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短編小説「ネコジン」

「ネコジン」梗概
麻倉ジョゼは西伊豆西浦地区に暮らす世界猫協会の地区会員である。彼はアフリカ大陸から南に800海里を下った孤島にネコジン捜索のために派遣されることになった。だが、ネコジンの島はネコジンの魔力によって事実が奇妙に歪曲される魔の島であった。
大海鴉たち、独立国家建国を企むダンカイロ一味、そして謎の美女カルメン。様々な実存が交錯し、麻倉ジョゼを翻弄する。ネコジンの魔力に抗おうとする麻倉ジョゼであったが、とうとうネコジンの魔力は麻倉ジョゼの実存を覆し、彼をバスク人の少女ミカエラに変えてしまった。自らの実存を取り戻すべく奔走するミカエラであったが、カルメンの妨害によってジョゼ(自らの実存)を奪還することができない。さらにはダンカイロ一味の猫狩りが始まるに至り、ネコジンの島は消滅の危機に晒される。ミカエラは稀代のマタドール、エスカミーリョの協力を得て、ダンカイロ一味からネコジンを守る事を決意する。
「ネコジン」は西伊豆にいる。
舞台は南大西洋の果てから西伊豆に大転回し、ネコジン捜索の物語はクライマックスを迎えたが、ネコジンを見つける事はミカエラにもダンカイロたちにもできない。すべての秘密は麻倉ジョゼが握っている。だがその麻倉ジョゼは何処にもいない。麻倉ジョゼを失ったことでネコジンの島の崩壊が始まるのであった。

補説
西伊豆西浦は静岡県沼津市の内浦と大瀬の間の地区。西浦みかんの産地で、冬に海岸線を走ると蜜柑の無人販売所が点在する。

アフリカ大陸の喜望峰から南下して800海里の絶海に浮かぶ孤島に猫人達が暮らしている事が知れたのは比較的近年の事で、自ら等が唯一無二の知的生物であると自負していた人間共の社会に大きな衝撃を与えた。人間共の作った世界政府は著名の学者を募って学術調査団を編成し、猫人達の生態観察を行うべく絶海の孤島に向かったが、孤島付近の海域で彼らの連絡は途絶えたのである。学者らの乗った船は絶海で海難事故に遭ったのだ。と、急遽に捜索隊が現地へ赴いたが、海域は黒い波面を静かに揺らすばかりで船の残滓は見当たらなかった。世間の人々はこの事について様々に論議した。

「 猫人達に襲撃をされたのだ」
「 この海域は呪われている」
「 船は異次元の穴に落ちて、二百年後に大西洋の或る海域に姿を現すだろう」
「 猫人達の信仰する宇宙神の祟りなのだ」
「 調査団の学者達は学識を巡って内紛を起こしたのだ」

侃侃諤諤の議論が交わされる中、今度は救助隊のヘリコプターが同海域に墜落した。幸いに空軍のパイロットは救助されたが、錯乱して何やら分からない事を喚き続けているという。

「 猫が……猫が……!」
巨大な猫が海域から現れて上空のヘリコプターを飲み込んだのだ。
と、この事件の真相について救助されたパイロットの外戚の隣人の証言を入手した倫敦怪奇クラブの新聞は報じた。

真偽は知れない。

絶海の黒い海域は秘密を保ったまま静かに、不気味に、巨沌の海練を渦巻かせる。


昼のニュースを伝えた後にラジオは、またたクラシック音楽の紹介番組に戻った。

「それでは次にビゼー作曲、カルメンから第一組曲を。」
ジョルジュ・ビゼーのオペラ「カルメン」の曲目からフリッツ・ホフマンが選曲、編曲した組曲。一瞬間の間が空いて、オーケストラは華々しく演奏を始めた。



短編小説
ネコジン

御首了一



よく陽の当たる部屋の、ラジオが置かれた窓際のその下には猫が玩具と戯れている。
転がる玉を右に左にと二匹の猫がじゃれて遊ぶ。
それらは恒久的な動力を持つ永久機関の不規則運動のようだ。
玉が回転している。
玉から磁場が発生し、渦を巻く。
オーケストラは華々しく演奏する。
狂乱の楽曲を。

麻倉ジョゼは彼の猫のために餌を準備した。護謨鞠で遊んでいた猫たちはジョゼの足元にやってきた。
彼の足に纏わりながら喉を鳴らす。
食餌する猫たちの背中を撫でながら麻倉ジョゼは思う。
「平和だ」
いつまでもこんな平和が続けば良い。
彼の手甲には猫型の痣がある。
その猫の痣を彼の飼い猫が舐めた。

ラジオから流れるカルメンの組曲は再びプレリュードの音律に戻った。

カルメンはジョルジュ・ビゼー作曲のフランス語オペラだ。初演は1875年。この作品を作った三ヶ月後にビゼーは心臓発作で死んでしまった。作品は彼の友人が引き継ぎ不朽の名作に改作した。
「歌劇カルメン」は清廉潔白で順風満帆の人生を歩む軍人ドン・ホセがカルメンという妖女に出逢い色香に惑わされる事で全てを失って破滅する物語だ。
灼熱と情熱の国スペインを舞台に逞しい市民たち、荒くれの悪党、栄冠の闘牛士達が物語に交錯する。
前奏曲はこれから起こる狂乱の予兆だ。

「 磁場が混沌としているのだ」
「 海底火山の噴火による影響だ」
学者たちは科学的な見地から絶海で起こった一連の事件を説明しようとしたが、世間の多くの人々は次第に「 猫人の祟り」というシンプルにして有り体の、それとない理由で問題を決着させていた。

「 猫人」達は敬虔な神秘主義者にとっては人類に福音を授けた古代の神々の再来であった。「 猫人」の楽園を濫りに侵してはならない。原理主義者達は過激な抗議活動を展開した。

「 そんな馬鹿な」
世界猫協会の地区会員である麻倉ジョゼは言った。

ラジオがニュースを伝えていた。
セビリアで猫人原理主義者たちが世界政府の猫人対応に抗議して暴動を起こしたのだという。

麻倉ジョゼは思う。
猫人は猫である。猫人原理主義者の信じるような神ではない。荒唐無稽も甚だしい。

トビウオが飛んだ。

いま、麻倉ジョゼは絶海の孤島に向かう船の中にいる。好天の蒼さが、絶海の黒い波によく映えた。白波の中をトビウオ達が飛んでいる。大きなトビウオと小さなトビウオがいる。トビウオ達が速く、長く飛ぶ軌跡が美しい光景だった。孤島はまだ見えない。全景が水平線で、彼の乗る船は海の真ん中にいる。人間の社会はちっぽけだ、と麻倉ジョゼは思う。世界は広大無辺だ。人間はこの海と空の全てを支配する事は出来ない。海が隠した秘密の全てを知る事は出来ない。
船に鯨が並泳した。黒くて大きな魚影が見える。とても大きな鯨だ。でも鯨ではないのかもしれない。人間は全てを知る事は出来ない。

「 猫人は猫だよ」
と、麻倉ジョゼは隣の淑女に言った。

先程から腹の出た紳士の二人が猫人の話をしていた。彼らは猫人倶楽部に属していて、猫人を神格化しようと企む一派であった。彼らの、猫人の本質も理解せずに猫人を崇めてばかりの気取った話しぶりが、正統世界猫協会に属する麻倉ジョゼにとっては我慢ならないのであった。
猫人が暮らす絶海の孤島は周囲の島からも離れて陸上動物の交環は無い。元は有った。海底山脈に沿って大陸から列島が連なっていたが、前史の地殻変動で列島は孤島を残して水没した。孤島には多くの動物が居た筈であるが、多くの動物達は今となっては原因不明の度重なる不運によって全滅し、猫、のような生き物だけが残った。これが現代から遡る事およそ一億年前の事で、それから一億年の時間を掛けて猫、のようなものは猫、のようなヒト、のようなものに進化した。

「 収斂進化というものがあって」と麻倉ジョゼは淑女に対して言った。

収斂進化とは類似の環境で類似の生活様式を送る生物が類似の進化を遂げるというもので、例えば古代竜のイクチオサウルスとイルカ、サメは爬虫類、哺乳類、魚類と種類は異なるがその姿は極々近しい。

サルから進化したヒト的なものがホモ・サピエンスである。古代のサルはどの生物よりも性根が弱く、貧相で惰弱であった。餌たる物は他の強生物に持っていかれる。困ったサル達は誰も見向きもしない、自然界の残りものを拾って加工して食料にするより無い。その結果指先が発達し、いづれ知性を獲得したのは生物学上の必然である。生物の生存競争の中で最終的に最も惰弱であった一種類の生物種が知性の獲得に至る。サルがおらず猫しか居ない環境であれば、知性の獲得は最も脆弱である猫種が選ばれる。その猫らが進化を続ければ猫たちはホモ・サピエンスに類似したネコ・サピエンスになるのだ、と麻倉ジョゼは言った。

学術調査団の乗る船の度重なる海難事故により、絶海の孤島に赴こうとする学者筋は極限に減った。学者が減って三度目の調査隊に名乗りを挙げたのはアマチュアの猫研究家たちばかりとなった。

麻倉ジョゼは海辺の街、西伊豆西浦地区で平素、世界猫協会の地区活動をしている。主な仕事は猫たちを外敵から守る事。即ち保護である。街場では猫らが我世の春を謳歌しているが、時に彼らは獰猛の鳥獣に襲われて怪我を負う。それらの猫を見つけて怪我の手当をし、街場に戻す。
西伊豆西浦の町にはジョゼが飼う二匹の猫、老オス猫のマジーと若いメス猫のドナの他にも沢山の猫が暮らしているが、麻倉ジョゼはその猫の全てを知っていたし、猫たちもジョゼによく懐いた。

ある日、麻倉ジョゼは猫協会の西浦地区会長に呼ばれた。
「 なんでしょうか」
麻倉ジョゼは言った。
「君は猫に好かれているな」
会長は言った。
「そうですね」
麻倉ジョゼは言った。
「そんな君を見込んで頼みがある」
「なんですか?」
麻倉ジョゼは言った。

「猫人は衆人の好奇の目に晒されている」
会長は言った。
「その通りです、会長」
麻倉ジョゼは言った。
「このままでは 猫人達の平和が人間共に脅かされる」
「仰る通り」
「猫人を我々は守らなければならない」
「そうですね」
「もしも猫人に害するものがいるならば、それを排さねばならない」
「ふむ」
「孤島の猫人を救う者は英雄だ」
「世界が英雄の登場を待ち望んでおりますね」

麻倉ジョゼは返事をしながら協会事務局の葛西女史を見ていた。彼女はデスクに座って電卓を叩きながら帳簿をまとめていた。細い指。髪が束ねられて首筋が露わだ。しなやかで細い首。書類を見つめる目元の涼やかさ。彼女が、ふと顔をあげた。目が合った。彼女の唇が動いた。
「 ダ、メ」と、言ったような気がした。
「ダメ?」何が?麻倉ジョゼは彼女を見つめた。何が、ダメ?

協会の地区会長、山端三吉氏は言った。
「 そこで我々は君を絶海の孤島に派遣する事に決めた」
麻倉ジョゼはその言葉を聞いた。
誰を?
何処に?

「 そんな馬鹿な」
麻倉ジョゼは言った。
「僕は行きませんよ。家には猫だっているし」
山端三吉猫協会西浦地区会長は言った。
「君は英雄になるのだ!」

その後も麻倉ジョゼは出来うる限りの反発をしたが、それらの主張は全て協会支部にもみ消され、彼は否応なく船に乗せられた。

麻倉ジョゼは二匹の飼い猫がいる。
それらは世界猫協会西浦地区が全力を以て預かる事になった。
「僕がいなければ猫たちが寂しがる」
麻倉ジョゼは言った。
「猫は君が思うよりも自活に長けているものだよ」
山端三吉老人は言った。

別れの朝にジョゼは猫たちを抱き抱えた。
「みゃあお」
メス猫のドナがジョゼの手甲にある猫型の痣を舐めた。
老オス猫のマジーは抱き抱えられてもムッスリとしていたが、喉をゴロゴロと鳴らして体熱を温くした。
麻倉ジョゼは猫に愛される才能がある、少なくとも町内では一番の。

出来合いの調査団は、猫好きの好事家とその使用人。猫人信奉者達。それからアマチュア猫学研究家と軍人と人生に草臥れたサラリーマン達で結成されていた。麻倉ジョゼと立場を同じくするものは無いように見えた。
甲板の人々の隅端に女性が一人いた。一見して女性だ。
「女性ですか?」
麻倉ジョゼは彼女に尋ねた。
「ええ、そうよ」
彼女は言った。
「僕は麻倉ジョゼ。世界猫協会西浦支部で猫の保護活動をしている」
麻倉ジョゼは言った。
「あたしはミカエラよ。ナバラ地区から来たの」
彼女は言った。
「ナバラ?元王国の?君はもしかしてバスク人なの?」
「そうよ、あなたは?」
と、ミカエラは言った。
「僕は西浦人だ」
ジョゼは言った。

突風が吹いて、ミカエラのウェーブのかかった黒髪が逆巻いた。
「風が強いわ」
ミカエラは言った。彼女は鮮やかなブルーの瞳をしている。
まるで空のような。


船は猫人達の島に近付いていた。
「蜜柑はいりませんか?」
甲板の上に少女が来た。
「ひとつ貰うよ」
ジョゼは少女から蜜柑をひと袋受け取って代金を支払った。
「ありがとう」
少女は言った。
「小さなオレンジね」
ミカエラは言った。
「蜜柑だよ」
ジョゼは言って蜜柑の皮を剥いた。ミカエラはひと房を受け取り蜜柑を食べた。
「甘いわ」
「そうとも、蜜柑は冬の陽だまりの味をしている」
ジョゼは言った。

「どうして誰も猫人の島に辿り着けないのかしら」
ミカエラは言った。

「猫人の密猟を企む悪い組織がいて、島に近付く人間を排除しているに違いない」
とジョゼは言った。
「きっとアメリカ人だ。あいつらは悪いことなら何でもするから。そうとも、ダンカイロ・ファミリーみたいな奴らがいるに違いない」
「何?ダンカイロ?何の話?」
ミカエラは言った。

「かの有名なダンカイロだよ!」
麻倉ジョゼは言った。
「歌劇のカルメンに出てくる悪者達だよ。カルメンは知ってる?真面目な軍人ドン・ホセがカルメンという悪女に翻弄されて人生が落伍しながらも彼女の魅力には抗えない」
「ええ、勿論。作曲はビゼーね」
「そう。劇中、主人公のドン・ホセの婚約者の名前はミカエラだ。君と同じ名前の。そして僕の名前はジョゼ。スペイン語読みすればホセだよ。僕たちの名前はお互いにカルメンの登場人物の名前だね。僕達は劇中では許嫁同士だ。だから僕たちの前に悪者が現れるなら、そいつらの名前はカルメンに登場する悪役たちダンカイロ・ファミリーが相応しいのさ」
その後にジョゼは、「もし僕がドン・ホセで君がミカエラだったなら、僕はカルメンがどんな女だろうと間違いなく君を選ぶよ、全くカルメンというオペラの心理構造は不可解だ」という意味の事を長大に婉曲的かつ散文詩的に述べたがそれはミカエラには伝わらなかった。

海の色は次第に色濃さを増していた。
「本当にこの海域の海は黒い色をしているのね」
先程まで船と並泳していた大きな鯨はもういない。
「トビウオ達もいなくなってしまった」
ジョゼは言った。
その代わり大きな海鴉が船の上を周回していた。
「ペンギンが空を飛んでいるわ」
「あれはウミガラスだよ。ペンギンに似てるけれど飛べるよ。断崖に群れて巣を作るんだ」
海鴉は急降下して直下の海に飛び込んだ。大きな水柱が立った。
船の真下を潜って、反対側の舷から現れた時には大きな魚を嘴に加えていた。
「あんなに大きな海鴉は見たことがない」
「本当に大きい」
「少し小柄な人なら鳥に攫われてしまいそうだ」
ジョゼは甲板に小さな人がいないか確認した。
先程の少女が甲板で洗濯物を干していた。
「危ないかもしれない」
ジョゼは思った。
「あの子に船室に入るように言った方が良いと思う?」
麻倉ジョゼはミカエラに尋ねた。
「どうかしら」
大きな海鴉が帆柱に停まった。
「大きい」
客たちも大きな海鴉を見上げていた。
「大きな鳥だなあ」
猫信奉者の三人組が鳥を見上げた。
「捕まえたら高く売れるかね」
使用人付きの金持ちが使用人に尋ねた。
「侵略的外来種によって生態系が乱れますのでこの島から持ち出すのはお止めになった方が宜しいでしょう、ご主人様」
使用人が言った。
「もしかしたらあの鳥だって猫が進化したものかもしれないぞ」
アマチュア猫学研究家が言った。


「女の子がいないわ」
ミカエラが言った。
「蜜柑売りの女の子が何処に行ったか知らないか?」
ジョゼは甲板の端に群がる草臥れたサラリーマン達に尋ねた。
「いや、知らない」
彼らは答えた。ジョゼは空を見上げた。本当に海鴉に攫われたんだろうか。船の上を幾羽もの海鴉たちが飛んでいた。だが、海鴉たちの中に女の子を嘴咥えた鳥はいない。

女の子が消えてしまった。
彼女の干していた洗濯物はまだ半分も籠の中に入っている。
女の子が消えてしまった。
甲板の上に蜜柑がひとつ転がっていた。ジョゼは蜜柑を手に取り外套のポケットに入れた。
ジョゼとミカエラは船内を探したが、女の子はいない。
女の子の住まう洗濯室、食堂、棚卸室、乗客たちの船室……。

「何だお前たち!」
いなくなってしまった蜜柑売りの女の子を探して操舵室に入った二人は荒くれの男達に怒鳴りつけられた。操舵室には数人の荒くれの男達がいて、船員を縄縛していた。男達の中の一人が言った。
「この船は我々が拿捕する。我々はこの海域を支配する独立国家だ。お前たちは我々の領海を侵犯している。」

「独立国家だって?」
ジョゼは言った。
「世界政府はそのような存在を許さない。君たちは単なる海賊だ」
「いづれ認めるようになるだろう、我々は猫人たちも支配するのだから」
と、眼帯の男は言った。
「お前たちも此処で海の藻屑にならずに済めば、いづれ知る事になるだろう。我々ダンカイロ独立国が建国する事を」
「俺たちはこれから猫人の島に攻め込むのだ」
男達は口々に言って万歳した。

「ダンカイロだって?」
ジョゼは言った。
「ミカエラ、君は覚えてる?猫人達を捕まえる悪い組織がいるという話を。奴らの名前がダンカイロ・ファミリーだ」
「でもそれはあなたの空想の話でしょう?」
「でも彼らは現に此処にいて、僕たちを捕まえようとしている。お前たちはアメリカ人だな?」
ジョゼは男達に尋ねた。
「俺たちはアメリカ人だ!」男達は言った。
「ほら、やっぱり!」
ジョゼは言った。

「待って、ジョゼ」
ミカエラは言った。
「ねえ、少し待って。こんなのおかしいわ、事態の偏見が酷過ぎる。あなたの国の西浦がアメリカ人との間に何があったのか知らないけれど、全てが偏見に満ちているわ。何もかもあなたの想像通りになるなんて!」
「アメリカ人は酷い奴らだよ、奴らに気を許すな!」
「良いアメリカ人だっているわ!」
「そういう事じゃない!」
「そうよ!そういう事ではないのよ!」
言い争ううちに二人は男達に縄縛されてしまった。
「さあ、猫人の島に乗り込むぞ」
操舵室の男達は鬨の声をあげた。
「畜生!ダンカイロの奴らめ!猫人を好きにはさせないぞ!」
麻倉ジョゼはなんとか縄を緩めようとしたが、縄は動けば動く程、二人に固く食い込むのであった。
「困ったよ、ミカエラ」
ジョゼは言った。ジョゼと背中合わせに縛られたミカエラは何も言わなかった。ジョゼは背中にミカエラの体温を感じていた。ミカエラは縛られて発赤していた。ミカエラの身体が熱い。

「ミカエラ?」
ジョゼは振り向いてミカエラの顔を覗こうとした。その瞬間、ミカエラの首が傾転してジョゼの顔へと向き直った。奇妙に傾転したミカエラの首は無表情にジョゼを見つめた。ミカエラの唇が動く。「ダ、メ」
麻倉ジョゼはミカエラの動く唇を読んだ。

「駄目?」
何が?麻倉ジョゼは彼女を見つめた。
何が、ダメ?


「ジョゼ?」
ジョゼは肩を揺すられて目を覚ました。
「アメリカ人め!」
ジョゼは叫んだ。だが目の前にいたのは世界猫協会の事務員、葛西女史だった。
「ミカエラ?」
「何が?」
ミカエラでは無い。同じようでいて、葛西女史はミカエラでは無い。ジョゼと葛西女史を柔らかな布団が包んでいる。
「夢?」
麻倉ジョゼは世界猫協会西浦地区代表として猫人の学術調査団に参加していた筈であった。蜜柑売りの少女を探して船内を探すうちにダンカイロ一味に捕まってしまった。自らの不甲斐なさに麻倉ジョゼは唇を噛んでいた所であった。ところが、いま麻倉ジョゼは世界猫協会西浦地区の事務員葛西女史と裸形で同衾している。一体何処からが夢なのか。
「猫人はまだ無事よ」
葛西女史は言った。
「でも、危ないわ。悪者に狙われている」
葛西女史が正面から麻倉ジョゼの目を見据えた。まるで葛西女史が麻倉ジョゼの瞳孔の深淵に真実を見出そうとしているようだった。
自らの肉体の上に坐した女史の細腰を麻倉ジョゼは抱いた。きめ細やかな角質層だった。まるで、ベルベットのようだ。彼は女史の背中に掌を這わせた。掌が女史の下ろした長髪に触れた時に、彼は奇妙な点に気が付いた。
「君はいつからパーマをかけたんだ」
女史の髪にウェーブが掛かっていた。日中に事務所で見た葛西女史の髪質ではない。

「これではまるで」
ミカエラだ。
と、ジョゼは思った。

「君は誰だ」二人が同衾する寝牀を月光が照らした。葛西女史の目が青い。
「よく聞いて、ジョゼ。」
葛西女史は言った。
「あなたはカルメンを探してはいけない」


「ねえ、ジョゼ」
ジョゼは肩を揺すられて目が覚めた。
「葛西さん」
ジョゼは彼女の名前を呼んだ。
「誰?カサイ?」
ミカエラは言った。
「此処は?」
彼らはずぶ濡れて浜辺にいた。
「ダンカイロ独立国の軍人達が私たちを海へ投げ捨てたのよ。その衝撃で縄が解けて、なんとか孤島に乗り込む事が出来たの」
「すると此処は猫人の島なの?」
「そうよ」
「調査団の他の人々はどうしたんだろう?」
調査団はアマチュア猫学研究家や、猫神信仰の人々、サラリーマンや金持ちとその使用人、世界政府の軍人らが乗っていた筈だ。

「彼らも縛られてあの船に置き去りにされたのではないかしら」
ミカエラの話によると暴漢共は船から小舟を下ろして続々と島に上陸を果たしたらしい。

「大変だ、猫人を守らなければ」
「迂闊に動けば奴らに見つかるわ」
「どうしたら良いんだろう?」
ミカエラの提案で彼らは夜になるまで森の中に身を隠した。
「何も道具が無い。せめてナイフだけでもあれば」
「ナイフならあるわ」
ミカエラが言った。
「ロープもある?」
「あるわ」
「凄い、何でもあるじゃないか」
「救助袋が落ちていたのよ」
ミカエラが軍人用の非常持ち出し袋を持っていた。
「他には何が?」
「ピストルがあるわね」袋の中には旧式のラッパ銃が一丁入っていた。ラッパ銃は旧式の銃で弾丸の代わりに小石を詰めて火薬で弾き飛ばす。
「殺傷力は低いけれど相手怯ませる事は出来るぞ」
そう言ってジョゼはラッパ銃を構えようとしたが、指の収まりが悪い。
「 きゃあ」
ミカエラが頓狂の声をあげた。
「ジョゼ、あなた親指が三本になっているわ!」
ジョゼが両の掌を見ると自らの親指が三本になっている。ジョゼは三本の親指、つまり両手合わせれば六本の親指をを動かした。ジョゼの意のままに動く。
「訳の分からない事ばかりが起こる!」

ジョゼの親指は六本になってしまった。
「親指が六本になるってどんな感じ?」
ミカエラが聞いた。
ジョゼは順次指を曲げて見せた。
「 一、二、三、四、五、六、七……」
ジョゼは小石を拾って握ってみた。それを森陰に向かって投げてみた。思った以上に六本の親指は掌に馴染んだ。
「悪くない」
ジョゼは言った。そう言ってから、ジョゼはもう一度、小石を拾い森の奥に投げた。
「痛い」
森の奥で声がした。
「誰だ、石を投げたのは」
怒声がして現れたのは猫学研究の権威、バート・リーズ博士であった。沈没したと言われる第一次猫人調査団のメンバーの一人だ。
「博士たちの乗った船が沈没したと世界中が騒いでいましたよ」
ジョゼは言った。
「沈没などしとらんよ」
バート・リーズ博士は言った。
「ところで僕は突然親指が二本になってしまったんです」
ジョゼはリーズ博士に尋ねた。
「ふん」
とバート・リーズ博士は鼻を鳴らした。
「今更こんな事で驚きゃせんわい」
博士は言った。それから博士は改めてジョゼとミカエラの事を睥睨した。
「お前達はどうやら何も知らないみたいだな」
「 他の調査団の方々は一緒にいないんですか?」
ジョゼは尋ねた。
「儂がお前たちにこの島の事を教えてやっても良い。だがその前にひとつ約束してくれ」
「なんでしょうか?」
「儂を見るな。目を瞑れ。」
「何故ですか?」
「今から十秒目を瞑れ。約束だぞ、それ十、九、八、……」
ジョゼとミカエラは目を瞑った。博士の声が遠のいていく。十秒を数えて二人が目を開いた時、博士の姿は何処にも無かった。

「いるぞ」
博士の声がした。二人は周辺の木々を探したが、博士は見えない。

「何処にいるんですか」
「何処だって良いんだ」
その声は二人の直ぐ傍で聞こえた。
「声は近くにいるのに姿は見えない」
「まるで透明人間ね」
「そうとも、儂は透明になったんだ」
「まさか!」
「君たちはまず黙って儂の話を聞きなさい。何故儂が透明になったのか分かるだろう」

博士は話を始めた。 この島の物語を。


世界の猫学の権威を集めて編成された第一次調査団の異変に気が付いたのは猫人調査団の副委員長を務めるエリック・ディングウォール博士であった。

「各人の睡眠時間が平均して二時間伸びている」
エリック・ディングウォール博士は言った。
「由々しき問題だ」
「個人差では?」
フーディーニ委員が疑義した。
「君は今日何時に起きた?」エリック・ディングウォール博士は尋ねた。
「午前6時だ」
「昨晩に寝たのは?」
「深夜0時だ」
「昼寝はしたかね?」
「いいや?」
「それならば、君の昨晩から今までの睡眠時間は6時間だ。しかし、君の睡眠時計は8時間を指している」

フーディーニ委員は自身の睡眠時計を見た。
「本当だ」
睡眠時計が8時間10分を示していた。
「君は今日、皆と行動を共にしながら二時間の白昼夢を見ていた事になる」
「確かに」
「誰か、フーディーニ君が寝ていた事に気付いたものは?」
委員長は各委員に意見を尋ねたが、誰もフーディーニ委員が寝ていた事を知るものはいなかった。
「どうやって二時間も寝ていたんだろう?」
フーディーニ委員は訝しがった。
「断続的に少しずつ眠っていたのかもしれないし、或いは」
「或いは?」
「君は今も寝ているのかもしれない」
「まさか!僕は起きてる!」
「君はいま寝ながら、僕たちと話をしているのかもしれないよ」
「馬鹿馬鹿しい」
そう言いながらフーディーニ委員は胸元から取り出した眼鏡を掛けた。
「フーディーニ君、君はいま眼鏡を何処から取り出した?」
「ポケットからだよ」
「君は今まで眼鏡など掛けていなかったが」
ディングウォール委員長は言った。
「そう言えばそうだ。ボクは眼鏡男子では無かった。ではこの眼鏡は何処から?」
誰も眼鏡の出処を知らなかった。
「いつの間にか胸元のポケットに入っていたんだ」
フーディーニ委員は言った。
「完璧なフォルムだ。今朝もちょうどこんな素敵な眼鏡を掛ける夢を見ていたんだ」

その時に円卓にはマグロのムニエルの大皿が運ばれた。鮮烈な香草の匂いが胃腑を刺激した。
「マグロだ」
プライス議員が言った。
「また魚だ」
「魚は嫌いかね」
ディングウォール委員長が言った。
「私は好きだよ、今朝も丁度こんなマグロを食べる夢を見ていたんだ」
「たまには獣肉が食べたい」
「船に乗ってもう15日だ」
「もうすぐ陸に上がるじゃないか」
「島はもうそこだよ」
「あの大海鴉は食べられないだろうか?」

島が近付くと船には巨大な烏が飛来するようになった。学者達は魚を釣って大海鴉に与えようとした。甲板の上で踊る魚に近付いて大海鴉は魚を嘴した。
長い洋上生活に暇を持て余した学者たちの退屈しのぎによって大海鴉たちは学者達に懐くようになり、甲板の上に降りて羽を休めるようになっていた。博士達は試行錯誤の末にとうとう手ずから魚をやる事に成功した。彼らはそっと大海鴉の羽毛を撫ぜた。黒羽が太陽熱を纏っていた。黒い羽が空の青さを反射していた。
直立して大海鴉はルルと鳴いた。
博士たちは大海鴉との交流に夢中になった。大海鴉も、博士たちに応えた。或る晩にとうとう大海鴉の一羽が塒に帰らず、船のマストを止まり木にして眠りに就いた。マストに止まる大海鴉を朝日が照らした時に、博士たちはその光景の神々しさに、涙を零した。船を塒にする大海鴉は次第に増えた。甲板にも大海鴉達は遊びに来た。博士達は大海鴉の事がとても好きになった。

「あの大海鴉は食べられないだろうか」
委員の中の誰かが言った。バート・リーズ博士はその言葉を確かに耳にした。
いま喋ったのは誰だ?バート・リーズ博士は考えた。その声に聞き覚えは無かった。いや、敢えてその声の主を判断しないようにしているのかもしれない。

「あの大海鴉を食べる事は出来ないだろうか」
もしかしたらその言葉を発したのはバート・リーズ博士自身であるかもしれなかった。
大海鴉を捕まえる事は容易かった。懐いた大海鴉を電気銃で仕留めれば良い。気絶した大海鴉を数人がかりで調理台に乗せて首を落とした。腹を開いて内蔵を搔爬した。羽毛を毟った。大海鴉は太っていた。大きな鶏のような見事な食肉であった。
博士たちの食卓はいつもより豪華になった。翌日、二羽目の大海鴉を捕まえた。昨晩と同じように解体した。味付けは塩胡椒を多めにした。野菜と月桂樹の葉と一緒に煮込んだ。柔らかな肉質だ。三羽目の海鴉肉は赤と緑の胡椒の実と魚醤で調味した油に漬けてから焼いた。
三羽目の海鴉を食べた時に、博士達は調査団が三人消えた事を知った。船の中の何処にも博士たちはいなかった。
ルウルルウル、と大海鴉がマストの上で鳴いた。
博士達は急に大海鴉達が恐ろしくなった。絶海の黒い波濤が恐ろしくなった。他を寄せ付けない孤島の断崖が恐ろしくなった。孤島の中で息を潜める猫人達が恐ろしくなった。
船は島に着いた。大海鴉が沢山集まって、マストの上で博士達を見下ろしていた。
ルウル、ルウルと大海鴉達は鳴いた。逃げるように博士たちは島に上陸をした。
調査団の学者達は数を減らして上陸をしたのはエリック・ディングウォール委員長とハリー・プライス委員、ハリー・フーディーニ委員とバート・リーズ委員の四人だった。
学者達は猫人を探すため、森の中を歩いた。宿営地を築いて夜の森にも入った。山があれば登り、猫人の集落を探した。
だが、彼らは猫人を見つける事は出来なかった。
島の生活は過酷であった。夜になると足のある魚が彼らの宿営地を荒らすのであった。ハリー・フーディーニ委員は足のある魚達に食べられてしまった。博士達は魚たちに食べられないように木の上に小屋を作って夜は樹上で寝た。
ハリー・プライス委員は夜に皆が寝静まるといつも、幾つもの眼球が小屋を覗いていると訴えた。エリック・ディングウォール委員長はプライス委員に安定剤を注射した。翌日、プライス委員は海に魚釣りに行ったまま戻らなかった。エリック・ディングウォール博士とバート・リーズ博士はその後一週間共に暮らした。猫人の集落は見つからなかった。彼らの痕跡も見つからなかった。

「これは猫人の呪いだ」
生き残りは二人だけになって、エリック・ディングウォール博士は焚き火に当たりながら呟いた。

「そんな馬鹿な」
バート・リーズ博士は言った。
「いいや、私には分かる」
ディングウォール博士は言った。
焚き火の火がちろちろと夜の、二人の間に蟠る沈黙を焦がすのであった。火の粉が舞っていた。その中を羽虫達が飛んだ。

「私には分かる」
博士は行った。
「私たちが食べた大海鴉を覚えているかい?」
「もちろん」
バート・リーズ委員は答えた。おぞましい経験だった。まるで人肉を食べ続けるような狂った聖餐で、海鴉を食べる度に船の人間は一人ずつ消えた。

「君はあのような生き物を見たことがあるかい?」
「いや、初見だ」
「それでは足の生えた魚達は?」
「いいや?あんな生き物がいるなんて」
「小屋を覗く眼球蝶は?」
「いいや?この島の生物達は僕たちの生きてきた世界とは全く異なる」
「そう、この世には存在しない生物ばかりだ。だが、僕は彼らの姿を見た事があるよ」

「……」
「子供の頃に僕の夢の中でね」
羽虫達は火の粉の中で舞いながら、時に引火してチリチリと焦げた。その細い光芒が幾筋も焚き火周りの色濃い夜に瞬いた。焚き火の周囲には燃えさしが、まだ熾となって発赤していた。

「ご覧」

「熾火の中に火蜥蜴がいるよ」
エリック・ディングウォール博士は言った。バート・リーズ博士は熾火の上に黒いトカゲが幾匹も這い回っているのを見た。
「見たんだ、これも夢の中で」
ディングウォール博士は言った。
「この島は夢の中の物事が現実化してしまうんだ」
エリック・ディングウォール博士は言った。
「私は彼らを夢に見た。彼らが私たちを襲う悪夢を見た……。つまり怪物を作り出していたのは私だったんだよ」
ディングウォール博士は言った。自らの夢が、調査団の学者達を食らってしまった。
虚しい、悔悟がそこにはあった。無自覚のまま殺人者となった慚悔があった。

夢の殺人者となったディングウォール博士は悲愴であった。
バートリーズ博士はディングウォール博士に憐憫を感じた。無自覚に過ちを犯した彼を、ディングウォール博士を慰めようとした。

その時。
ディングウォール博士がちろちろと燃えだした。

バートリーズ博士は我が目を疑った。灯火のように、ディングウォール博士は燃始めた。
蝋燭のように、ディングウォール博士は足先から燃え出して、少しずつ失われていった。
バートリーズ博士はディングウォール博士を焦がす炎を観察した。その間に片足が燃え尽きた。もう片足もまた燃え出した。
博士はか弱く戸惑っていた。青ざめた悲愴の顔で、焚き火の向こう側にいるバートリーズ博士を見ていた。

バートリーズ博士も焚き火の向こう側に燃えるディングウォール博士を黙って見ていた。

無言であった。


「博士が燃える夢を見ていたのは儂だったんだ」
森蔭に隠れたままバート・リーズ博士は言った。

「ここでは誰かの見る夢が現実に作用してしまう。儂と博士は二人だけになってしまった。だから儂は怖かったんだ、もし博士が消えて儂独りになってしまったら?怖くて儂はその夢を見る事を止められなかった」

バート・リーズ博士は言った。
「生き残りたいなら、この島では何も考えるな。夢を見ずに眠れ。誰とも一緒に過ごすな。一人でじっとしている事だ」

「 この島は人間の悪夢を食べている」
博士は言った


「ジョゼ?」
目が覚めるとジョゼは公園にいて、彼の年齢は11歳だった。此処は西浦地区の海岸公園で、干潮によって水位が下がり猫島に続く神渡りの道が出来ていた。ジョゼと幼馴染の女の子はその道を渡って猫島に蜜柑狩りに行くのだ。

「寝てたの?」
女の子は言った。
「夢を見ていたよ」
「どんな?」
「親指が一本になる夢」
女の子は言った。それから彼は自分の掌を見た。親指はちゃんと三本あった。

「変な夢ね」
女の子は言った。彼らは七本指を絡めて手を繋いだ。
「あなたはカルメンに会ってはダメよ」
神渡りの道を歩きながらジョゼが手を繋ぐ女の子は言った。
「夢の中でも自分をしっかり保って。もしあなたが自分を見失ったら、あなたは自分自身を消してしまう」

青い瞳だ。西浦自治区の西浦人たちは青い瞳をしている。

猫島に渡るとそこには沢山の蜜柑の木が生えていた。
季節は冬なのだ。
黄金色の果実が冬の柔らかな太陽光に光っている。

「おや、君は甲板で蜜柑を売っていたね」
猫島に着くと見知らぬ男が女の子に声を掛けた。

「あなたは誰?」
「僕は島の竜騎兵だ。ほら、鉄砲を見たいかい?」
と男は懐からラッパ銃を取り出した。
「おじさんは一人なの?」「そうだよ」
「この島では何を?」
「 飼っていた猫を探しているんだ、一緒に来たらはぐれてしまってね」
「どんな猫?」
「 灰色で黒い縞模様でね」「名前は?」
「マジーとドナ」
「二匹いるの?」
「そう、二匹とも。お爺ちゃん猫のマジーと、女の子猫のドナだよ」
「見つけたら捕まえてあげる」
「頼むよ」

島の森が風に吹かれてざあざあと鳴り出した。
冬の松風が島を揺らしている。
「ネコジンの祝福を」
とおじさんが言った。
「ネコジンの祝福を」
ジョゼが言った。
森の中に隠れている猫を探すだなんて、かくれんぼのようだね。
ジョゼは言った。
そうね、とあたしは言った。

あたしは、猫を、探す。

あら、
あたし?
あたし、ですって?

—-----
「 あたし、寝てたかしら?」
ミカエラは言った。
「そうだね、寝ていたよ」
「指が三本になる夢を見てた」
「変な夢」
ジョゼは言った。
ミカエラは親指を見た。
彼女の親指が三本に増えていた。

「増えてる!」
ミカエラは言った。ミカエラは三本の親指を動かした。三本の親指が掌によく馴染む。
「大丈夫?」
ジョゼが言った。彼は青い瞳でミカエラを見つめた。
「あなた、目が青いわ」
ミカエラは言った。
「僕の目は元々青いよ、僕はナバラの人間なんだから」
「 ナバラ?」
「そう、僕はバスク人だ」
「 待って!ちょっと待って設定がおかしいわ?」
「設定……?」
「あなたは西浦人の筈よ」「それは君の事じゃないか」「世界猫協会西浦地区の会員で猫の保護活動を」
「だからそれは君の事だ」
「ジョゼ、あなた。ちょっと掌を見せて」
本物のジョゼなら猫人の島の魔力によって掌の親指が三本に増えている筈である。
ミカエラはジョゼの掌を取った。固く無骨な掌であった。
「親指が一本!」
ジョゼの親指が掌に一本しかない。
「当たり前だ。僕はバスク人なんだから」
と、親指が一本しかないジョゼが言った。

「あたしもバスク人よ!」
掌の親指が三本あるミカエラは言った。
「君は西浦人だ!」
親指が一本しかないジョゼは言った。

いま二人の間には明らかな隔絶があった。主に親指の数に於いて二人は異なる人種であった。
そして親指の数が差別を生んでいた。親指が三本あるミカエラは今、麻倉ジョゼから偏見の目に蔑視される。

ミカエラが旅券を見ると確かに彼女の出身国は日本国西浦自治区であった。混乱して揺らぐミカエラの外套から蜜柑が落ちた。

「蜜柑?」
蜜柑売りの少女が消えた事からこの旅はおかしな方向に傾いている。独立国家を目指すダンカイロの一味。巨鳥たち。増える親指。軍人の残したリュックサック。それは主にジョゼの偏執的妄執が猫人の呪いによって具現化したものに思える。

「この蜜柑は何処から来たの?」
ミカエラはジョゼに尋ねた。
「蜜柑売りの女の子が売っていたものじゃないの?女の子が消えた時に甲板の上に蜜柑が転がっていたもの」
ジョゼは言った。
「そうよ、そしてその蜜柑を拾ったのはジョゼ、あなたよ」
「僕?」
ジョゼは怪訝な顔をした。彼には蜜柑を拾った覚えがない。ミカエラはジョゼが蜜柑を拾った事を知っている。

あの時、甲板の上に蜜柑が転がっていた。
それに気付いた「ジョゼ 」の手が、それを拾った。
「ジョゼ」の手甲の猫型の痣、が蜜柑を拾った。
ミカエラは、その手を見ている?
ジョゼの手甲の猫型の痣?

ミカエラは自身の手甲を見た。
猫型の痣、がある。
西浦蜜柑を拾ったのは自身の手。
あたしが蜜柑を拾っている。

「ああ、つまり。その、そういう事!」
「どういう事?」
「つまり、あなたとわたしが入れ替わってしまったのよ!」
「そんな馬鹿な、僕にはナバラで生まれ育った記憶がある!」
「だから、この島では何もかも歪曲されてしまうのよ!あなたは先程までナバラ育ちのミカエラで、私は西浦育ちのジョゼだったのよ」

「そんな夢みたいな事ある?」
「私の親指が三本あるのよ!夢みたいな事ばかり起こっているわ」

ミカエラは自らの半生を振り返り思惟した。西浦地区で生まれ育った記憶があり、そこで彼女は世界猫協会西浦地区の事務員をしていた。地区会長は地元の中等度の名士である山端三吉氏……。猫協会の地区会員であるジョゼは私の幼馴染でいまは親も認めた婚約者。
子供の頃に神渡りの道を通って猫島に行き、ジョゼと私はよく蜜柑狩りをした。
冬の陽だまりと黄金色の蜜柑!
ミカエラの特技は猫に好かれること、誰よりも猫の扱いが上手なこと。
飼っている猫の名前は老オス猫のマジーと若いメス猫のドナ。

「そうだ、あなたのお母さんが病気なのよ」
ミカエラは言った。
「そう、僕はこの任務が終わったらナバラに帰るんだ。お母さんが待っているから」
「違うわ、西浦のお母さんよ」
「西浦にお母さんはいない」
「手紙を預かっているわ」

「これはお母さんの筆跡!西浦に戻って早く君と結婚しろだって!」

手紙にはジョゼの母の筆跡があった。
「ミカエラがお母さんのキスを届ける、だって?」
驚くジョゼが顔を上げると子ども達と目が合った。
ミカエラはいなかった。

「どうしたの、おじさん」
「いや、何でもないよ」
「おじさんの猫がいたよ」
と女の子が言った。
女の子と男の子はお互いに一匹の猫を抱えていた。
「本当?二匹とも君たちが捕まえたの?」
「魚をあげたら寄ってきたわ」
と、女の子が言った。

「ありがとう」
ジョゼは猫を受け取って猫ケージに入れた。猫たちはジョゼの顔を見てみゃあお、と鳴いた。

「蜜柑は採れた?」
ジョゼは子どもたちに訊いた。
「そうね、沢山」
女の子は答えて籠を見せた。黄金色の蜜柑が詰まっている。
「今度、蜜柑を売りに行くのよ」
「売れると良いね」
「それから村の公会堂では今晩、カルメンの結婚式があるんだよ」
松島カルメンは西浦地区に住む女だ。
西浦の土地に似合わず派手さを好む。麻倉ジョゼとは同学年であったので、彼は彼女の人なりも知っている。学生時代にはあまり接点が無かった。彼女は友人たちに囲まれて楽しくしていたし、麻倉ジョゼはいつも教室でひとり本を読んでいた。
西浦の太陽のような。彼女とその周囲はいつも眩しく光っていた。

https://www.youtube.com/watch?v=g1btVZlG--k


「カルメン!」
ジョゼは言った。
太陽の名前。
島に風が吹いて、森がざあざあと鳴った。
彼の飼い猫、ドナがみゃあごと鳴いた。

麻倉ジョゼはその夜、村の公会堂で行われたカルメンの結婚式を遠目に見た。沢山の参列者がいた。

「カルメンと結婚したのは誰?」
麻倉ジョゼは山端三吉老人に尋ねた。
「東都から来た闘牛士だ」
三吉老人は言った。

ウェディングドレスのカルメンがブーケを持って背中を向けた。
ドレスの大きく開いた背中に、カルメンの背筋が見えた。
それはジョゼの知るカルメンの背中ではない。今や人妻の、円熟した背中であった。
カルメンが後ろ手に花束を放った。放物線の軌跡を描いて花束は村の女の子の手に渡った。人々が女の子に駆け寄り祝福した。

「来てくれたの?」
花嫁姿のカルメンは麻倉ジョゼを見つけると駆け寄った。
「おめでとう」
麻倉ジョゼは言った。学生時代に喋ったのも一度か、二度。まさか彼女が自分の事を覚えていようとは思わなかった。
「ウェディングドレスが、とても綺麗だ」
麻倉ジョゼは、こんな時になんと言えば良いのか分からない。申し訳程度に口添えた。

「ありがとう」
カルメンは言った。幸福はひとを美しくさせるのだろうか。学生時代の頃より彼女は眩しくなっていた。彼女の笑顔は西浦の太陽のように。
ウェディングドレスは西浦の海の煌めく波濤のように。

それから四年後。
麻倉ジョゼは今も変わらず猫協会西浦地区支部で猫の保護活動をしている。猫協会山端三吉地区会長は相変わらず人の話を聞かず同じ話を再三再四繰り返した。そして老人は夕陽が空を赤く染めると決まって押し黙った。事務局にはいつもミカエラがいる。僕は日中を近隣の猫の保護活動、つまり野良猫に餌をあげたり、怪我した猫を手当てしたりして過ごし、時には午後に猫協会事務局に赴き、老人の戯言に耳を傾け、夜になれば飼い猫達と共暮らしする、そのような日々を過ごしていた。

カルメンには時々道端で出会った。学生時代の学友達は次々とこの街を離れていた。西浦自治区には老人と猫しかいない。かつての子ども達はもっと東都に近い利便の良い場所に行ってしまった。麻倉ジョゼが学友と呼べるものは今や旧姓松島カルメン、入籍後のいまは片桐カルメンしかいない。カルメンの主人である東都の闘牛士、片桐エスカミーリョは一年のほぼ全てを東都で過ごしている。四年前に芸能界的には全く無名であった一般人、西浦自治区の田舎娘との入籍が発表され世界政府日本領の人衆を騒がせた。彼の人気は衰えず今でも人気のトリエンドール、その中でも最たる花形、深紅のムレータを持つ不屈不撓のマタドールである。カルメンは主人が不在の日々、西浦自治区の中にある煙草工場で働き、夜はマダム・ヤマモトの店で働いた。カルメンの美しさに惹かれてマダム・ヤマモトの店スナック・イサリビには西浦自治区の男達で賑わっていた。

「老人ばかりだ」
と、麻倉ジョゼは率直に思った。山端三吉老人に誘われて、麻倉ジョゼはスナック・イサリビに来ていた。小さな店に十人の先客がいて、そこに山端翁と麻倉ジョゼを加えて十二人。それで店内は満席になった。後から来た客は席がないので帰った。

「ごめんねえ」
マダム・ヤマモトは客に詫びた。
「お店広げてよ、マダム」
入店出来なかった老人の二人連れ客は言った。
「クラウドファンディングでもやろうかしら」
マダム・ヤマモトは言った。
店内で老人たちは酒を飲み、ママや女の子と談笑し、karaokeをした。スナック・イサリビにはママと二人の女の子がいた。フランスキータとメルセデス。カルメンよりも年上の、熟年世代の彼女らは西浦人では無い。

「占いをしてあげる!」
フランスキータは言った。彼女ら、流浪の民人はカルタ占いを得意としていた。暗喩的な絵柄の描かれたカルタを混交して、一枚ずつめくり、五枚のカルタを示してからフランスキータは言った。

「あなた、死ぬわよ」
人間消失の暗示がある。
幾度占いを行っても、ジョゼには死の暗示が色濃い。

客である老人たちは皆がカルメンを見る事を目的に店に来ていた。高齢のマダム・ヤマモト、熟年のフランスキータやメルセデスは、カルメンの添え花のようなものであった。ここでも彼女は衆人の中心にいた。麻倉ジョゼは目立たぬよう隅端の席に座り、背中を丸めた。山端三吉地区会長はいつもの武勇伝を一言一句変わらぬ調子で語り出した。きっと老人の中にはいつもの話が収録されたレコードが内蔵されていて、ボタンひとつ押すだけでいつでも再生可能なのだろう。
麻倉ジョゼは考える。人間は人生の中で手に入れた物語のいくつかを繰り返し口伝えて伝承する語り部なのだ。人間は一篇の小説を紡ぎながら暮らしている。
麻倉ジョゼは老人の話に静かに耳を傾けた。僅かな相槌を打ちながら夜が過ぎるのを待っている。老人の生涯の物語が欣喜雀躍と紡がれる。老人の半生と自らの半生を重ねて物思いに浸りながらジョゼの夜は静かにけた。

「来てくれたの」
カルメンが麻倉ジョゼの隣に座った。いつの間にか客の大半はねぐらに帰っていた。そしていつの間にか山端三吉世界猫協会西浦地区地区会長は目の前で寝入っていた。

「そうだね」
麻倉ジョゼは返事をした。「嬉しい」
カルメンは言った。
夜会服の胸元が大きく開いていた。
老人たちは朝に早起きしなければならないので、次々に帰宅した。マダム・ヤマモトもカルメンに片付けを任せて二階の彼女の暮らす住居に上がった。フランスキータ達も彼女らの住まう部屋に帰った。店内のおよそが片付けられてスナック・イサリビにはジョゼとカルメンだけが残った。
ジョゼはカルメンと二人きりで話をするのは初めてだった。それどころか挨拶以上の会話をする事も初めてである事に気付いた。こんな時に何を話して良いか分からないジョゼは、ずっと猫の話をしていた。その話を聞きながらカルメンは感心したり、驚いたり、何よりもよく笑った。ジョゼの他愛ない猫の話がこんなにも誰かを楽しませた事はない。カルメンの笑う顔が見たくてジョゼはいつもより饒舌になった。

「あなたと結婚すれば良かった」
カルメンは言った。

次にカルメンと麻倉ジョゼが出会ったのは西浦地区のマーケットだった。

「あら」
と買い物途中のカルメンは言った。

「お買い物?」
「そう」
と麻倉ジョゼは言った。
「猫と食べる魚を買うんだ」麻倉ジョゼは家に二匹の猫を飼っている。いつもしたり顔をした老オス猫マジーと背筋を伸ばした澄まし顔のドナ。
アメリカンショートヘアの血が入った雑種猫だ。それ以外にも彼の部屋には多くの猫が訪れるので、彼の家にはいつも猫のための魚が貯蔵されている。
彼はマーケットに暫くの食材を買いに来ていた。彼は病弱の母親と二人暮らしのため、魚以外の食料は少ない。買い物を終えて麻倉ジョゼとカルメンは並んで海岸を歩いた。

沖に時化が来ていた。狂濤が押し寄せては海岸の岩礁に砕けて飛沫を散らした。ジョゼたちは強い風に吹かれながら、砕かれた波の細かな飛沫を浴びていた。
時折、海風が轟轟と吹いた。そんな時には二人は大きなで相手の耳に口を近付けて喋った。時にはそれでも声が聞こえないくらいの強風が吹くので、二人は何度も言葉を繰り返し、その必死な様子がなんだかおかしくなって笑い合った。
風に揺られたカルメンをジョゼが支えて、逆風に揺られたジョゼをカルメンが支えた。

沖合から鈍い雷鳴が聞こえた。今夜は酷い雨が降りそうだ。麻倉ジョゼは冬の嵐を前にふと不安になった。カルメンの顔を見た。屈託なく笑う彼女を見て、ジョゼはまた不安になった。
水平線に雷が落ちた。少し遅れて、雷鳴がジョゼとカルメンに届いた。
波涛が砕けて二人を濡らした。風が、轟轟と唸った。
散々と雨が降り出した。冷たい大粒の雨がジョゼとカルメンを穿った。

「雨!」
カルメンは言った。
カルメンの暮らす家は近くだったので、ジョゼはカルメンの家で雨宿りする事になった。
闘牛士の片桐エスカミーリョが西浦の土地に建てた家にカルメンは暮らしている。西浦地区で最も瀟洒な家だった。その邸宅にカルメンは一人で住んでいる。闘牛のシーズンなのでエスカミーリョは東都から戻らない。
カルメンは濡れた衣服を着替えるため寝室に入った。ジョゼはリビングから海を見つめた。瀟洒の家から見る海は麻倉ジョゼの知る海ではない。荒れて黒くなった海に幾度となく雷が落ちた。空が閃光の白紫に染まった。
寝室からカルメンがジョゼの為に着替えを持ってきた。金の刺繍の入った夜着はエスカミーリョの物に違い無かった。
「悪いから帰るよ」
ジョゼは言った。
「この嵐の中を?」
カルメンが言った。
「猫と母さんが待ってるから」
「せめてもう少し雨が弱くなるまで待ちなさいよ」
カルメンの言葉を落雷の轟音がかき消した。外が真っ白に光ったかと思うと、瀟洒な邸宅の艷色の照明が瞬いて屋敷内は闇に落ちた。

「停電?」
カルメンの指がジョゼの濡れた衣服の裾端を摘んだ。カルメンは暗闇と落雷と嵐に怯えていた。
いや違う。とジョゼは思った。彼女が怯えているのは孤独だ。暗闇の中でカルメンの指が、ジョゼの唇に触れた。

—----------

ミカエラが目を覚ますとそこは孤島に作られたグランドホテルの一室であった。
オーシャンビューの大きな窓ガラスが朝日に光っていた。部屋の設えからミカエラは此処が最上階のスイートルームであると推察した。
天蓋付きの隣のベッドには誰もいない。誰かの寝ていた跡がある。床に部屋着が落ちていた。金の刺繍の入ったそれは恐らくはジョゼの物に相違なかった。
ジョゼは何処に行ったのだろう?ミカエラは思った。だが問題の核心は其れではない。猫人たちの呪いによって夢が撹拌され、ジョゼとミカエラの実存が入れ替わってしまった。いま、ミカエラはミカエラであってミカエラでない。ミカエラは本来、ナバラの地で生まれたバスク人であるが、今や記憶は西浦の土地に生まれた西浦人に変わっている。いや、それは逆説だ。西浦育ちのジョゼがジョゼとしての実存を失い、ミカエラになってしまったのだ。

神渡りの道を通って猫島に行き、蜜柑狩りをしたその記憶は本来麻倉ジョゼの物である。
ジョゼはミカエラと夢の中で同一化し、和合の状態から目が覚めた時に彼はミカエラになっている自らに気が付いた。

問題の核心は。
麻倉ジョゼの肉体である。彼の肉体が、彼の精神を置き去りにして消えてしまうような事があれば、肉体に依拠する麻倉ジョゼの精神は脆く消え去ってしまう。速やかにミカエラ、つまり麻倉ジョゼの精神は麻倉ジョゼの肉体に帰還せねばならない。

ところが、ホテルの同室に居た筈の麻倉ジョゼの肉体が消えてしまった。
「ジョゼ?」
ミカエラは彼の名前を呼んだ。返事は無い。
スイートルームに彼女以外、人間の気配は無い。

途方に暮れたミカエラは、ベッドから起き上がろうとして身体の重大な変調に気が付いた。
体が半分消えている。
「半分しかない!」

猫人の島に来てから麻倉ジョゼの見る夢により、現実は矢継ぎ早に改変する。
親指の数が増え、実存は他人に置換され、そして身体は半分人間に変わった。

ルームの電話が鳴った。
「 はい」
ミカエラは電話に出た。ホテルのフロントからの電話であった。
「朝食の準備が出来ました」
フロントは言った。

「わたし、何を注文したかしら?」
ミカエラは言った。

「フレンチトーストと卵料理、フランクフルターソーセージ、カボチャと干し葡萄のサラダ、キノコのスープ、北欧サーモンのマリネ、鴨肉の陶板焼きをご注文されております」

昨晩、朝食を頼む時にミカエラはジョゼとミカエラの二人分を注文していた。
麻倉ジョゼの肉体が消えたいま、そんなに多量の朝食を食べることが出来るだろうか。
ましてや、いまミカエラの身体は半分になってしまったのだ。
ミカエラは急に心細くなってしまった。

程なくして部屋に朝食が運ばれた。
「それからこちらを」
「これは何?」
「猫です」
ケージの中で猫がみゃあお、と鳴いた。
「猫!」
「朝食の間、猫をお貸しするサービスです」
「これを私が?」
「ええ、ご所望になりました」
猫のサービスにミカエラは心当たりが無い。
だが、今さら断れるものではないように思われてミカエラは黙って給仕の終わるのを待った。
ボーイは猫をケージから出した。
猫はみゃあお、と鳴いてミカエラを一瞥し、ふいと麻倉ジョゼのベッドまで行きその上で背伸びをした。

手際の良いボーイによってスイートルームには二人分の朝食が並んだ。
大変だ、料理が冷めてしまう。
ミカエラは焦燥に駆られた。

その時、猫が言った。
「 ミカエラ、よく聞いて?」

「猫が喋っているわ」
ミカエラは言った。
アメリカンショートヘアの雑種猫がジョゼのベッドの上で喋っている。

「ジョゼとカルメンはエスカミーリョの邸宅で暮らしているわ」
と、猫が言った。

「ねえ、猫ちゃん?説明が難しいけれど本当はわたしがジョゼなのよ」
と、ミカエラは言った。
いや、ミカエラの肉体に宿る麻倉ジョゼの精神は言った。

「知っているわ。ジョゼとミカエラの肉体が入れ替わった事も。そしてジョゼの肉体があなたを消そうとしている事も。早くエスカミーリョの邸宅へ。お願い、ジョゼの体を連れ戻して」

猫の言葉を聞いてミカエラは驚いた。
「なんですって!ジョゼの肉体が私を消そうとしている?」
半分人間になったミカエラは言った。
「ジョゼの肉体はカルメンと出逢ってしまったの。カルメンと暮らしながら今のジョゼはあなたを疎んじているわ。それであなたは半分になってしまったのよ」
「ジョゼは私よ」
「半分はね」
猫は言った。

エスカミーリョは闘牛士である。彼は闘牛用の牛であるモルーチョ種の野生牧場がある事で名高いムルシアン州に生まれた。幼少の頃から闘牛士に憧れた。
15歳でバンデリジェーロになった。三人組のバンデリジェーロは闘牛に於いて牛を取り囲み、追い立てる。
彼はバンデリジェーロの頃から身のこなしが他と一線を画した。
16歳で初めて猛牛をいなせずに死んだ闘牛士を見た。死んだのは彼の十歳年上の実兄である。
20歳で彼は乗馬術に通じてピカドールになった。
鎧を着けた馬に乗り、馬上から猛牛に槍を刺し、牛を弱らせるのが彼の役目であった。
22歳で彼はサーベルを帯刀し、マタドールになった。
誰よりも深い赤色のムレータを扱い、牛をいなした。常に、彼の闘いは死によって装飾される。エスカミーリョを観る人々は幾度も彼の死を見た。猛牛の角に刺されて、無惨に死す彼を見た。だが、彼はその角を紙一重に避けて、死を回避していた。誰よりも死に近く、誰より不死身の男。それがエスカミーリョであった。人々は彼に魅了された。エスカミーリョは英雄であった。

猫人の島というこの世の辺獄に世界の英雄たるエスカミーリョが瀟洒な邸宅を構えるに至ったのは偏にカルメンとの婚姻を由とする。だが各地で行われる闘牛祭りに引く手あまたの英雄エスカミーリョが邸宅に身を置くのは一年のうち僅かな日にちしかない。その留守中に毒婦カルメンが男を連れ込んだ、というのが世間一般の解釈であった。そのため、カルメンを非難する声は多い。ジョゼの為人は世間の知る所では無かったが、名誉の為にもミカエラはジョゼをカルメンから引き離さなければならない。

ところが。

「断固として拒否する」
麻倉ジョゼの肉体は頑なであった。

「良いからこちらに戻って来なさい」
ミカエラは言った。
「黙れ小娘、僕はナバラには帰らない」
ジョゼは言った。
「ここで小料理屋を営まなければ」
カルメンが働いていたスナックの女店主マダム・ヤマモトが引退し、店はカルメンが継いで小料理屋に改装した。
ジョゼは板前として、日々魚を捌いた。次第に腕は上達し、彼の捌く刺身は角が立ち、旨みは肉質の中にはち切れんばかりに凝縮されていた。彼らの営む小料理屋「割烹島猫」は絶佳の名店と噂が立った。

「ジョゼ、あなたはわたしが分からないの?本当はあなたがその小娘なのよ?わたしとあなたの精神が入れ替わってしまったんじゃないの」
ミカエラは言った。
「気狂いめ!」
ジョゼの肉体は言った。
彼はすっかり割烹の板前になっていた。

「俺は気が強くておっぱいが大きな女が好きなんだ!」ジョゼは言った。
その言葉にミカエラは目眩がした。言葉が通じる気がしなかった。なんたる破廉恥。
自らの肉体がこのような世迷言を語るとは。

危機感は益々募っていた。眼前のジョゼが我執の言葉を以てミカエラを唾棄する度にミカエラの存在は希薄になり、透明度を増した。
「猫人の調査はどうするの」
ミカエラは言った。
「あなたにはまだ仕事が残っているのよ」
「猫人?」
ジョゼは言った。
「そうよ、ここに来た目的を忘れたの?」

「そうだ、僕は猫人の調査をしなければいけない」
ジョゼは言った。
「ダメよ」
カルメンは言った。
「板前がいなくなるじゃないの」
「だが、しかし」
ジョゼは言った。
「お仕置きされたいの?」
カルメンは言った。

「此処にいたのか」
その場に現れたのは世界猫協会西浦地区会長、山端三吉老人であった。
「カルメン、一緒に遊びに行こう。また俺の前で踊っておくれ!」
山端三吉老人は言った。
「カルメン、君はこんな老人まで誑かして」
「私が悪いのではないわ、この町には女が少な過ぎるのよ」
「男たち皆が君を誘惑する!」
ジョゼは板前服の純白の胸元を掻きむしった。彼は嫉妬に狂っていた。女将であるカルメンが客に愛想を振るう。仕方ない。だが、劣情は理知で割り切れるものでは無い。刺身包丁でカルメンに近付く男共を削いでやりたい。
カルメンと共に暮らし始めても、彼は昔と一緒だった。
カルメンの周囲にはいつも友人達がいる。彼女はセビリアの太陽だ。彼女に近付く事も出来ぬまま、語る言葉を持たぬまま、ジョゼは寡黙に刺身包丁を研ぐ。

「会長、失礼ですがカルメンは僕と一緒に暮らしているのです」
「五月蝿い、間男!」
「何たる言い草だ、ご老人はkaraokeスナックで枯れた思い出話でもしているが良い!」
「なんだと!貴様、儂の気持ちも分からずに!」
老人は逆上した。逆上のあまり血圧が上がり、それが心臓に響いた。

「心臓が!心臓が!」
老人は叫んだ。
「大変!」
たちまち救急車が呼ばれ老人は運ばれた。
「誰か同乗を」
救急隊は言った。
「この老人に身寄りはいません」
ジョゼは言った。
「病院で落ち合える方は?」
「職場の事務員なら」
ジョゼは言った。猫協会の事務局に電話をすると、葛西さんが応じた。
「会長が倒れた、今から病院に搬送される。どうか病院に行ってあげて欲しい」
「分かったわ」
葛西さんは言った。
「あなたはどうするの?」ジョゼは電話を切った。

「老人に暴言を吐いてしまった。僕はもう協会にいられない」
ジョゼは言った。
「待って、猫の保護活動はどうなるの?」
ミカエラは言った。
「さようなら」
ジョゼは言った。ミカエラの存在感はまた希薄になった。

「待って、あなたが行ってしまえば私が消えてしまうのよ」
ミカエラは言った。
「カルメン、猫人狩りの時間だ」
ダンカイロの一味がやって来て言った。
「お前たちは独立国家ダンカイロ革命軍じゃないか!」
ジョゼは言った。
「カルメン、君がこいつらと繋がっていたなんて」
「ジョゼ、行きましょう」
「悪人に加担はしない!」
ジョゼは悪人たちに向かってラッパ銃を構えた。

「協会を去るあなたにはもう他に居場所がないのよ、一緒に猫人狩りをするしか」
「猫人狩り!」
ミカエラはゾッとした。ジョゼの生み出した悪心が猫人に危害を加えようとしている。
正統世界猫協会から猫人を助ける英雄となるべく派遣された麻倉ジョゼが、いま当に猫人狩りの先鋒にならんとしている。
だが今や存在感の希薄な半分人間であるミカエラはダンカイロ一味を止める手立てを持たない。

「 半分でさえ無ければ!」
ミカエラは口惜しんだ。



雑踏の喧騒がミカエラの眼前を過ぎていく。
通りには市場が立った。
子供達が風船を持ってパレードを追いかける。この島にもフェリア(祭り)がやって来るのだ。街の外れの草原には移動遊園地の組み立てが始まった。フェリアの中日には闘牛祭りも開催される。

「エスカミーリョが来るよ!」
子供達は口々に叫んだ。パレードの最後尾に稀代のマタドール、エスカミーリョの乗った花車がいるのだ。
酒を飲む男たちはエスカミーリョの登場に熱狂した。女達はエスカミーリョに花を投げた。

「華麗なベローニカを見せてくれ!」
男たちは言った。
エスカミーリョは花車の上から手を振って人衆に応えた。彼は世界の中心で、彼が手を振る度に男たちも女達も人々は熱狂するのであったり。
エスカミーリョがミカエラの傍に来た時に、彼は車を停めた。
人々が花車を降りた彼を囲んで、彼に向かって手を伸ばした。
「 オートグラーフォ!オートグラーフォ!」
子供達がエスカミーリョにサインをねだった。
彼は群がる人々の中を真っ直ぐにエスカミーリョの眼前まで歩いた。

「君は半分だな」
エスカミーリョは言った。
「そうよ」
ミカエラは言った。
「何故だ」
「ダンカイロ一味が猫人狩りをしようとしているからよ」
ミカエラは言った。
「猫人狩りだって!」
エスカミーリョは叫んだ。それを聞いた人々は驚き、そしてダンカイロ一味を罵った。

「猫人狩りを止めさせなければ!猫人がいなくなったら、この島の何もかもは消えてしまうわ!」
「そうだ!」
人々は叫んだ。
「猫人を守れ!」
だが猫人が何処にいるのかミカエラは知らなかった。
「知っているぞ!」
誰かが言った。
「西浦地区が猫人を匿っている!」
「西浦地区へ行こう!」

高血圧を原因とする不整脈の発症によって急遽、ムルシアン州にある政府管轄の特殊病院に収容された山端三吉世界猫協会西浦地区会長は、収容後に平静を取り戻し、いまは病室に休んでいた。一泊の検査入院の予定である。山端三吉老人は窓外を望遠鏡で覗いていた。
筒鏡に西伊豆西浦の海が見える。西浦は晴天の下、静かに光礫を湛えていた。
そこに猫協会事務局の葛西倫子事務員が訪室をした。
「西浦の猫たちはどうなった?」
山端三吉は言った。海にも山にも夥しく動物たちが暮らしている。だが、遠景にあっては、それが見えない。西浦に暮らす猫たちの平穏も此処から伺う事は出来ない。
巷間を撹乱する猫人騒ぎは、望遠鏡で遠景の連峰を眺めて狐狸を探す事に似る。
望遠鏡では山野の狐狸を見つける事は出来ない。
「麻倉ジョゼが猫人狩りの一味に加わりましたよ」
葛西倫子が言った。
「計画は失敗だ」
山端三吉老人は言った。
「だから計画には反対したのに」
葛西倫子は言った。
「麻倉ジョゼが戻らなければもう西浦地区は終わりだ」

ミカエラとエスカミーリョは郊外に作られた移動遊園地に建設された観覧車のゴンドラの中に居た。別のゴンドラにはジョゼやカルメンが乗っていた。ダンカイロ一味の姿も他のゴンドラに見られた。彼らを乗せて大歯車は緩徐に回転をする。

草原には風船を持った子ども達が集まっていた。街の男たちも、女たちも草原に集まっていた。男たちは楽器を奏でて、女達は輪舞曲を踊った。設えたテーブルにはワインが並んだ。イワシのパイやトルティーヤ、大鍋のアヒージョの他にも先程闘牛場で弑された牛たちの煮込み料理が並んだ。人々は花を投げてフェリアをお祝いした。明晩のイワシ祭りのパレードに参加するイワシの着ぐるみを身につけた人々が屋台で、パンに挟んだ酢漬けのイワシを配った。

「君はどうして半分なんだ?」
エスカミーリョはミカエラに聞いた。
「ダンカイロ一味が猫人狩りをしようとしているからよ、さっきも言ったわ」
「半分だ、君は」
「さっきの闘牛試合、素晴らしかったわ」
「興奮した?」
「ええ、とても」
「僕もだ、闘志のある素晴らしい牛だった。ムルシアンの野生牧場に敬意を評したい。それから勿論、勇敢なモルーチョにも」
「死んだわ」
「そうさ、みんなね」
「みんな? 」
「いづれは僕もね、死ぬ。牛に突かれて、踏みつけられて。屠殺ってそういうものだよ」
エスカミーリョはミカエラの瞳を覗いた。
観覧車の大回転は緩徐に周回し、二人のゴンドラは頂点に達した。素晴らしい見晴らしだ。
遠くにある市街まで見渡す事が出来る。
ミカエラは目を細めて遠景を見た。
エスカミーリョも目を細め、ミカエラと同じものを見ようとした。

「僕は半分の女の子が好きなんだ」

その時、後ろのゴンドラに乗ったダンカイロの一味が、騒いだのでエスカミーリョは背中を振り向いた。
「うるさい奴らめ」
「彼らが猫人を狩るのを止めさせなければ」
とミカエラは言った。
「協力するとも、どうしたら良い?」
「衛兵を呼んでダンカイロを捕えさせれば良いのよ」
「だけど、捕えさせるには罪状が無ければいけないよ」
「悪いことなら幾らでもしているわ」
「しかし、彼には証拠が無い」
「お酒を飲ませて自白させれば良いのではないかしら?」
「やってみよう」

早速、草原のテーブルでエスカミーリョとミカエラは衛士隊長とダンカイロを囲んで昼食会を催した。そこにはカルメンとジョゼも同席した。

「素晴らしい闘牛だった」
密輸商人にして独立国家建国を目論む革命家ダンカイロは言った。
「もし、俺が国を作ったら君を名誉国民にしてあげる。俺は君の為に大きな家を建てるよ」
「光栄です、閣下」
エスカミーリョは言った。
「衛士隊長の君も名誉国民にしてあげる」
ダンカイロは衛士隊長に言った。
「光栄です、閣下」
「 もうすぐだ、もうすぐ俺の国は建つ」
ダンカイロは猫人の島を襲撃し、猫人を捕獲しようとしたが、彼らに猫人を見つける事は出来なかった。だが、猫人の島で猫人たちが西浦地区に匿われている事を知ったダンカイロは、部下たちを連れて西浦地区に赴く事を決めた。西浦地区で猫人を捕まえる事が出来ればダンカイロは世界に対して建国を宣言するつもりでいるのだ。

ダンカイロの部下たちが、革命家を称えた。
「万歳だ!」
部下たちが叫んだ。
「万歳!建国万歳!」
「俺の国に!」
ダンカイロは酒杯を掲げた。
「俺たちの国に!」
部下たちが応えた。エスカミーリョとミカエラも酒杯を高く掲げてワインを飲み干した。
「カルメンがいるわ」
ミカエラは小声でエスカミーリョに言った。
「そうだね」
エスカミーリョは言った。
「隣にいるのは?」
「あれはジョゼよ、私の半身。カルメンに誘惑されて私の事を忘れようとしているの」
「君を見てる」
「そうね」
「カルメンもあなたを見てるわ」
「そうだね、僕たちの関係は少し複雑なようだ」

ダンカイロは言った。
「俺の国は猫人でいっぱいにするぞ、猫人に市民権を与えて猫人学校も作るんだ」

「閣下が猫人を奴隷にするつもりだと誰かが言ってましたよ」
エスカミーリョは言った。

「なんだって?誰がそんな事を!」
「確か、ジョゼが言ったのでは」
エスカミーリョは言った。

「本当か、貴様!」
ダンカイロは言った。円卓に座る麻倉ジョゼは答えた。「言ってません」
「言ったわ」
ミカエラが言った。

ダンカイロはカンカンに怒ってジョゼを捕えさせた。
「許さないぞ!」
ダンカイロは部下にジョゼの処刑を命じた。
「許して!うちの板前が居なくなってしまう!」
カルメンはダンカイロにジョゼの赦免を請願した。

「ダメだ」
ダンカイロは言った。
「死刑!」
部下たちも言った。
「死刑だ!」
しかし、カルメンの請願によりジョゼは一味からの追放で済まされた。

「閣下の恩徳に感謝申し上げろ」
部下は言った。
「ありがとうございます」
ジョゼは言った。

「困った」
エスカミーリョは小声でミカエラに言った。
「ダンカイロの悪事が露見しない」
ミカエラは衛士隊長に尋ねた。
「 ダンカイロを逮捕する事は出来ますか?」
衛士隊長は言った。
「悪事の証拠が無いと逮捕は出来ない」
その時、ミカエラのポケットから蜜柑が転がった。

「蜜柑?」
ダンカイロが言った。
「船の上で蜜柑売りの少女から買ったのよ」
ミカエラが言った。
「でも少女は甲板からいなくなってしまったの、あれはきっと大海鴉の仕業ね」
「大海鴉は大きいものなあ」
エスカミーリョは言った。
「そうね、大海鴉の仕業ね」カルメンは言った。

「違うぞ」
ダンカイロは言った。
「大海鴉達にそんな事出来るものか!あれは俺たちが誘拐したんだ!」
「そうだ!」
「俺たちの仕業だ!」
部下たちは言った。

ミカエラは衛士隊長に尋ねた。
「悪事を吐露してるわ。少女誘拐よ」
衛士隊長は言った。
「とりあえず逮捕してみよう」
衛士隊長が警笛を鳴らすと馬に乗ってサーベルを携えたドラグーン達が現れて、ダンカイロ一味を急襲した。草原は混乱に陥り、逃げ惑う一味によってイワシの屋台は軒並み倒れた。ダンカイロ一味は輪舞曲の中を駆け回り散り散りと散逸した。

「蜜柑売りの少女を保護したぞ!」
衛士が言った。

「失敗だわ」
ミカエラは落胆した。
「ダンカイロが逃げてしまった」
「どうすれば良い?」
エスカミーリョは言った。「西浦地区でダンカイロ一味より早く猫人を見つけるしかないわね」

ミカエラとエスカミーリョは衛士達を連れて西浦地区にやってきた。
「長閑な良い所ね、ナバラを思い出すわ」
ミカエラは言った。
「君はバスク人なんだね」
エスカミーリョは言った。「そうよ」
「さあ、猫人を探しましょう」
二人は海岸を歩いたが、猫人達は何処にもいないのであった。
「港に行ってみよう」
港には蜜柑売りの少女が蜜柑を売っていた。

「蜜柑を一つ」
エスカミーリョは言った。
「あなたはエスカミーリョね」
少女は言った。
「そうだよ」
エスカミーリョは言った。
「握手をしても良い?」
「勿論」

港で海を見ながらミカエラとエスカミーリョは蜜柑を食べた。
「猫人はいない」
港にはダンカイロ一味も集まっていた。彼らもまた猫人を見つける事は出来ないのだ。一味は西浦地区の中を探し続けて疲れ果てていた。

「猫人はいた?」
ミカエラは一味に尋ねた。「いいや、いない」
ダンカイロ一味の副官レメンダードは答えた。
「もう疲れた」

港には猫たちが集まっていた。ダンカイロの部下たちは集まってきた猫たちと戯れていた。

「ここの猫は平和そうだ」
レメンダードは言った。
「ジョゼが猫たちの世話をしていたから」
ミカエラは言った。
「ジョゼは何処に行ったのかしら。こちらに帰ってきていると思ったのに」

ダンカイロに対する不敬罪で一味を放逐された麻倉ジョゼは何処にもいなかった。カルメンもいなくなっていた。

麻倉ジョゼは霧の殺人鬼になったのだと、猫を膝に乗せたダンカイロの一味は噂をしている。
霧の夜の港湾には人心を喪った殺人鬼がいて、娼婦たちを殺害する。
殺人鬼を見た者は誰もいない。

いいや、と他の男が噂を否定する。
彼は山に篭って山人の集落で暮らしているのだ、と男が言った。

いいや、と他の男が噂を否定した。
彼は外人部隊に入り、今もラッパ銃を装備して戦場にいるのだ、とその男が言った。
夕陽の荒野を馬に乗り、ひとりの竜騎兵が疾駆する。
誰も彼が麻倉ジョゼであったことを知らない。
誰も彼の禍難を知らない。
過去を忘れるように竜騎兵は荒野を走る。
山間に夕陽が墜ちて、空は劫火に燃え上がった。
劫火の空が、徐々に夜の色を濃くして紫炎に変わり、青白い幽かな焔の色に変わるまで乗馬の彼は疾駆する。
星々が瞬く頃に彼は小高い丘の上にいて、漸く馬を停めてから星々の満ちる空を眺めた。長い疾駆によって彼の心臓は大きく拍動した。
呼吸が小さく細切れになった。
彼は暫くして、深呼吸をした。肺に、酸素を吸い込み呼吸を整える。
彼は夜空を見上げた。
耀く星々のひとつずつが異なる星であるように、人生もまた人それぞれに異なる数奇だ。
と、彼は思う。
星月夜の中にいて、彼は喪った人心を取り戻したかのように思えた。
今まで、どうして自分は暮らしていたのだろう。
今まで暮らした自らがまるで他人のように感じられた。
禍難の続いた半生がこの星々の下に帰結したかのように思えた。
西浦に暮らす猫たちは元気だろうか。
ジョゼの飼っていた二匹の猫は元気だろうか。
彼はあまりにも遠くに来てしまった。

西浦に集まった人衆にジョゼの噂が席巻していた。

彼は猫人だったのだ、と誰かが言った。
そうだ、彼は猫人だったのだ。

悲鳴が上がった。
悲鳴を上げたのはその話を聞いていた蜜柑売りの少女だった。

麻倉ジョゼは猫人だったのだ。
今度は漁協直営店の売り子達が悲鳴を上げた。

麻倉ジョゼは猫人だった。
西浦の人々は次々悲鳴を上げた。

猫人であった麻倉ジョゼはもう西浦にはいない。

麻倉ジョゼのいなくなった西浦の港町から沢山の猫たちが山中へと逃げ出した。
通りが逃げる猫たちで埋め尽くされた。
蜜柑売りの少女のような猫も、猫協会の会長のような猫も、karaokeスナックのマダムのような猫もいた。
みゃおう、みゃおう……。
猫たちは口々に悲鳴をあげた。
狂想のオーケストラのように。

奔流のように溢れだした猫たちに、港にいた外地の人々は圧倒された。ダンカイロ一味は恐れをなして逃げ出した。
猫たちの狂騒にエスカミーリョは蒼褪めた。
エスカミーリョは傍らのミカエラを探したが、もう彼女は何処にもいなかった。
「ミカエラが消えた!僕の半分人間は何処だ!」
彼はミカエラを探そうとしたが行く手は猫達に阻まれた。
「ミカエラ!ミカエラ!」

レメンダードは恐れをなして叫んだ。
「猫共め、猫共め!」
逃げる猫たちはレメンダードに突進した。彼は倒れて猫に埋もれた。
「俺たちの独立が!」

みゃおう、みゃおう……。
猫たちは走り続けた。
みゃおう、みゃおう……。
町中に溢れた猫たちが。
みゃおう、みゃおう……。

みゃおう、みゃおう……。

みゃおう、みゃおう……。

みゃおう、みゃおう……。

そして猫の全てが山中に隠れた時、西浦の町には誰もいなくなってしまった。

(短編小説「ネコジン」御首了一)


#小説 #NEMURENU #ネムキリスペクト #猫飯店    #青山羊派


初出2022年12月30日
改稿2023年1月10日

変更点
・歌劇カルメンの説明が加わりました。
・麻倉ジョゼの親指の数(増えた時)が二本から三本に増えました。
・猫の名前が「パンクとロック」から「老オス猫のマジ―と若いメス猫のドナ」に変わりました。
・大海鴉のディティールが少しだけ詳しくなりました。
・カルメンの経営する小料理店が「割烹島猫」に改名
・新キャラ「フランスキータとメルセデス」が登場(スナック・イサリビのキャスト)