流れると共に。
十七夜月氏が扮するらびたんは痩身を震わせて踊り始めた。
日頃の十七夜月氏からは想像もつかない見事なダンスだ。エネルギッシュでキレがある。プリミティブで、前衛的だ。
らびたんの設定を吾輩は知らないが、このような暗黒舞踏を踊るキャラクターではあるまい。その姿は人間の運命を非情に刈り取る死神のようにおぞましい。身の毛がよだつ。人間の深層心理を震わせる何かがある。
だが、良い。
会場が彼のパフォーマンスに圧倒され、絶句した。
「良かったよ」
吾輩は彼を労った。一体、この練度に達するまでに十七夜月氏はどれ程の熱量を注いだのだろう。
「まあね、天使のようでござったろう」
十七夜月氏はそう言って、着ぐるみを脱いだ。
十七夜月氏の薄毛が汗に濡れていた。
—----
山田ポンタ郎がトイレから出てきた時、彼は大日本医療器械のマスコットキャラクター「らびたん」の着ぐるみを着ていた。先程のかくし芸大会で十七夜月氏が着ていた着ぐるみを借りたのだ。
未だ彼の熱気が着ぐるみの中に篭っている。
山田ポンタ郎はらびたんの中に隠れる事で、組織の人間の目を欺き、この会場内に潜むエージェントの正体を探るつもりであった。
完璧な変装だ。
組織も山田ポンタ郎が急に消えて狼狽しているに違い無かった。会場内で不審に狼狽している人間こそが、組織の人間なのだ。らびちゃんの口から覗くふたつの眼が、会場内の不審な人物を探す。
だが、会場の中でらびたんは目立ちすぎていた。
「らびたん!」
と女御達に囲まれた。先程山田ポンタ郎氏を囲んだ女御たちである。
「なんだ爆発君じゃん」
その中のひとりが、らびたんの口中の黒いメッシュを覗いて言った。
「本当だ、爆発君」
山田ポンタ郎の所在は簡単に割れてしまった。
「お皿を取り替えますよ」
お婆さんの給仕が新しい皿を持ってきた。
「ああ、ありがとう」
らびたんの隣にいる十七夜月氏は言った。
チーズは如何ですか?
黒髪ロングヘアーの女給が近付いてきて、チーズを差し出した。
「ありがとう、ありがとうでござるよ」
十七夜月氏は言った。
お皿にチーズがひとかけら乗った。
そして。
「おはようフェルプス君」
十七夜月氏の持つ皿に乗った、そのチーズが喋り出した。
「なんでござる!」
十七夜月氏が言った。
チーズが大平透口調で喋っている。
来た……ッッ!!
山田ポンタ郎はチーズに仕込まれた火薬量を推し量る。見誤れば、司令を伝えた後のチーズ爆弾によって山田氏と十七夜月氏は死ぬ!
こんな小さなチーズに人間を殺傷する火薬は詰めない筈。と山田ポンタ郎が推量する間も司令は再生される。
君に与えた任務は組織の裏切り者を誅殺する事だ。だが、任務に進展は無さそうだな。君ともあろうものが、どうした事だろう。
そこで我々は君の本気を引き出すために、ある趣向を凝らす事にした。
まずはこの音声を聞きたまえ。
と音声が言った後に、「助けて」と声がした。
若い女の声だ。
「この声は、姫たん!」
十七夜月氏が言った。
聡明な君ならもう察しはついただろう。
我々の観察した所によると、君はこの女御に慕情を寄せているようだ。恥ずかしがる事はない。だが、君の任務がこのまま停滞を見せるようであれば、この女御は南都湾に沈む事になるかもしれない。
さあ、任務を続けよう。念の為、君に爆弾と起爆装置を送っておく。爆弾は少し遠い所に隠しておく。爆弾を見つけ出し、有効に活用して欲しい。君の活躍に期待している。
例によって君もしくは仲間が捕らえられ、或いは殺されても当局は一切関知しない。
尚、このテープは自動的に消滅する。
山田ポンタ郎はチーズを掴んで窓外に放り投げようとしたが、見知らぬ男性社員が現れて、事情を知らぬままチーズを食べてしまった。
「ウィー!」
「あ!」
ぼむ、とチーズは口中で爆発した。
男性社員は大量の血を吐いた。
げええ。
医療班が彼を連れ出した。
「どういう事でござる!」
十七夜月氏は言った。
「さっぱり訳が分からないでござる!」
なんてことだ!と山田ポンタ郎もまた焦りを感じていた。まさか秘密組織の連中がここまでするとは思わなかった。革命軍を倒すために人質を取るなんて!いや、それは山田ポンタ郎の認識が甘かったのだ。秘密組織の非情な司令によって多くの人命が死傷した。悪の組織なのだ、奴らは。
「おや、これは?」と十七夜月氏の手に爆弾の起爆装置が握られている。
「押してはいけない!」と山田ポンタ郎が制止する前に躊躇なく十七夜月氏はスイッチを押した。
彼らが知るべくもないが、その瞬間、最寄り駅のホームのゴミ箱から爆発が起こって数十名の死傷者が生じた。彼らが知るべくもないが。
「一体、何なのでござる!」と十七夜月氏は言った。「姫たんはどうして誘拐されたのでござる!」
山田ポンタ郎は事情を簡略に説明した。秘密組織は裏切り者を探して躍起になっているのだ。
「拙者は朝から会場の人間を観察しているでござる。この会場には怪しい人物がひとりいるでござるよ」と十七夜月氏は言った。
「ほう、それは?」
「山田氏にそっくりだと言われていたあの御仁でござる」
十七夜月氏が怪しむべきと指摘した人物は千載君であった。
「千載君!」
意外な人物が上がった事に山田ポンタ郎氏は驚いた。
十七夜月氏と千載君は面識が無い。怪しむべく材料を十七夜月氏は持ち得ない筈である。
ところが。
「千載君は今日一日、そわそわと挙措が不審でござる」
「それは彼の平常なのでは?」
「いいや、拙者も南都営業所の営業エースでござる。人間心理の洞察に抜け目はないでござるよ」
平常心の人間と、平常ならざる人間の区別はつくのだと云う。
「そして、もっと大きな秘密が千載君にはあるのでござる」
と十七夜月氏は云った。
—-------
—-----
「もっと大きな秘密が千載君にはあるのでござる」と十七夜月持碁郎同志は云うのであった。
「それは何だ」
山田ポンタ郎同志は言った。
「千載不遇氏は我社の社員でないでござるよ」
「!」
十七夜月持碁郎氏が調べた今回の研修参加者リストに千載不遇の名前がない。
彼が所属していると言われた北都営業所は存在しない。
千載不遇は幽霊の如き存在である。
「千載君を探すでござるよ!」
と十七夜月氏は言った。
その十七夜月氏の前に立ちはだかる者がいる。
「ドルチェはいかがですか?」
黒髪ロングヘアーの女給であった。
「ありがとう、ありがとう」
十七夜月氏は言った。
そして。
十七夜月氏ほ持つ皿に乗ったミックスベリークリームのドルチェが喋り出した。
「おはようフェルプス君」
「またでござる!」
十七夜月氏は言った。
大平透の口調でドルチェが喋る。
反政府組織の幹部が、会場内に現れる、という極秘情報を我々の諜報員が入手した。我々の組織を裏切る反逆者と接触するつもりらしい。彼らが接触し、互いの情報を共有する事で彼らは我々の組織に直接攻撃ができる可能性が生まれる。我々の組織に対する危険の萌芽は可及的速やかに摘まなければならない。
そこで君の任務の内容が変わった。
反政府組織の幹部が会場に現れたら、君は会場を爆破し、裏切り者と反政府組織の幹部を爆殺するのだ。
これは重要かつ非常に難しい任務だ。そこで今回は君に有能な部下を付ける。
先程から君に我々の指令を伝えていた人物レディーMだ。彼女と協力して任務が完遂される事を祈る。
例によって君もしくは仲間が捕らえられ、或いは殺されても当局は一切関知しない。
尚、このテープは自動的に消滅する。
と言ってドルチェは爆発した。毎回仕込まれる火薬量が適当で、今度は大した爆発ではなかったが、十七夜月持碁郎の顔に爆ぜた生クリームが飛沫した。
「失敬でござる」
十七夜月持碁郎氏はハンケチで顔に張り付く生クリームを拭った。
黒髪の女給はもう逃げなかった。
「君がレディMか」
「そうよ、私がレディM」
黒髪ロングヘアーのカツラをとるとその女性は研修講師のおっぱいさんだった。
「おっぱいさん」
「誰が?」
いや、失礼。と山田氏は謝った。
「我らの姫たんは無事でござるか」
「無事よ、今はね」
「見事なおっぱいでござるなあ」
「我らの姫たんとは大違いだなあ」
「なんなの、失礼ね?」
と、おっぱいさんは言った。
「そもそもあなた、さっきから見てると不真面目よ。やる気あるの?」
とおっぱいさんはらびたんに言った。
だが、秘密組織のエージェントと誤解されているに過ぎない山田ポンタ郎にやる気はない。
「それなんだけど」
と山田ポンタ郎は自身の状況について、かいつまんで説明した。
「えっ!」
研修講師のおっぱいさんであるレディMは言った。
「人違い?」
「そう」と、山田ポンタ郎は言った。
「そんな筈はないわ、だって目印があるもの」
「どんな?」
「社員証のネームホルダーの首紐が赤いのよ」
確かに山田ポンタ郎のネックストラップの紐が赤い。
「紐が赤い社員は会場内で一人だけの筈よ?」
らびたんと十七夜月氏は周囲を見回した。
「確かに本当のようでござるが……」
「それも含めて何かの間違いかと」
「それじゃ本物のエージェントは何処にいるのよ」
「知らないよ」
おっぱいさんは混乱の事態に懊悩したが。
「まあ、いいわ」
と明るく言った。
「何が?」
「だって後は会場を爆破したら、この任務は終わりだもの」
—-----
爆破ボタンを押そうとしたレディMを慌てて取り押さえ、らびたんこと山田ポンタ郎と十七夜月持碁郎はホテルの備品庫にいる。
口をガムテープで塞がれたレディMが何事か喚いている。
「こんなことして良いと思ってるの?」
と大きな声をあげるので、再びガムテープで口を塞いだ。
「貴兄らは何と戦っているでござる?一体、革命軍の幹部とは何でござる?」
と十七夜月氏は聞いた。
「革命軍は元々私たちの仲間だった諜報員が作ったのよ。今日現れるという幹部も、元諜報員よ。私たちと袂を分かち、国家転覆を狙っているわ」
「国家転覆なんて狙わないと思うよ」
とらびたんの中の山田ポンタ郎は言った。
「どうして袂が分けられたのでござるか?」
十七夜月氏が尋ねた。
「要するに単なる仲間割れでしょ?さっきからあんた達のやってることおかしいし。あんた達のが反政府的だと思うよ」
「馬鹿にするなもがあ!」
おっぱいさんが騒ぎそうなので山田ポンタ郎がガムテープを口に貼った。
「自分が属する組織の正体も知らないのにね」
「その組織を抜けて反対勢力になった御仁はどんな人物なのでござろう?」
「もが」
おっぱいさんが話したそうにしている。
「技術者よ、スパイ活動に役立つあらゆる機械が彼の手によって生み出されるわ。先程の喋るチーズや喋るドルチェも彼の技術よ。爆発する時に電子頭脳が適切な火薬量を調整するのよ。この技術によって我々はあらゆる証拠を消す事ができる。彼は発明のエキスパート、コードネームはデストロイ」
「デストロイ……」
「発明よりも壊す方が得意そうでござるよ……」
「電子頭脳が壊れているんじゃないか?司令が爆発する度に死傷者が出てる」
「適切よ!」レディMが言った。
「その天才発明家がこの会場内に潜んでいるのよ」
「でも、例によって顔が分からないんだろ?」
「顔は分かるのよ。手配書が出回っているから」
その時、備品庫のドアが開いた。
「!」
事情を知らぬ者に見られたら大変不味い状況である。男二人で一人の婦女子を縛っているのであるから。
山田ポンタ郎氏は持ち前の瞬速演算でこの場を乗り切る方法を考えた。だが、思考はオールレッド。この危機は回避できない。
かくなる上は現れた人物も縛り上げるしかない。山田ポンタ郎氏はらびたんの格好で身構えた。
だが。
「探したよう」
と言って現れたのは山田ポンタ郎、十七夜月持碁郎の同僚、破滅田龍之介であった。
「営業所に戻ったんだけど、クレームなんてなかったよ?先に戻った筈の所長もいないし」
と、破滅田が備品庫に入ってきて見たものは。
「もがもが!」
縛られたおっぱいさん。
「……」
らびたんの着ぐるみを着た不審者。
それに加えて
「所長は誘拐されたでござるよ」と十七夜月持碁郎の爆弾発言。
「待て待て、情報量が多過ぎる」と破滅田は頭を抱えた。
「何から説明したら良いのでござろう?」
と十七夜月氏も困惑した。
「デストロイ!」と自力でガムテープを外したおっぱいさんが言った。
「はあ?」十七夜月氏が言った。
「おっぱいさんは何を言い出したでござるか?ここにはデストロイなる人物などいないでござるよ」
「誰?」デストロイが言った。
「破滅田氏?」
デストロイと呼ばれた破滅田の空気が冷えている。破滅田氏との付き合いで、カレのこのような表情を十七夜月持碁郎は見た事がない。
「そいつがデストロイよ!組織を裏切り反政府組織に走った犬畜生よ!爆破よ!爆破してやるもがもがもが!」
「破滅田氏はデストロイ殿でござるか」
十七夜月氏は言った。
秘密組織の天才発明家、爆弾のエキスパート。彼の手にかかれば、あらゆるものが爆発する。芸術的殺人者。そんな彼が、いまここに不意に現れたのだ。十七夜月氏とらびたんは、伝説のエージェントを恐ろしく感じるのであった。
「いや、誤解だ」とデストロイは言った。
俺は確かにデストロイだが、反政府軍などとは関わりがない。もう誰にも危害を加えるつもりは無いんだ、とデストロイは言った。
「本当でござるか?」
「本当だとも、大日本医療器械に誓って」
「貴君の発明した爆弾で、先程から人間が死んでいるのだが」
「俺が発明した爆弾なら人間は死なないよ。人を傷付けるものは作った事がない。秘密組織が失敗作しか作れていないんだろう」
「分かったから、そろそろ縄を解いて!」とおっぱいさんが言う。「もう爆破なんてしないから!」
「本当か?」と破滅田殿が言う。
「本当よ」
「いや、嘘でござろう」と十七夜月氏が言った。「拙者、人の嘘は分かるでござるよ」
「チッ」とおっぱいさんは舌打ちをした。
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—-----
おっぱいさんこと国家の秘匿する諜報機関のエージェント、レディM、その諜報機関を辞職していまは大日本医療器械の営業職に務めるデストロイこと破滅田龍之介、その同僚で諜報機関のエージェントと間違えられていた山田ポンタ郎(らびたん)、その同僚でダンスが上手な十七夜月持碁郎は、場所を公に移して状況整理していた。
「つまり」
と破滅田龍之介は言った。
「そういう事か」
「そう言う事よ」
レディMが言った。
「そしてつまり」
またレディMが言った。
「そういう事ね」
破滅田は今でも組織から命を狙われているが、自身が反政府組織になど属していないことを説明した。
「架空の反政府組織を作ることで脱盟者を粛清しているんだ」
「分かったわ」
とレディMは言った。
「随分あっさりと信じるでござるな」
「反政府組織の幹部諸共会場を爆破して、無辜の人民まで犠牲にするなんて、間違ってるわ。それに……」
「それに?」
「デストロイは英雄なのよ、今でも」
「本当?」破滅田が言った。
「あなたと、もう一人。私たちが忘れられない英雄がいる」
「誰でござるか?」十七夜月氏が言った。
「ディスティニーか」秘密組織の天才小道具担当デストロイこと破滅田龍之介が言った。
「そうよ」
「あれは俺がまだ組織に入って間も無い頃の事だった……」
と遠い目をしたデストロイが語り出す。
俺は革命軍に誘拐された南米にある某国の大統領が練馬区に囚われていると聞き、単身革命軍日本支部アジトと目される、冷凍倉庫に忍び込んだ。だが、それは俺たちの組織を狙う革命軍の罠だった。俺は冷凍倉庫に閉じ込められ、刻々と体温を失った。逃げる術は無かった。
死ぬ!
俺は絶望した。冷凍マグロに囲まれて俺は死ぬのだ。冷凍マグロと死ぬ運命。そんな死に方をするとは思わなかった。刻一刻と俺は死に近付いている。俺は全てを諦め、運命に身を委ねた。
寒い、死ぬ、寒い。寒いことも死ぬことも恐ろしかった。涙は流れる前に凍って、眼球を刺した。
だが、俺は死ななかった。
俺の運命を覆したのは、一人のガスマスクの男だった。
一人の男が、冷凍倉庫の床まで地下トンネルを掘って現れたのだ。
彼もまた某国の大統領が、冷凍倉庫にいると信じて現れたエージェントだった。
彼は冷凍倉庫に大統領はおらず、冷凍マグロと今にも氷漬けになりそうな俺しかいない事に驚いていた。
騙された!彼は悔しがった。畜生!呪ってやる!と一頻り文句を言った。
それから俺たちは彼の掘ったトンネルから逃げた。地球の中心まで続くかと思われる程、何処までも続く長いトンネルだった。
逃げながら俺は考えた。俺と彼の違いはなんだろう。騙されて死ぬ運命だった俺と、騙されながらもハードラックを免れる彼。
外に出た。朝日が目に眩しい。俺は生き延びたのだ。
それで俺たちは解散した。
お互いに接点を持たない。それが俺たちのルールだ。
だが、俺は彼の背中に話し掛けた。何故、君は。
彼は返事をしなかった。
グッバイと手を振り上げた。
彼は英雄だ。背中が全てを物語る。
エージェントが絶体絶命の危機に陥った時、どこからともなく英雄が現れて、エージェント達を救ってくれる。そんな噂を俺は聞いた。彼だ、俺は思った。その英雄の名前は……。
「ディスティニー……」
と、デストロイこと破滅田龍之介は言った。
「そうよディスティニー、私もかつて……」
とレディMもディスティニーに命を救われたという因縁を長々語るのであった。
「ディスティニー……」
と話終えて、レディMことおっぱいさんは英雄の名前を呼んだ。
「おはようフェルプス君」
唐突に、何かが喋り出した。秘密組織の司令だ。爆弾混じりの。
「きゃあ!」とレディMが悲鳴をあげた。
何が喋っている?
声のする先に耳を傾ける。
喋っていたのはレディMが身に着けるブラジャーであった。
「こんなものまで喋る!」
十七夜月氏は呆れた。
「デストロイ殿は大した技術者でござる」
「俺が作った訳じゃない」デストロイは言った。
「これ、喋り終えたら爆発するの!?」
レディMが言った。
「爆発は困るわ!」
「脱げ!」デストロイは言った。
一同が騒然とする中、司令官の声は喋り続けた。
「早く脱げ!早く!早く!」デストロイは言った。
フェルプス君。
君は見事に反政府組織の幹部デストロイを見つけたようだ。さすがフェルプス君と言いたいところだが、君はすっかり反政府組織に懐柔されてしまったようだ。
だが君が裏切ることは我々にとって想定済みだ。そして監視に付けたレディMが、役に立たない事もまた我々にとって想定済みである。
こんなこともあろうかと我々は反政府組織の大幹部デストロイと、裏切り者のフェルプス君と、無能者レディMを一斉に粛清する方法を用意している。
いま、君が持っているのはこのホテルに仕掛けられた爆弾のスイッチだ。そのスイッチを押すことが君の任務であった。
もし、君がそのスイッチを押せば、会場は瞬時に爆発した。そして実は同時に君が首から下げている社員証も爆発する事になっていたのだ。
我々は証拠を残さない。「君」という「証拠」も我々は消そうとしていたのだ。だが、君は運良く爆死の難を逃れたようだ。これでハードラックは回避されたと思っているだろう。
だが残念な事に爆弾のスイッチはひとつではない。
さて、フェルプス君。
お別れの言葉の代わりに最後にひとつ言わせて貰おう。
例によって……
と、テープの音声が決まり文句を語り出した。
「不味い!そろそろ爆発するぞ!」
「ブラジャーの爆発で死ぬなんて!」
「違う、会場中が爆発するんだ」
「もう逃げられない!」
君もしくは仲間が捕らえられ、或いは殺されても当局は一切関知しない。
死を、覚悟するしかない。
死の、運命を。
そして、テープは最後の言葉を再生した。
尚、このテープは自動的に消滅する。
「……」
その瞬間に爆発すると思われた会場が、爆発しない。
十七夜月氏が、山田ポンタ郎が、喋るブラジャーを脱ぎかけたおっぱいさんが、破滅田龍之介が。
固く瞑った目を怖々と開けて、互いに顔を見合わせるのであった。
「助かった……のか」
プルルル!
「うっわ!びっくりした!」
爆発音の代わりに鳴ったのはレディMのモバイルフォンであった。
着信の画面を見ると相手の名前は文字化けして読めない。
「もしもし?」と、レディMは電話に応対した。
「おはようフェルプス君」
と、電話主は言った。
電話が遠隔操作されて、自動的に音声が拡声モードに変わっている。
一同に緊張が走った。
会場の爆弾が爆発せずに一安心しているようだね。だがまだ疑り深い君たちの事だ。本当に助かったのか?そんな疑念を抱いている事だろう?
そんな君たちに親切な我々が答えてあげよう。
心の準備は良いかな?
まず、レディM君。君はブラウスの第二ボタンが無くなっている。おっぱいでボタンが弾け飛んだようだ。ブラウスが小さ過ぎるんじゃないのか。
もう少し余裕を持った人間になりたまえ。
そして、ミスター・デストロイ。いいや、我が同志破滅田龍之介君、君の鼻から鼻毛が出ているぞ。折角、良いセリフを決めても鼻毛が出ていては、減点だ。今すぐ鼻毛を抜きたまえ。
そして、ミスター・十七夜月持碁郎。君の勇気に敬意を表する。君の冷静沈着な行動は今回の事件を最小限の被害に留める事に貢献した。さすが大日本医療器械随一の営業マンだ。これから会場で発表される「今年の営業MVP」は君に決まる事だろう。
そして最後に今回の最大の功労者である山田ポンタ郎君、いいや、もう真実を告白しても良いだろう……。
「待って待って」
レディMが電話主の声を遮った。
「…なんだね?レディM君」
「あなた、誰?司令の声では無いわ」
今までのテープレコーダーの声とは違う。
だが、この声には聞き覚えがある。
「吾輩が誰か分かるね?コードネーム、フェルプス君」
と、電話主は言った。
「フェルプス君」と呼ばれたのは山田ポンタ郎氏であった。山田ポンタ郎はらびたんの着ぐるみを脱いだ。
「あっ」
十七夜月持碁郎と破滅田龍之介はそれを見て驚いた。
我らが同志、山田ポンタ郎では無い!
着ぐるみを着ていたのは会場から消えたと思われていた怪人物、千載不遇であった。
男達の驚きを余所に、千載不遇は言った。
「分かるさ、あんたは本物の山田ポンタ郎」
「……」
「そして組織でのコードネームはディスティニー」
「正解だ」
電話主は言った。
「どういう事でござる!」十七夜月持碁郎氏言った。
十七夜月達が今まで山田ポンタ郎と思っていたらびたんの中に入っていたのは山田ポンタ郎ではない。中に入っていたのは千載不遇であった。
そして、本物の山田ポンタ郎は電話の向こう側にいる。
彼のコードネームが?ディスティニー?
十七夜月持碁郎には全く訳が分からないのであった。
「あんたが電話をかけている。これはつまり、そういう事?」
山田ポンタ郎改め、千載不遇は言った。
「そういう事」
と電話主である山田ポンタ郎は言った。
「どういう事?」
十七夜月氏は言った。
「こういう事よ」
と電話主が女性に代わった。
「その声は姫たん!」
と、十七夜月氏は言った。
「助かったのでござるか!」
「そうとも」と山田ポンタ郎は返事をした。
「そして諸君、吾輩から大切なお知らせがある」
「なんでござる?」
「諸君らもご存知かと思うが吾輩は今日が…」
「今日が?」
山田ポンタ郎の声が突然途切れた。
「まだだ」
この大平透口調の機械的な声は!
電話が混線している。割り込まれた通話の電話主が機械的に言った。
「おはよう、フェルプス君。これで終わったつもりかね?我々も国家が秘匿する秘密組織だ。我々を出し抜いて君たちは平和を手に入れたつもりかもしれないが……」
「我々は全てを消滅させる覚悟がある」
「どういう事だ!」山田ポンタ郎が言った。
「この国は自動的に消滅する」
と言って混戦した通信は途切れた。
「なんでござる?」
「さあ」とレディMは言った。
「大変!」
電話向こうの秋葉姫子営業所長が叫んだ。
「ニュースを見て!」
携帯端末では緊急速報で動画が流れた。ニュース番組が国都の中央省庁上空に現れたホログラムに言及していた。
「不気味なカウントダウンが始まりました!」
「爆破マデアト60秒デス」
「爆破マデアト59秒デス」
「爆破マデアト58秒デス」
中央省庁が爆発する?
残り時間は一分。
「これもデストロイ殿の技術でごじるか?」
「昔、洒落で作った国家転覆爆弾だ」とデストロイは言った。
「爆発するとどうなるの?」
「あの建物は消えて無くなるな」
「国家転覆と言うよりも、中央省庁が無くなれば国が滅ぶでござるよ」
「解除出来ないの?」
「現場まで行かないと無理だなあ」とデストロイは言った。
「役立たず!」レディMは言った。
彼らばかりではない。全国が騒然としている!
-----------
彼らのいるホテルは突然停電した。
「何?」
そして数瞬間の後に停電が復旧した時、レディMは突然「ひい」と悲鳴をあげた。
レディMの背後にいつの間にか陰鬱の顔をした黒服の男が立っている。
レディMとてスパイの端くれである。
彼女に気付かす背後を取るなどとは素人に出来る真似ではない。
その部屋の中にいる誰もがその黒服に気が付かなかったのでしある。
「何者だ」
破滅田は身を固くして警戒した。
その直後にもっと驚くべき事態が起こった。
黒服の男は一人ではない。
一同はいつの間にか備品庫に現れた亡霊の如き黒服達に囲まれている。
「きゃああ」
レディMが悲鳴をあげた。
「お前たちの目的は何だ!」
デストロイは言った。彼もレディMも黒服の男たちの正体を知らない。秘密組織の人間では無いのだ。
黒服の男たちの一人が言った。
「国都の爆弾は解除した」
「あ!」
一瞬、備品庫の明かりが消えた。
その明かりが再び灯った時、黒服たちはもう誰も居なくなっていた。
「なんだったんだ」
デストロイこと破滅田龍之介が言った。
「ニュースを見て!」
電話口の秋葉姫子営業所長が言った。
「謎のカウントダウンが消えました!」
中央省庁前の女子アナウンサーが言った。
---------
南都にあるホテルの屋上で、摩天楼を猊下しながら破滅田龍之介以下、この度の騒動の渦中にあった面々は、秋葉姫子営業所長と秘密組織の元英雄ディスティニーこと山田ポンタ郎の帰還を待っている。
ヘリコプターに乗って彼らはやってきた。
破滅田龍之介以下面々はヘリコプターに向かって手を振った。
ヘリコプターが旋風を起こして屋上に着陸する。
それを摩天楼と、南都の夜景が見ている。
—----
拙者、十七夜月持碁郎と申す。大日本医療器械南都営業所の営業エースにして、全店から選ばれた今年のMVPでござるよ。
貴兄らには以後お見知り置きを。
研修会が終わり、一晩が明けたでござる。
疲弊した拙者も程々に眠って、今は朝の珈琲を飲んでいるでござる。香しい芳香がたまらんでござる。それにしても!
危機一髪、十死一生の研修会でござった。爆発に次ぐ爆発を免れていまこうして、拙者が自宅で易易としているのが未だ信じられない冒険でござった。
すべての事は我が同輩、山田ポンタ郎氏が秘密組織のスパイに間違えられて次々と指令が送り付けられる事件に端を発したのでござる。
その数奇のトラブルから逃れるため、山田ポンタ郎氏は、会場にいた謎人物、千載不遇君に接触をしたのでござる。
ところが、嘘から出た真。秘密組織から送り込まれた本当のスパイ「コードネーム、ミスター・フェルスプス」とは千載君だったのでござる。
千載君は秘密組織から逃げたがっており、その契機として会場で見つけた自分にそっくりの男、山田ポンタ郎氏と自分をすり替えようとしたのでござる。
ところが!
そのすり替わろうとした山田ポンタ郎氏こそ!
かつての秘密組織の英雄にして、秘密組織脱盟の先駆、コードネーム「ディスティニー」だったのでござる。
二人は共謀して、千載君はらびたんの着ぐるみに入って山田ポンタ郎のフリをしていたのでござる。これには拙者もすっかり騙されたでござるよ。
その間、本物の山田ポンタ郎氏は何処にいたのかと言えば。本物の山田ポンタ郎氏は変装して会場に潜伏し秘密組織から遣わされた他の諜報員の正体を探っていたのでござる。
ある時は婆の女給、ある時はホテルのドアマン。そしてある時はチーズ爆弾によって吐血した研修参加者として。「ディスティニー」は変装の達人なのでござる。
しかし、秘密組織が我らが南都営業所の営業所長、秋葉姫たんを誘拐した事から事態は急展開。我らが英雄ディスティニー殿は、会場から離れて姫たん救出のため単身、秘密組織に乗り込んだのでござる。
そして、山田ポンタ郎氏の激甚の奮闘により、秘密組織は壊滅。我らが姫たんは無事に救出された。というのが、事の真相でござった。
その後に中央省庁爆発の危機もあったが、それも無事に回避されたでござる。
いやはや、人間の運命は数奇なものでござる。まさか我が同輩、山田ポンタ郎氏及び破滅田龍之介氏らにそんな秘密があろうとは。
ちなみに。
秘密組織がどのような機関であったのか、結局これは謎のままでござる。
情報のデリート機構と呼ばれる物が、組織の本部にはあって山田ポンタ郎氏が組織を壊滅させようとしたその時に、本部の各室は次々爆破し情報はひとつ残らず消えたのでござる。エージェント達が信じたように国家の諜報機関であったのか、それとも正体を偽装する悪の先鞭であったのか、皆目分からないのでござる。我々にテープを送ってきた大平透口調の人物も、我々との電話の後は行方不明。夢幻の如く組織は消滅をしたのでござる。
そうそう、組織の壊滅により、失職したレディM殿と千載君はその場で南都営業所の秋葉姫により同営業所の営業職にスカウトされたでござるよ。
南都営業所は秘密組織の元エージェントばかりになったでござる。彼らの特殊能力を駆使すれば今後の営業成績も期待出来るでござる。南都営業所の営業エースである拙者も、彼らに成績が抜かれないよう気を引き締めなければいけないでござる。
「……」
おっと、拙者宅の呼び鈴が鳴ったでござる。
研修会が終わった本日は、一度各自が家に帰り、昼にまた拙者宅に集まりホームパーティを行う事になったのでござる。
かくし芸大会で拙者の萌えキュンダンスが社長賞を獲得したのと、拙者が年間MVPを貰ったのとW受賞をしたお祝いでござる。新しい仲間の歓迎会も兼ねていて、今宵は大変おめでたいのでござる。そういえば山田ポンタ郎氏も何か重要な発表をしようとしていたでござるな。何にせよ今日は盛り上がるでござるよ。
まだ集合時間には早いでござるが、誰が来たのでござろう?
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「もしもしでござる」
と十七夜月氏は自宅のインターホンに応対した。
黒服の男たちがドア外に立っているのが、カメラに映る。
「悪そうな顔の男たちでござるなあ」
と十七夜月持碁郎は言った。
「ご子息」
と黒服の男が言った。
「お迎えに来ましたよ」
それを聞いて十七夜月氏はインターホンに向かって言った。
「帰るでござるよ」
「ご子息、せめてお話だけでも!」
「ご子息!」
「ご子息!」
「ご子息!」
男たちは必死だ。
本社から十七夜月氏を連れ戻すように厳命を受けたのだろう。
「廊下で騒がれるのは困るでござるよ」
十七夜月持碁郎。
彼こそは一年前に行方不明になったとされる大日本医療器械の社長の落胤である。世界の隅々にネットワークを持つ反政府組織に身代金目当てで誘拐されたのだという陰謀論が時として語られるが、大きな間違いである。実は酔狂で家出をして、身分を隠して大日本医療器械の一営業所に奉職している。
偽名で参加し、時には着ぐるみまで用いて本社の目を誤魔化そうとしたが、本社社員の目は欺けなかった。速やかに身辺調査が行われ、次期社長である事が露見した。
「人には誰しも秘密があるものでござる」
と十七夜月持碁郎は言う。
十七夜月氏の部屋はやってきた本社社員たちでいっぱいになってしまった。
「これから南都営業所の皆が来るのに困ったでござる」
十七夜月持碁郎は途方に暮れた。
また、チャイムが鳴った。
今度こそ南都営業所の誰かだろう。
この男たちを見られて何と言い訳したものか。男たちを押し入れに隠せるだろうか?タンスの中や天井裏。カーテンの隙間に?
風呂場や洗濯機の中に?
男たちを隠すのは至難の業に思われる。
かくなる上は自らの正体を晒す覚悟で客人を迎えるしかない。元エージェントの皆様だから、きっと拙者の酔狂にも寛容に接してくれるだろう。と十七夜月持碁郎は覚悟を決めた。
「もしもしでござる」
十七夜月持碁郎はインターホンに向かって喋った。
返事は無い。
インターホンは無音であった。
空気の乾いた音が、数dbのノイズとなって流れている。
「もしもしでござる?」
もう一度、十七夜月氏はインターホンに向かって話し掛けた。
カメラには誰も写っていない。
静寂が重い。
この静寂に嫌な予感がする。
その時、インターホンの向こう側からカチリ。
と音がして平坦な口調の男性声が喋り始めた。
「おはよう、フェルプス君」
(了)
短編小説「グッモーニン、ミスター・フェルプス」御首了一
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