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短編小説「ウロボロス」

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第一場「 神様と蛇の話」

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嗚呼、神様ご勘弁下さい。お慈悲を!お慈悲を!と蛇は言いましたが、成らん成らんと神は仰いまして、蛇の四肢を天使達に掴ませて、まずは右の肩口から脇腹へと鋸を引くのでございました。
蛇は断末魔の悲鳴を上げて赦しを請いましたが神様はお許しになりませんでした。
原初の男女はその光景が恐ろしく目を瞑り、耳を塞いで震えておりました。傷口からの噴血で壁は蛇の血に染まりました。その血が流れて床に血溜まりを作るのでございました。
原初の男女は恐ろしさのあまりさめざめと泣き出しました。
次に神様からのお仕置を受けるのは他ならぬ自分たちなので御座います。
「堪忍を、堪忍を」
原初の女は喚きましたが、神様はお聞き入れになりませんでした。
鋸に挽かれて蛇は手足を失って芋虫の如く腹で地を這う生き物になりました。
蛇はもう何も喋りませんでした。
割れた舌をちろちろと出して、よく目も見えぬようで、後は気狂いのように腹で這いながら何処かへ行ってしまいました。
変わり果てた蛇の末路を見て原初の男女は楽園から逃げ出しました。逃げ出す男女に神様は仰いました。
「 塵から生まれた者は塵に帰るのだ」
その言葉によって原初の男女に死の影が張り付きました。原初の男女は死の影を除こうとしましたが、死の影は深く男女に食込み、彼らはもう死を逃れる事は出来ないのでありました。
「 お前たちは下界に降りて草木の如く殖えるだろう」
神様は仰いました。
「だが殖える事には苦痛を伴う」
神様は女に言いました。女の子宮に痛みの精が宿りました。
「汝らが殖える事を我慢する事は出来ぬ」
神様は男に言いました。それで男には殖える精が宿りました。それで男は女を組み伏せて痛みの種を植え付けるようになったので御座います。

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第二場「洋上にて僕らは婚活パーティの人々と出会う話」

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夜の船上に僕らは居て、船は夜の海を巡航していた。
風が強く吹いていて、時に僕達の声をかき消した。

「蛇は何処に行ってしまったのかしら」
と志田さんは言った。
「蛇はね、何処へ行ってしまった訳でも無いのです」
「蛇は今も人間の傍にいて、何とか人間を使って天に帰ろうとしている」
そう言ったのは船の乗組員だった。彼らは初老のアフリカ系移民と若い白人の男だった。

小さな小島に人家があって、窓は白熱灯のオレンジ色に光っていた。
あんな場所にも人間が暮らしていて、日々の変哲の無い日常を営んでいる。

「漁師だろうか」
あんな所に暮らしているのは。日々、船を出して魚を漁って暮らしているのだろうか。人生の可能性の中にはそんな生き方もあるのだ。僕にだって。

志田さんは何も言わない。彼女の表情は翳っている。何処かに言ってしまった天界の蛇と、彼女の失踪した恋人の姿が重なったのかもしれなかった。

船上の中央にある大広間では志布志の男女が集まってパーティーをしていた。行政が企画したエンジェルパーティーで配偶者の居ない男女が集まって自己紹介をし合っている。

「出会いの場を用意する事まで、今では行政サービスになったんだね」
僕は言った。
「志布志市民の流出は止まらず、晩婚化未子化の傾向が広がって世間的に少子化の歯止めも効かない程だもの」志田さんは言った。

20XX年、鹿児島県志布志市は国際港湾である志布志港を有する南九州の海のポータルとなっている。志布志港は太平洋高知沖を通り、大阪湾大阪南港へ向かう大型フェリーの定期航路を有し、鹿児島と大阪を約15時間の海路で直結する。
九州に於ける有数の観光名所であるダグリ岬遊園地がある鹿児島県の主要都市である。
市内のセブンイレブンは五店舗、ファミリーマートは五店舗と鹿児島県内他市町村と比較すると圧倒的にコンビニエンスストアは大規模に展開されているが、20XX年現在、志布志市は人口減少が喫緊の政治課題になっており、30年後には志布志の人口は半減するとの試算が出るにあたり、老若男女が志布志の人口動態を憂慮する事態となった。
志布志市の総合政策課は男女の婚姻を促進させるべく、かごしま出会いサポートセンターを設置。
その一環で大阪南港に出港する旅船を利用し、婚活パーティを企画したのである。

「年収は幾らなんですの?」
夫人が男性に聞いた。

「いきなり聞く話題かな」
僕は言った。
「急いてるのよ、時間は無いわ」
志田さんは言った。

「結婚しませんか」
近付いてきた男性が志田さんに言った。
「私、そういうのじゃ、無いから」
志田さんは言った。
僕達は先程からエンジェルプロジェクトパーティの参加者に間違われ続けている。

パーティの参加者は首から札を提げていて、一般の渡航客と区別がされているが、彼らにその札は見えないようであった。

パーティ会場の片隅で出席者の男達が集まって議論を交わしていた。

「市長が16年ぶりに変わるのだ」
「新しい市長の顔つきを見たが、あれなら変わらない方が良かった」
「いや今までの市長はよろしく無い、知事との関係が悪過ぎる」
「経済特区の市長には独自の裁量が認められているのだから、知事との関係などに配慮は無用だ」
「それは暴論だ」

議論は白熱していた。

「彼らは伴侶を見つける気が無いのだろうか」
僕は言った。
「政治的議論よりも夫人に自己紹介する方が優先されるのでは?」

「ウミヘビがいるよ」
誰かが言った。それで船上の人々は船べりに集まって、暗い海の中にウミヘビの姿を見つけようとした。

「大きなウミヘビだ」
とウミヘビの姿を見つけた人々は言う。

「白黒の縞模様だ」
「身をくねらせて泳いでいる」

僕達にはその姿が見えない。
「ウミヘビは蛇なの?魚なの?」 と志田さんが言った。

「僕は蛇だと思うけど、考えてみたら海の中に爬虫類が暮らしているなんて奇妙だね」
「海に暮らす爬虫類なら海亀がいるわ」
志田さんが言った。
「言われてみればその通り」
僕が思っているよりも海の生態系は多様のようだ。
「海を泳ぐ鳥類だっている」
「哺乳類の巨大海獣だっているわ」
「両生類、例えば蛙もいるのかな」
「海蛙?聞いた事はないけれど……」
「僕達の常識は覆される為にある。きっといるんだよ、大山椒魚のもっと巨大な奴が深海とかに」

「ウミヘビを食べた事があるぞ」
何人かの男を従えた老人が言った。
「南国ではウミヘビを食べるんだ」
「どんな味だったんですか」
従者の一人が聞いた。
「うーん」
老人が言った。あまり美味しいものでは無いらしかった。

「食べられるというなら魚かな」
僕は言った。
「蛇だって食べられるでしょ」
志田さんが言った。

「結婚しましょう」
見知らぬ男が志田さんに言った。
志田さんは無言で手を振って応えた。男は去った。

「アトリウムにも蛇の絵があったよ。見た?」
「見てないわ?」
「二匹の蛇が互いに尻尾を飲み込みあっている。なんだっけ、あのモチーフ……」
「ウロボロスの蛇ね、生命を表す蛇が円環になる事によって永遠を示唆する図柄よ」
「永遠というよりも……」
飲み込みあった蛇たちはどうなるんだろう?あれが僕には永遠には見えない。

志田さんに振られた男はウミヘビを見ようと船べりに集まる他の女性にも声を掛けた。
「結婚しましょう」
「年収次第よ」
女性は答えた。
「少なくとも月収は年齢を超えていなくっちゃ!あなた何歳?」
「42」
「勿論、手取りでの話よ」
女は言った。

「見ていられないものがある」
僕は言った。
「あなただって結婚しなければ、10年後にはああなるのよ」志田さんは言った。
「志田さんも?」
志田さんは手の平を振って答えた。

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第三場「僕と志田さんが洋上で蝶を見た話」

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田宮、つまり志田さんの恋人は或る日、行方不明になった。
書き置きなどは何も無かった。彼の両親にも、友人にも、恋人にも何も言わずに彼は消えた。
「事故に巻き込まれたのだ」と両親も、恋人も警察に主張した。
警察が調べたところ偶然にも、彼が汽船の乗船券を購入し、そして彼が汽船に乗船した事が知れた。
何故、そんな挙動を田宮がしたのか恋人にも両親にも知れなかった。
更に不運な事に、田宮は一人では無かった。志田さんも両親も名前の知らない女が彼に同行していた。

「誰にも見せない一面があるのですよ」
警察は言った。それで彼らの捜査は事実上終わってしまった。恋人が出来て駆け落ちたのだ、とつまらない事件のひとつとして田宮の失踪は処理された。

志田さんにとって警察の突き止めた数々は、二重の意味で田宮の喪失の証拠となった。今更、田宮が見つかっても彼が恋人の元に戻る意思があるのか甚だ疑問であった。そう思って一年が過ぎて、一年間の煩悶の結果、彼女は僕に田宮の乗船した汽船に同乗するよう提案した。
僕は応じた。

「田宮が呼んでいる気がするのよ」
志田さんは言った。


「船は好き?」
女を二人連れたゴージャスな男が志田さんに声を掛けた。
「 さあ、どうかしら」
志田さんは答えた。

「今度、僕の船に乗せて上げても良いよ」
ゴージャスな男は言った。

「 よく声を掛けられるね」
男が去った後に僕は彼女に言った。実際に彼女は船上のどの女性よりも目立った。
陸地にいた頃には気が付かなかった魅力が、洋上でしか発揮されない魅力が彼女にはあるようだった。

「カップルが成立したぞ!」
歓声が上がった。
人々は祝福の言葉を投げかけた。
男女が気恥しそうに祝福を受け止めた。

「思っていたのと違う」
僕は言った。
「最後にそんなコーナーがあると思っていたのに」
「最後に?」
「そう、女性の前に交際を申し込みたい男達が並んで、一斉に意中の女性に手を差し出す」
「そういう俗な発想って何処から来るの?」
「俗かな?」
「俗よ」

僕達も成立したカップルを見学に傍に近寄った。
男は女に比べて一回り程、年若いように見える。
記者が二人に尋ねた。
「選ぶポイントは?」
「誠実さよ」
女は答えた。
「女性らしい魅力です」
男は答えた。

「志田さんの方が魅力的だよ」僕は言った。
「そう」
志田さんは言った。

「食事は食べた?」
ゴージャスな男が志田さんに尋ねた。
「まだよ」
「良かったら僕の船室でどう?勿論、そこの彼も一緒に」
「遠慮しておくよ」
僕は言った。
「どうして?お呼ばれしましょうよ」
志田さんは言った。

8階にあるスイートルームは想像よりも広かったが、男とその添え連れの女達、僕と志田さんの五人が入ると些か手狭であった。
男は僕達に船内で頼める最も瀟洒なコースを振舞った。
「舌平目のムニエル、オマール海老のソテーアメリカ風、海岸柑橘類のソルベ」など、数々の料理が僕達の前に運ばれた。

「この船には亡霊がいるわ」
志田さんが言った。
「興味深いね」
ゴージャスな男が言った。
「私、見えるのよ」
志田さんが言った。
「その話、詳しく」
ゴージャスな男が言った。

食事の後に僕達はまた甲板に出て夜風に当たっていた。
「亡霊が見えるなんて初耳だけど」
僕は言った。
「あなたには言わなかったもの」
志田さんは言った。

「あ、蝶」
洋上に一匹の蝶が飛び、マストに降りて羽翅を休めた。

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第四場 「 洋上に現れる幽霊を目撃する話」

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男共を徒卒にして老人が甲板に現れた。
老人は甲板にいたアフリカ系の乗組員に詰め寄った。

「この船はおかしな事ばかり起こる!」

「どうしたんですか?」
老人によるとこの船にはゴーストがいるのだと言う。

「そんな馬鹿な」
到底信じられない。僕は笑った。

「海に幽霊は付き物ですよ」
乗組員は言った。
「ほら」

洋上に人影が立っている。

「あれは何だ」
「幽霊です」

「幽霊なんているはずがない!」
老人は激高した。激高して彼は杖を振り上げた。船が大波に傾いだ。その拍子に老人は転んでしまった。

誰もが転倒した老人に気を奪われて、再び洋上の幽霊に目を向けるともうそこには何も無かった。
「波があのような人影に見える事もあるのでしょう」
老人の徒卒の一人が言った。

だが先程まで甲板にいたアフリカ系の乗組員はもう何処にも居ないのであった。

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第五場 「婚活の人々の議論が愈々白熱し、突然終結する話」

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志田さんはシャワーを浴びるからと船内の浴場に行った。
僕もまた浴場で風呂を浴びたが、早々に退浴して食堂で時間を潰していた。

食堂の中ではお見合いパーティに参加した男性達が、やはり議論を交わしていた。

彼らは最近開発された人工知能アイドルが差別的発言を繰り返している問題について議論しているのであった。

「人工知能に対する倫理的教導が足りない」
「倫理的とは?人類に共通する倫理観など無い」
「 普遍の倫理ならあるだろう」
「普遍の倫理を修めても差別の問題は無くならない」
「レイシストの存在は?」
「個人的な嗜好に口を挟むべきでない、人間には愛する権利もあればヘイトする権利もある」
「いや違う、個人的幸福を妨げるヘイトに権利は無い」
「万人を愛するなど不可能だ」
「そもそもお前の事が生理的に嫌いだ」
「撤回しろ!レイシストめ!」

僕は彼らの発言に耳を傾けていた。人工知能が完璧な倫理を得ることはあるだろうか?

10人の男女がいて、10個の林檎がある。これを公平に分けることすら難しく、完璧な回答など無いように思う。
子どもは半分の林檎で良いかも知れず、大人は一個の林檎では足りないかもしれない。10人のうちの一人は今日明日には病没する者であるかもしれない。独身者と妻帯者では扱いが変わるかもしれない。石油王は林檎を買い占めようとするかもしれず、仏教徒は林檎を谷底へ捨ててしまうかもしれない。

「本当に彼らは結婚する気があるのだろうか」
会長と呼ばれる老人に僕は話しかけられた。
「彼らは異性とは喋らずずっとああして議論ばかりしている」
「結婚する気はあるかもしれませんが、どうやって結婚したら良いのか分からないかもしれないですよ」
「分かっていたら結婚しているだろうからな」

丁度議論は結婚の必要の有無について、議題が変わっていた。
「結婚の必要など無い」
「我々は子供を作る機械では無い」
「人類が少子化で滅ぼうとも、それは国家の大局的戦略の失敗であって個人が個的な幸福を放棄してまで責任を感じる所では無い」
「三次元に我々を幸福に導く女子など無い」
「俺は一歩も部屋から出たくないんだ」
議論は終結した。
「彼らは何のために此処に来たんだろう?」
「結婚するためだと思っていましたが、違ったようですね。自分探しの旅かな」
「船旅はまだ続くというのに」
議論していた男たちは議論の終結によってそれぞれの2等船室に戻っていった。

「あなた年収は?」
僕は夫人に尋ねられた。
「無職です」
「と言うと?」
「無収入です」
「不動産は?」
「何も?」
「貯金は?」
「何も?」
「驚いたわ、どうやって暮らしているの?」
「それなりに何とかなるんですよ」
「興味あるわ」

「私の年収も教えようか?」
会長と呼ばれる老人は言った。
夫人は会長の年収と資産、それから年齢を聞いて何やら計算をしていたが、惜しむらくは計算によって得られた数値は夫人の満足には至らなかったらしい。
「あと2センチ、身長が高ければ及第点だったのよ」
夫人は言った。

「聞いてよ」
また別の夫人が現れた。
「あの男ったら、結婚後は両親と同居させるつもりだったのよ」
彼女は先程、カップルが成立して祝福を受けた女性だった。
「私の希望は実家に婿入りして貰うことなのよ」
「どうするんですか?」
記者が尋ねた。
「破局よ」
彼女は言った。
「破局ね」
記者がメモした。

「子供は欲しい?」
夫人が僕に尋ねた。
「要らない」
僕は言った。
「そう、残念。でも本当に?」
夫人は言った。

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第六場「船内にて志田さんを探す話、或いはウロボロスの蛇」

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僕の連れを探しているんだけど。と、僕は客室乗務員に尋ねた。

「エステに入るのをお見かけしましたよ」と、アングロサクソン人の男は言った。

エステの受付で僕は連れを探していると伝えたが、志田さんはもうエステから他の場所に向かったようだった。

「カジノではないかしら」
エステティシャンは言った。

「ラウンジに向かいましたよ」
カジノでルーレットを回すディーラーが言った。

「食堂へ」
カウンターのバーテンダーが言った。

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食堂の中央にあるカラクリ時計の上に蛇の絵が描かれていた。

「ウロボロスの蛇?」
2匹の蛇が互いに尾をのみこんでいる。

「ああして、互いに飲み込みあうと最後に蛇はどうなるのかな?」
「途中から蛇に飲み込まれた自分の体を飲み込む事になりますね」
「更にその後は相手蛇に飲み込まれた自分の体を飲み込む自分を飲み込んだ相手蛇の部分を飲み込む事になりますね」
「待って、意味が分からない」
「だから自分の体を飲み込む相手蛇を飲み込むうちに、相手蛇の体の中には自分の体が飲み込まれいるので、相手蛇の中にある自分の体を飲み込みますよね?」
「……え?え?」
「更に飲み込み続けると、蛇の輪が縮まって自分の体を飲み込む2周目が始まる訳ですよ」
「2周目って何?」

そうして2匹の蛇は互いの領分を重ねながらひとつの存在になっていく。
二つの世界がひとつに重なっていくように。

「あ!田宮!」

田宮が食堂にいた。
「君を探していたのに。今まで何処にいたんだ?」
と、僕は言った。
「馬鹿だな、こんな所に来て」
と田宮は言った。
「この船には死人しかいないよ。降りる機会があれば降りた方が良い」

死人?

「 生者の世界と死者の世界が互いに飲み込みあって、生死が混沌としているのがこの船なんだよ。この船の目的地が何処か知ってる?」

「いや、知らない」

「楽園だよ。我々は再び楽園に帰ろうとしている」
「楽園?」
僕は言った。田宮は以前の、僕がよく知る田宮では無いようだ。顔相が蒼白く暗澹としている。まるで彼は屍人である。

「かつて我々がいた所。エデンだよ」
田宮は言った。
「君は田宮では無いな、偽物だ」
僕は言った。
「いいや、」
と田宮は言った。
「君の知る田宮は所詮、白い田宮に過ぎない。君は黒い田宮を知らない」
「黒い田宮って何だ?」
と言ったのは僕の隣に座る僕で無い僕。
「田宮は一体何人いるんだ?」
と言ったのも僕で無い僕。一体僕は何人いるんだ?
「色の数だけ」
と黒い田宮は言った。
色の数だけだって?
「人間が作れる発色はcmykの掛け算だよ。つまりは4色それぞれの100の4乗。100*100*100*100は1億色」
「特色を忘れているよ」
「いや、それは敢えて外しているのであって」
僕の隣の僕達による議論が始まってしまった。彼らは妥協という言葉を知らない。好き放題の放言で議論が行われている。僕の数は増え続けて100*100*100*100の1億人。1億人の僕達が議論を交わすにあたり船室では納まりきらず、議論の舞台は世界中の各端末からアクセスするSNSに移った。1億人の僕がユーザー登録するTwitter。
「拙者の推しするピルグリムの愛たんが婚約発表おぶう爆死」
「仕事の上司氏ね爆死」
「今日すれ違ったggbb、臭い氏ね爆死」
「リプ送ったのに返事無い乳豚氏ね爆死」
1億人の僕によるTwitter上の公開議論は主題が乱立し脈絡を失ってめいめいが心情吐露する暴露大会。議論の収拾は最早つかないのであった。
「僕の代表を決めよう」
「どうやって?」
「選挙によって」
そうして僕の代表は地方ごとに決定され、僕の代表が集まる議会が出来て、更にそれが都道府県の単位になって僕の為の国政が。

今や世界人口に大きな蛇が、膾炙

「田宮!」
僕は言った。
そして目が覚めた。夢だ。田宮に会った夢。僕は2等船室で目が覚めた。志田さんがいない。

「志田さん?」
志田さんは僕の恋人?僕の友人である田宮と駆け落ちしてしまった…?僕は、志田さんを探して彼女の足取りを追っている。彼女と、田宮が乗ったフェリーに、彼らの痕跡を探す為に。

そう、あれは3年前。彼らが失踪して。

恋人と友人が失踪した事の怒りに震えたのが一年。次の一年は真相探し。その次の一年は寂寥。
彼らに会いたい。
「恋人NTRれた氏ね爆死」
1億人の僕が快哉を叫ぶ。

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第七場「 それを堕落と言うのは烏滸がましい、という話」

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そして目が覚めた。
僕は2等船室で目が覚めた。志田さんがいない。シャワーを浴びに浴場に行った彼女を待つため僕は食堂に居たが、待ち疲れて僕は先に船室で待っていたのであった。2等船室は下層市民が集まる雑多の船室で、広間に一畳の区割りがされて、そこに下層市民が老若男女薄掛けの布団を与えられて雑魚寝する。
志田さんは2等船室を嫌っていて、食堂で夜明かしするかもしれないと言っていたので、シャワーを浴び終えた彼女は今も食堂にいる筈だ。そう思って食堂に行ったが彼女はいない。ほうほうの体で船内の隅々まで探し歩いた結果、彼女はゴージャスな男と二人、ラウンジでアルコールを飲んでいた。

「此処にいたの?」
僕は尋ねた。
「悪い?」
彼女は言った。
「もうそろそろ寝た方が良いんじゃない?」
僕は言った。
「これ彼氏?」
ゴージャスな男が言った。
「違うわよ」
志田さんは言った。
「君さあ、」
ゴージャスな男が言った。
「退屈な人間だって言われてるよ?」
ゴージャスな男が言った。
退屈な人間?誰に?誰から?
状況的にそれは明白であった。
「志田さん?」
志田さんは何も言わなかった。それが答えだ。
「先に寝てて良いよ」
彼女は言った。
「心配だから付き合うよ」
僕は言った。
「彼氏面しないでよ」
志田さんは言った。
「君は2等船室に戻った方が良い」
ゴージャスな男は言った。
「チーズをあげるから」
ゴージャスなチーズを貰った。
「足りない?燻製肉も付ける?」
ゴージャスな燻製肉を貰った。
「田宮は?」
僕は志田さんに言った。
「忘れる為に来たのよ」
志田さんは言った。

僕は先程の夢を反芻していた。この船は二つの世界が混淆している。
と、田宮は言った。
その通りだ。
記憶と忘却。
志田さんは居なくなった恋人、田宮の記憶を払拭するため、彼の面影を忘却しようと足掻いているのだ。
最も愚かしい方法によって。

「あたし気付いたのよ」
志田さんは言った。
「田宮も、あんたも、つまらない人間だわ」
彼女は酩酊していて、ゴージャスな男の隣に座り、その身を彼に預けていた。
ゴージャスな男の手が彼女を抱き寄せた。
「凡庸な人間だわ」
凡庸とは何か。
凡庸は美徳では無かったか。
「中庸」という言葉は、『論語』のなかで、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と孔子に賛嘆される。
それ即ち、言葉を替えて凡庸では無いか。

「中庸と凡庸は異なるのよ」
志田さんは言った。
「中庸は徳の全てを治めて偏りの無い事、凡庸は徳を治めずして偏りなく不徳を重ねる事。つまりあなたは凡庸凡俗で詰まらない人間なのよ」
志田さんは言った。

「寝るよ」
僕は言った。
「明日はどうする?」

「そういう所だぞ」
ゴージャスな男が言った。
彼の手が志田さんを弄る。

僕は船室に戻る気にもならず甲板に出た。
休憩中の何人かの乗組員が夜の海を眺めていた。

「この船は何処へ行くんだろう?」
僕はアフリカ系アメリカ人の乗組員に尋ねた。
「大阪南港だけど」
アフリカ系の男は答えた。
「そうじゃない」
僕は言った。
「 ホワット?」
彼は言った。

この船は楽園に向かっているのだ。迷える魂を共連れして。生者も死者も乗せて、ウロボロスの蛇が追放された楽園に還ろうとしているのだ。

楽園において、神が食べることを許さなかった果実は二つある。ひとつは蛇がエバに渡した知識の果実。もうひとつは知識を付けた人間が食べてしまう事を恐れた生命の果実。
生命の果実があれば、蛇の千切られた四肢も元に戻る?

「その通り」と黒い田宮が言った。
「その通り」
と黒服の男が言った。会長と呼ばれる老人に侍従していた徒卒の一人だ。彼らは数人甲板に出て煙草を吸っていた。

「老人が未だに権力を有するのは我々が、その権力を守っているからだ。だがもし我々が老人の庇護を辞めたら?彼は単なる老人に過ぎない」

「君たちが老人の庇護を辞めたとしても、それは君たち以外の者が老人を庇護して、彼の恩恵に預かるだけだ」

「そうならないために老人から権力を簒奪するのだ」
男達は言った。

「俺たちはエデンに行くのだ」

食堂のウロボロスの蛇が言った。
「どうすれば楽園に戻る事が出来るだろう?人間に知識を与えても楽園は遠ざかるばかりだ」

「知識を持つ事が楽園にそぐわないからだと思うよ」
僕は言った。
「それでは楽園とは愚者の集まりになってしまうでは無いか」
ウロボロスの蛇は言った。
「それが楽園の一形態、という事さ」
僕は言った。
「食堂のR30の席に行ってご覧」
蛇は言った。

深夜の食堂にはもう誰も残っていなかった。煌びやかであった宴席は終了し、アフリカ系移民の乗組員達が、後片付けに勤しんでいた。

「R30の席は?」
僕はアフリカ系の乗組員に尋ねた。
「こちらですよ旦那」
彼は言った。
僕は売店でビールを買ってから着席した。
志田さんはもういない。
ゴージャスな男の船室に行ったのだろうか。黒い田宮がハイネケンの缶ビールを持って同席した。

「自由に乾杯」
彼は言った。
「道徳に」
僕は言って、互いの缶ビールで乾杯をした。

「君は何処へ消えたんだ」
僕は言った。
「何もかも嫌になってしまったんだ」
田宮は言った。
「俺の仕事は知ってる?」
「自動車整備だろ?」
「後輩が実は社長の親戚筋で給料が俺の倍あったんだ。年齢は倍も離れているのに。工場長に問い質したら、彼は幹部候補生だから仕方ないんだってさ。」
「幹部候補生なら仕方ないよ」
僕は言った。
田宮は一息にビールを飲んだ。彼のビール缶がパキパキと音を立てて凹んだ。

プシウ、と彼は二本目の缶を開けた。
「恋人が浮気をしていた」
「志田さんが?」
「会社の上司なんだって」
「まさか」
「さあね」

彼の二本目の缶ビールがパキパキと音を立てて、彼は飲み干した缶を置いた。

プシウ。
三本目。

「両親が借金をしていた。駅前の評判の良くないパチンコ屋に、夫婦揃って入り浸っていたんだって。我が家の資産は今やパチンコ屋の系列の悪質消費者金融の抵当に入っている」
黒い田宮は言った。

「初めて行った店の嬢が希死念慮に取り憑かれていて、俺たちは翌日夕方出港の旅券を買ったんだ」
「それでどうなった?」
「別に、それなりさ。嬢は相変わらず同じ仕事をしているし、俺も自動車整備の仕事を見つけた。嬢は新しい店のマネージャーと懇意になってマネージャーの高級マンションで共暮らし、俺は大阪ミナミの安いアパートでそれなりに暮らしているよ」

「君は志田さんの浮気も、両親の借金の理由も、後輩の給料も知らなければ良かったのだ」
「そうかな?」
彼は言った。
「後悔はしてないよ」
「それは後悔したくないだけだろう?」
僕は言った。
「目を瞑る事は出来なかったの?」
「目を瞑る?」
「志田さんや、両親の悪業に」
「自分が如何に間抜けか気付いてしまったのに?間抜けのままでいろと?」
「田宮、君が居なくなって志田さんは自殺したんだよ」
「君を誘ってだろう?」
「そう僕達は一緒に」

「この船は楽園に向かっている」
ウロボロスの蛇が言った。
「それは君の願望さ」
僕は言った。

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第八場「 神へ叛逆する話」

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嗚呼、神様ご勘弁下さい。お慈悲を!お慈悲を!と蛇は言いましたが、成らん成らんと神は仰いまして、蛇の四肢を天使達に掴ませて、まずは右の肩口から脇腹へと鋸を引くのでございました。
蛇は断末魔の悲鳴を上げて赦しを請いましたが神様はお許しになりませんでした。

と、このようにして蛇は手足を無くしたので御座います。

と、ウロボロスの蛇は言った。
「神様の事、恨んでる?」
田宮は尋ねた。
「以前はね、でも今は……」
「今は?」
「思慕」
「思慕?」
「……も過ぎて、耄碌したご老人には引退頂くのが世の為だと思っている」
「それは、復讐という事?」
「いや、愛」
蛇はエバの子供たちに語るのであった。

「神様に会ったらどうするの?」
「簀巻きにして海にでも放るさ」
蛇は言った。
「叛逆」
田宮は言った。
「愛だよ」
ウロボロスの蛇は言った。

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黒服の男達が会長を簀巻きにして運んでいた。

「君、助け給え」
会長は言った。
「もし助けてくれたら、幹部にしてあげるよ」
「幹部にしてくれたら、年収はあなたの何分の一になりますか?」
田宮は言った。
「八分の一くらいかな」
「たった八分の一?本当に幹部なんですか?あなたの年収と同じくらいになりませんか?」
「ならないよ」
老人は言った。
「どうして?沢山働くのに。富は公平に分配されるべきだ」
と、田宮は言った。
「どうして?何が不満だ?」
と、会長は言って、そのまま運ばれてしまった。
「彼らは会長をどうするんだろう?」
僕は言った。
「海に沈めてしまえば良いのさ」
田宮は言った。
「楽園に行くためには30億円の旅券が必要だ」
田宮は言った。
「それは何かの比喩?」
僕は尋ねた。

「いいや?君、資産は?」
「何もないよ」
僕は言った。
「俺もだ」
田宮は言った。

「私と結婚しない?」
先程話しかけれた夫人に再び声を掛けられた。
「どうしよう?」
僕は田宮に聞いた。
「してみれば?」
田宮は言った。
「無職だけど」
僕は言った。
「いいわ、あたしが稼ぐから」
彼女は言った。
「家事も出来ないけれど」
僕は言った。
「まあ、良いわ。それでも」
彼女は言った。
「楽園かな?」
僕は言った。
「考え方次第では」
田宮は言った。
「楽園かもね」
ウロボロスの蛇が言った。

展望デッキから黒服の男達の歓声が聞こえた。
老人が海に落とされたに違いない。

「助けないの?」
田宮が僕に尋ねた。
「助けない」
僕は言った。
「やったぞ!神は死んだ」
ウロボロスの蛇が言った。蛇に手足が生えて、それは僕の知る田宮の姿になった。
「君は田宮じゃないか」
「そうだよ、最初から」
田宮は言った。
黒い田宮は消えていた。
「志田さんに会わないの?」
「どうして?」

「ウミヘビがいるぞ!」
甲板の人々が口々に叫んだ。
「神はウミヘビになったのだ」
田宮は言った。

————

第九場「帰還」

————-

深夜フェリーは翌朝に大阪南港に着港した。
黝い未明の港にゾロゾロと乗客は降りた。

志田さんはゴージャスな男が運転する高級車で、彼のガールフレンドと一緒に颯爽と消えた。

黒服の男達は黒服を脱ぎ捨てて、フェリーの売店で買ったお土産Tシャツを来ていた。彼らのTシャツには揃って「日本」と書かれている。
「君たちのお陰で俺たちは自由になった」
男達から求められて僕は彼らと抱擁し握手をした。
「頑張って」
僕は言った。
「君もね」
彼らは言った。

婚活パーティに参加した男女達はツアーバスに乗って観光に出掛けた。
午前中は大阪府庁を見学し、昼はコリアンタウンでランチを。午後は住之江のボートレースを見学してから夕方の便で志布志に戻る事になっているそうだ。
「さようなら」
彼らは僕達に手を振った。
「さようなら」
僕達も彼らに手を振った。

「俺は船に残るけど君はどうする?」
田宮が僕に尋ねた。
「とりあえずファミレスのモーニングで時間を潰して、昼の便で家に帰るつもり」
僕は答えた。
「結婚してくれるの?」
夫人が言った。

「楽園かな?」
田宮は言った。
「考え方次第では」
僕は言った。

(了)

短編小説「 ウロボロス」(御首了一)



梗概「(短編小説)ウロボロス」
僕は洋上にいる。友人である志田さんと一緒に志布志から出港したフェリーで大阪南港に向かう最中であった。彼女は行方不明になった恋人の足取りを追っていたが、手がかりになるようなものは何も無かった。奇しくも船上では志布志行政が主宰するエンジェルプロジェクトによる婚活パーティが開かれていた。志田さんは次々男達から声を掛けられるが、軒並みそれを断り続けた。そんな折に船内では幽霊目撃騒ぎが起こる。
船に幽霊がいる。その幽霊はいなくなった志田さんの恋人、田宮であった。フェリーのアトリウムの壁画に描かれたウロボロスの蛇が、このフェリーは死者たちを乗せて楽園に向かっていると伝える。楽園を追放された蛇が、再び楽園に戻ろうとしているのであった。
フェリーに乗った人々は蛇の持つ知識の実の力に寄って次々真実へと辿り着く。だが、それで幸せになる人々はは居ないようだ。
真実に気付いた人々は無事に目的地である大阪南港に着き新たな人生を送る。田宮はフェリーに残り、僕はまた別の航路から家路に向かう。

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