日本的新人類と旧人類
ここ数日、noteの投稿ページの反応が非常に遅くなっていたが、今日は快適だ。さてRIASEC
に引き続き、人気の出そうでない記事を残そう。これまた綾紫が******と名乗っていた頃の文書を少し、加筆したものだ。因みに表はやむを得ず図として表現している。また1人称を「筆者」と称しているが、現在の「綾紫」に統一せず掲載する。
性格を分析する考え方にはエニアグラム(enneagram)やMBTI等があるが、対象となる人が類型論Aではどのタイプかすぐ分かるのに、類型論Bではなかなか分からない、といった事態は珍しいことではない。日本的な新人類と旧人類の分析を通じ、そのようなケースがあることを指摘しよう。なおここでの「新人類」はバブル期に就職適齢期を迎えた者であり、本稿執筆現在、定年を意識する年齢に差し掛かっている。このため加齢による心境の変化はあり得るが、考慮はしていない事を申し添えて置く。
日本的新人類(大体1960年代以降生まれ)の平均的性格は軽薄な他律性、知的関心の低さ、礼儀作法や他人への気配りの欠如、仕事に対し余り頑張らない無責任振り等で形容できるだろうが、これをエニアグラムやMBTIに当て嵌めてもスパッとした答えは出ない。エニアグラムでは日本人は押しなべてタイプ6的とされているから、タイプ6の中でも比較的軽い感じのする6w7と考える事も一応可能かもしれない。だがタイプ6は少なくとも当人の主観のレベルでは責任感の強いタイプである上、神経質で緊張感のある側面は日本的新人類とは似ていない。MBTIに即して考えれば新人類/旧人類の差はJ/Pにそっくりであるが、残りの特性は日本人全体として(欧米に比べた場合の個人的印象では)I、S、F寄りであり、そうすると寧ろ新人類・旧人類間の類似性が際立って来る。類似性を摘出するならばMBTIは好適だが、違いを明らかにするには不足。そこでNew Personality Self-Portrait(J.M.OldhamとL.B.Morris)[1]の登場である。これは「健康な人のタイプは、DSM-IIIで述べられている精神的な障害のタイプが極端でない水準に留まったものである」という考え方に基づく14類型だ。正常なタイプの呼称とその病的誇張は表1の通り。因みに筆者の自己診断タイプはSolitaryだ。
そこで先ず、消去法でタイプを絞ろう。そうすると日本的新人類としてありそうでないタイプ、即ち良心的なConscientiousやVigilantやSerious、自己犠牲的なSelf-sacrificing、心底から独居的なIdiosyncraticやSolitaryは除ける。活発なAggressiveやAdventurousは加えるべきタイプと考える人もいるかも知れぬが、もしそうならばイチロー・松井(野球)のような広い世界で勝負せんと志す者がもっと存在して然るべきだからやはり除く。江崎玲於奈や利根川進、GaN系青色LEDを開発した中村修二など、そういう傾向を有する者は以前の世代にも常に存在するが、挑戦への意欲は必ずしも時代と共に活発化しているとは思えない。ここまでで候補はSelf-confident・Devoted・Dramatic・Sensitive・Leisurely・Mercurialの6タイプに絞れる。更に絞って1つに特定出来るだろうか。
さて、日本的新人類は無知、無教養、無作法、無感動、無規律、無節操、その他諸々の"無OX主義"で形容出来ようが、その"無"の根底には意外にも、1匹の獣として身の回りの実生活から縁遠い事へ関与しない徹底した合理主義がある。旧人類は新人類の根底の合理性を見抜けぬから、寧ろ自分達が合理的とさえ思っている。要するに日本的新人類は必ずしもあからさまに反抗的でも無軌道でもなく、Freud流に言えば執行原理と無縁、快楽原理には無抵抗だが、それでも現実原理には忠実に生きる。そうすると先ず、自分自身に対する幻夢的な可能性を抱いており、しかも仕事志向のSelf-confidentは除ける。日本的新人類はちゃっかり者だが大志は抱かぬからだ。Devotedも除ける。Devotedは周囲と密着したがる余り自己犠牲を払うタイプだが、日本的新人類の理想は正反対の、困った時にはするりと抜け出す寄生虫だからだ。Sensitiveは対人面で敏感な余り引っ込み思案になるタイプであり、決まり切った日常に浸る所だけは似ているが寧ろそれ故に旧人類の候補として挙げたいタイプだ。Dramaticも自己統制の甘さや表面的な派手さに於いて似ているだけで、他人に深く一体化したがる所では全く違う。Mercurialは気分屋で、プロの心理学者は最初に挙げるだろう。その病的誇張がBorderline Personality Disorderだからだ。しかし筆者には、日本的新人類がMercurial特有の激しさを有するとは思えない。Mercurialの特徴を筆者の下手糞な語学力で抄訳すると以下のようである。
★いつも誰かとの浪漫的な関係の中にいたがる。
★どんな人間関係も情熱的で鋭い密着感として体験する。自他の間に取るに足らない軽い要素はない。
★感じた事をそのまま表現する。情緒面では活発で、反応も速く、人生の全てを心情的に見る。
★遠慮せず、自発的で快楽主義的で、危険に無頓着。
★エネルギーの高さが特徴である。活き活きとしていて創造的、駆け回っていて首を突っ込む。主導権を握る事も多く、他人を活動に巻き込む。
★想像的で好奇心に満ち溢れている。見慣れぬ文化や価値観に飛び込む。
★厳しい現実は見ない振り。
確かにきちんとした信頼に値する人物像ではない。しかし人間関係への深入りや未体験の世界へ臆せず飛び込む活発さ、これに起因した主導性は、日本的新人類の最も苦手とする処である。ただMercurialは新人類界の文化的リーダーになる可能性があり、それ故誤って多数派と解釈されているかも知れない。最後に残ったLeisurelyはどうか。LeisurelyはPassive-Aggressiveに相当するタイプで、またまたその特徴を筆者の下手糞な語学力で抄訳すると以下のようである。
★個人の安楽や幸福の追求に価値を置き、守る。
★やるべきことはやるがそれ以上のことはしない。
★枠を超えた要求には抵抗する。
★時間に対し強迫的ではなく、安易で楽観的。
★自分と自分の生活を受け入れ、権威には圧倒されない。
★人並みに幸せだと思っている。
★自由でありたいが、それにより関係を壊したくない。
上に挙げた項目は誰でも抱きそうな願望ばかりだが、そういう平凡な要素だけで記述出来てしまう所が安易以外の何者でもない日本的新人類にぴったりだ。平凡という面では日本的旧人類もLeisurely的である。しかし平凡な幸せは何らかの自己犠牲に対する対価として、但し自己犠牲により具体的な成果が出たか否かは意識しないから寧ろ同情として貰うものと思っているのが旧人類、生まれながらにして追求する権利がある、と思っているのが新人類。そしてエニアグラムもMBTIも、ここまで日本的新人類を鋭く描き切ってはいない。
それでは日本的旧人類はSensitiveだろうか。一面似ているがそればかりでもない気がする。New Personality Self-Portraitに基づき、日本的新人類の典型と見做したLeisurely以外の13タイプから、似ていないタイプを削る。筆者は先ずConscientiousを除外する。Conscientiousは詳細に強い完全主義者だから日本的旧人類の典型のようだが、そういう解釈は日本的旧人類が自身を正当化する場合に現れる大本営型の発言であり、寧ろConscientiousは日本的旧人類の中にあっても煙たがられるタイプである。但し日本的旧人類は新人類と異なり、煙たいタイプを表面的には尊敬する。この違いは後の参考情報になりそうだ。非常に活発なAggressiveやAdventurous、感情に於いて激しいDramaticやMercurial、自分の世界に浸り続ける孤独なIdiosyncraticやSolitaryも除外出来る。Self-confidentは働き者だがConscientiousのような堅物でもAggressiveのような権力亡者でもなく、組織を巧く泳いで出世する処世術の達人である。だから日本的旧人類も新人類も、反発を密かに抱きながら「ああならんと生きていけんのかな~」と眺めるタイプ。よって除外。ここで残るはDevoted・Vigilant・Sensitive・Self-sacrificing・Seriousの5タイプだ。Devotedは群居的、Vigilantは外界に対し悪を投影している為非常に警戒的、Sensitiveは敏感故に内気で保守的、Self-sacrificingは素朴でサービス志向、Seriousはまじめで地に足が着いている。全てある程度日本的旧人類の特徴を現しており、しかもSensitiveは半歩リードと思えるが、どうもLeisurelyを見て日本的新人類の典型と思った時の如き目から鱗が落ちる衝撃は感じられない。よってNew Personality Self-Portraitと日本的新人類との相性は良いが、旧人類との相性は悪い。
そこでNew Personality Self-Portraitに基づくこれ以上の追究は諦め、考え方の基準を性格の発見(増永篤彦)[2]に移そう。性格の発見に於ける分類基準は先ず、人間の情緒的・行動的・知性的側面の強弱。これはSheldonの内胚葉型・中胚葉型・外胚葉型に相当。序列の組み合わせで6タイプが出来る。更にKretschmerの躁鬱気質・分裂気質に相当する開放型・内閉型と言う観点を加え、12タイプを導き出す。SheldonとKretschmerはしばしば同一のタイプ論を考え出したと見做されるが、全く別個であると断定した所に増永篤彦の独創性がある。表2にタイプを示す。
性格の発見によれば情緒派の特徴は、生理体系が心理体系を常に上回っている為、感受性に対する行動的・知的な抵抗力に於いて弱い点にある。その分だけ情緒派は環境に依存した人生の観客であり、気が進むか進まぬかが情緒派にとっての決断の基準になる。行動派は行動を爽快に感ずる生理性を有している為、人生に引き摺られるよりも人生を引き摺る気概を持ち、「空論より先ず実行」「論より証拠」を金言としている。そしてもし何処かへ進むならば単純率直な最短コースを選ばねばならい、と信じている。知性派は人生の演出家であり、観客の前へ大きく身を乗り出していながら、その姿は見えない。人生に努力は必要だが、もっと大事なのは岩を砕こうとするような愚かな真似ではなく、努力すべき方向を探し当てる知恵と才覚である。知性派は灯台の如く、限りなく遠い目標を照らしている。そしてその足許は暗い。
開放型・内閉型の区別は情緒派・行動派・知性派の区別に比べ遥かに厄介である。性格の発見に於けるその解説も考え方の過程を省いた単なる結果の羅列に過ぎない。だからここでは開放型・内閉型=漠然と大きく広がった感じと狭く厳密な感じの違い、としておこう。MBTIのJ/Pやエニアグラムの"本能のサブタイプ"のセクシャルとソーシャルは近いかもしれない。なお、性格の発見では個別タイプの考察に於いて文学や絵画に於ける作風が極めて重視されている。この態度は、Jungが外向/内向の概念の根拠を哲学論争等に現れた認識論的な対立に求めた発想法と似ている。従って現実の人間との乖離の可能性も否定出来ぬが、とにかく、表3・4に文学と絵画に於ける実例を示そう。
ここまで来て実は読者を裏切る事になるのだが、性格の発見に於ける12タイプの描写は、必ずしもその構成要素(情緒・行動・知性の序列、他方では開放型と内閉型の違い)から単純至極に演繹可能なものではない。そうした困った傾向は心理学ではどうやら不可避らしく、例えばMBTIに於けるNFタイプ(ENFJ・ENFP・INFJ・INFP)は定義に違わぬ直観的人間に見えるが、NTタイプ(ENTJ・ENTP・INTJ・INTP)は必ずしも直観的ではなく、寧ろSTタイプ(ESTJ・ESTP・ISTJ・ISTP)の思考の部分が先鋭化したタイプの如くに見える。エニアグラムに於ける中枢の強弱と9つのタイプとの関係や、9つのタイプとウィングを考慮した18のタイプの関係にもそうした非論理性がある。従って日本的旧人類は情緒・行動・知性の何れを最も重要視しているであろうか、と言った基本的な問いに答えながら順序立てて結論に迫る事が出来ない。それで取り敢えず情緒等の基本的要素は忘れて日本的旧人類に似たタイプが性格の発見で描かれていないだろうか、と探すと、実はYタイプ(知性的情緒派開放型)が異様なまでに似ている。Yタイプの特徴は沢山あるが主なものを挙げると以下の如くである。
★自己犠牲感は自分の「誠意」という立場で倫理化される。それに対する漠然とした社会的報酬を期待している人生への甘さがある。・・・独特な社会を作り上げ、親分子分的な倫理体系を構成する傾向がある。近代的な価値体系による組織化ではなく、封建的情緒的な組織になり易い。
★自分だけの特別扱い、「顔」の効く事を特に期待している。
★謙虚さを美徳の第一とし、過剰、華美、豪華絢爛に対しては、倫理的不安乃至背徳を予想している。質素、生真面目、・・・人生の旨としている。
★親、目上、師等については、不満を抱く事はあっても、盲目的な、先験的な帰順精神を持った、封建的秩序の愛好者である。
★環境に対して深刻的であるが、人生に対しては根本的な楽天家。環境条件の分析には悲観的な態度(自分の幻想的な期待に対する防衛機構)をとるが、先行きの見通しには、結果的に楽観派に属している。
筆者が余計な考察を加えると性格の発見の魅力である迫力(独自の思考を為す場合にのみ感じられる)を殺ぐのでくどくどとは言わぬが、上記の傾向が日本人の国民性そのものであり、中でも旧人類には濃厚に存在するのは明らかだ。特に「自己犠牲感」は注目すべき言葉である。即ち日本的旧人類は必ずしも詳細に強い完全主義者ではないが、そのような傾向のある者に対し表面的ではあるにしても敬意を払う。本来、煙たくてたまらないのだが、そこを我慢すれば己の成したマイナスを許して貰えないか、と言う淡い期待感を持つ。何事も我慢、我慢である。ここで見逃せぬ項目をもう1つ、追加する。
★生活形態に於ける完全な充足を避ける。奢りに対する社会的、運命的懲罰を恐れる心理がある。突き詰めて行くと、常に現在に対して不満を感ずる贅沢な態度(知足安分ではない)がそれを支える事になり、不満を感ずる事で安心していると言う矛盾した心理が成立する。
日本的旧人類は自己犠牲を厭わぬが、それはより大きい目標を達成せんが為のコンバージェントな自己犠牲ではなく、満たされてしまえばそこから不幸が始まる様な不安感を避けんが為のダイバージェントな自己犠牲である。従って日本的旧人類の自己犠牲は、物事を達成する能力には必ずしも直結しない。自己犠牲が頑張る習慣として定着していれば、多少有利かもしれないが。日本的旧人類はその"多少"の部分を誰の目にも明白な既成の現実だと言いくるめて、自己犠牲感のない者を劣等な人種と見做して馬鹿にする。これに対し、寄生虫式合理主義が貫徹している日本的新人類は旧人類の自己犠牲の目標の曖昧さを鋭く見抜いて赤裸々に攻撃する。これが日本的な新旧人類の対立である。
性格の発見で日本的新人類の位置付けを行うと如何であろうか。日本的新人類はYタイプの側面も若干有するが、U・Wタイプにも似ている。Uタイプの特徴を抜粋すると以下の通り。
★企画的な独創性に優れ、奔放な空想力を持ち、雰囲気的なもの、気分的なものに対して理解、把握力に富んでいる。抽象的な問題に対してはヒント屋であるが・・・その場の刹那的な小利巧さやずるいやり方を、賢いやり方だと考える傾向がある。
★抽象的、思考的、理論的厳密さを欠き、比較や分析に頼らず、直観的情緒的に、好き嫌いや、気の進み具合で態度を決定して行こうとする為に、けじめや締めくくりのない状況を招き易い。
★・・・服装とか装飾に関しては敏感であり、自他共にうるさい体裁屋である。
それからWタイプの特徴を抜粋すると以下の通り。
★自ら発案、企画して行動するよりも、依存的、指示的に随順して行く。・・・自分を受身に置いた立場から反応して行こうとする。
★自主的な社交態度はないが、受けて立つ事には、常に積極的である。自己犠牲の心理はない。社会や環境の流れに巻き込まれて、共に犠牲になる事はしない。何時の間にか自分だけはスルリと抜け出る柔軟性を持っている。
確かに似ている。しかしU・Wタイプがその全体像として日本的新人類を現しているとは思えない。結局日本的新人類を描き切る力の面では、New Personality Self-Portraitに軍配が上がる。
以上、日本的な新人類と旧人類の性格が既存の性格心理学に現れていないか探った。そして新人類と旧人類には異なる性格記述の体系を適用するのが好適であることを示した。
[1]J.M.OldhamとL.B.Morris、New Personality Self-Portrait。
[2]増永篤彦、性格の発見。