身体は全部知っている、LUUPでスーンなど
上司不在の一週間。週の前半は「おい!これお前の仕事だろ!ふざけんな!」といった仕事がさらに上の上司からふってきて、鬼オコだった。が結局めんどくさいだけでなんとかできる。
・めんどくさいことをやらされる(やればできることは自分でもわかってる)=怒り
・どうすればいいかわからないことをやらされる(依頼者もどんなアウトプットを求めてるのかわかってない)=恐怖&不安
そういう仕組みで気分が振れるんだなと改めて理解。
今週はずーっと生理がきそうだけど来ない。とくに腹がドーンと重くて、でもヤツはこない。待ち人は来ないが、ロキソニンは必要。なぐらいおなかが痛いという一週間だった。
「もしかして…」と不安になるような行為はトーンとしてないので、そういう方面での不安はないけれど、若武者だった頃は毎月「もしかして…」ドッキドキをやってたんだなぁと思う。若いってリスキーなことに耐えられる体力があるってことなんだなと思う。
昨日は仕事が終わって、カラダのモヤモヤを解消するためにLUUPでちょっとだけブラブラしようと出かけた。2時間みっちり走った。走ることだけを目的にLUUPに乗ってる人って結構いるのではないだろうか。
あの独特のスーンって感じがいいのだ。ブーンではなくスーン。ほどよいスピード感。そのスピードで~ぇ。
なんとなーくSAKEROCKを聞いていた。ちなみにSAKEROCKのことはデビューインストアイベントに行ったときから好きだった。当時の彼氏との共通の大好きなもののひとつ。しかしながら40を超えるとそんなこともたまに思い出して、そういやそうだったな。ぐらいの感慨になる。握手してもらったときの感動も、何度も聞いた曲も、解散を聞いた時のショックも。若き日々のBGMを聞いて、その当時の恋を思い出して胸がミンチになりそう!!みたいなことはない。ハイハイ、そんなことあったね。だ。
なので、感傷的になりたいとかそういうわけではなく、なんとなーく聞いていたのだ。昨日。永福町や浜田山の住宅街を走りながら。
そしてよく聞いていた当時のようにトロンボーンにあわせて口笛を意識せず吹いた。
そうしたら。帰ってきた。当時の恋人と一緒に口笛を吹きながら、駅まで歩いたうねったゆるい坂道が。付き合いだしてから3カ月で、冬で、まだお互いのことをよく知ってはいなくて、お互い普通に好きで、これから出かけるからルンルンだけど、夜が来て、明日の朝には始発で私は東京に帰るから、寂しさに打ちのめされるのはわかってるんだけど、でも今は一緒にいるから楽しいって思わなきゃ!口には出さないけどお互いそう思っている。
彼は私のからかい方が少しわかってきて、でも熟知しているわけではないから、遠慮しながらからかってきて、絶妙にもどかしく、切ない距離感がそこにはあって。みたいなこと。
そういうこと、あの日のあの坂道のすべて。口笛を吹いたら、帰ってきた。
身体を使うっていうのはこういうことか。頭で思い出したのではない、行為によっての揺り戻しのフレッシュさにくらくらした。
身体は記憶装置でこのスイッチを押せばこうなる、みたいなこと。ははぁそういうことか。と。
ちなみに当時はしょっちゅう二人でSAKEROCK口笛をやっていたし、その駅から彼の家までの坂道は何十回と一緒に歩いたし。(当然一人で泣きながら裸足で走るなんていうお決まりのこともした)
だけど口笛が誘うのは、冬の日のそのシーンだけ。たぶんその時が、あの恋愛の絶頂だったってことなんだと思う。
平凡な日々に絶頂はあり、20年ぐらいあれば記憶は廃れる。
でもたまにこうやって帰ってくる。それは幸せなことなのだと思う。
という当時の彼が今の主人です、なんてことはなくてその後もうドロドロの生きるか死ぬかの大泥沼恋愛に発展して最後はへどろの中で終わる恋だし、その後10年ほど引きずりまくって彼が住んでいた町の漢字一文字みただけでむせび泣くみたいな日々が続くのだが、そんな10年のことは置いておいて、あの冬の日の坂道、あれがあの恋のハイライトで、その恋のハイライトという思い出を持ってて良かったな、と単純に思う。
これが年の功、橋爪功ってもんかしら。