映画『オッペンハイマー』を見た感想

 どうもみなさんこんにちは。ひかるです。
 先日、といっても結構前になりますが、『オッペンハイマー』を見てきました。私はなんだかんだ、クリストファー・ノーラン監督のファンなので、「これは観なくては!」と思い、上映中に映画館に行ってきました。クリストファー・ノーラン監督は、『メメント』や『ダークナイト』、『TENET』で大変お世話(?)になったのでした。

 さて、この映画は、やはり日本人にとってとても難しい作品だったと思います。原子爆弾を落とされた国の国民として、この映画をどういう態度で観ればいいのか、分からなかったと思います。かくいう僕もそうでした。監督はどういう意図や気持ちでこの映画を作ったのだろう。そしてそれを世界中に公開するということは、何を意味するんだろう、と。

 映画を観た一つの感想として、クリストファー・ノーラン監督は決してオッペンハイマー自身を称賛するために映画を作ったのではないだろうと思いました。たぶん作品を見た人全員がそう感じるでしょう。そのことが大事な意味合いを持つとも僕は思っています。

 僕は、この映画が以下のことを問おうとしているのだと感じました

オッペンハイマーは、原子爆弾を作った偉大な科学者なのか。それとも原子爆弾を作ってしまった愚かな男だったのか。

 そしてこの作品は最終的に、上の問いに対する答えを提示したのだと思います。以下、僕の感想及び考察を記載しますので、まだ見ていない人はここまでにしてもらえればと思います。


まずは感想

 最初に僕はこの作品を見た感想を述べたいと思います。「面白かった」です。それに『オッペンハイマー』を見たことで少なからず心が揺さぶられたとも思います。

 この映画は大まかに2つのパートに分かれます。1つは「オッペンハイマーの生涯を描くと同時に、原子爆弾を作るまでの道筋を描くパート」です。もう1つは「オッペンハイマーの政敵が彼を追い詰めようとするパート」です。で、ややこしいのが、この2つのパートが同時並行的に進行するのです。時間軸的には1つ目が過去で、2つ目が現在寄り(と言っても、我々視聴者の生きる時代よりは前)なのですが、これらが交互に映し出されているので、正直視聴者は混乱してしまいます。「あれ、このシーンって、オッペンハイマーが原子爆弾を作る前の話だっけ? それとも後だっけ?」と。ここらへんはクリストファー・ノーラン監督らしい演出とも言えますが、ちょっとややこしかったですね。

 で、1つ目のパートである、「オッペンハイマーの生涯を描くと同時に、原子爆弾を作るまでの道筋を描くパート」は文句なしの面白さだったと思います。原子爆弾の父と呼ばれる科学者の半生を描いており、オッペンハイマーの人となりがなんとなくわかってきます。ただ、面白いことに、人となりが分かるのはあくまで「なんとなく」なんですよね。なぜならこの映画はオッペンハイマーの自伝的映画でありながら、彼の内面を描く描写は極めて少なかったからです。その行動や発言から、ぼんやりと彼の性格や思想を推し量るしかありません。そしてこれが「監督がオッペンハイマーを好きではないと僕が思う理由」なんですよね。好きで描いたのであれば、もう少し内面に踏み込んだ描写をしただろうなーと思うのです。つまり、監督はオッペンハイマーに憑依していない。あくまで一人の人物として描こうとしているのでした。
 みんなで原子爆弾を作ろうとするシーンは、まあ実際にはとても恐ろしいことなんですけど、映画を見ている限りはすごくワクワクしてしまいますし、何より「トリニティ実験」が成功したときの盛り上がりはすごいものでした。アメリカは他のどの国よりも先に原子爆弾を作りあげたのです。それに歓喜する人々(オッペンハイマーを含めた研究者たち、軍人、彼らを支えた家族)を見ていると、感動的だとさえ思います。
 そして映画を観た日本人が最も緊張であろう、「原子爆弾を日本に落とすと決めたシーン」がありました。当初、原子爆弾を投下する予定だったドイツは、ヒトラーが自殺し、ナチス政権が崩壊したので、急きょ消去法で日本が選ばれたのでした。「え? 日本の原爆投下ってこんな感じで決まったの?」と思いましたよね。どこか拍子抜けしたような、複雑な気持ちになります。
 実際に日本に原子爆弾が落とされるシーンは描かれていませんでした。なぜなら、オッペンハイマー自身は直接それに関わっていないからです。電話か何かで状況を知って、「ああ、落ちたのか…」という表情を浮かべていました。原爆の父は、このようにして日本への爆弾投下を知ったんですね。
 こういった一連のシーンは、クリストファー・ノーラン監督の技量によって、観客を退屈させずに、緊張感を孕んだ映像で表現されていたので、僕もつい画面に釘付けになってしまいました。

 総じて映画は「面白いもの」として仕上がっていたと思います。ただ、やはり三時間という尺は少し長すぎたかな、とも感じました。特に、オッペンハイマーの政敵が彼を陥れようとするパートは、もうちょっと短くても良かった気がします。
 さて、感想はこれくらいにして、次からこの映画が伝えようとしていることを読み解いていきます。

物語の重要なキーとなる「湖畔での会話」

 さて、この作中で何度か触れられる、研究所の湖畔でアインシュタインとオッペンハイマーが会話したシーンについてです。これは非常に重要なシーンだと僕は思います。映画内でも、「このとき、アインシュタインとオッペンハイマーはいったいどんな会話をしたのか?」ということが焦点になっていました。そして実際、ラストでそれが明かされるわけです。
 ちなみに、この湖畔での会話は、既にオッペンハイマーが原子爆弾を作り、一躍有名になった後です。ご認識とは思いますが念の為。
 この「湖畔での会話」の重要性を理解するために、会話内容をざっくり整理してみたいと思います。ちなみに私の記憶をたぐって記載するので、細かいところは違っているかもしれませんが、お許しください。

  1. アインシュタインが「賞とは、与えられるもののためではなく、与えるものたちのために存在する」とオッペンハイマーに言う

  2. オッペンハイマーが湖を見つめながら、「私は世界を変えてしまった」とアインシュタインに言う

  3. アインシュタインは、その発言を受けて、憤慨した表情で湖畔を去る

 上記がラストのシーンです。ラストなので、映画にとっても重要な場面であるはずです。
 まず1について。アインシュタインはどうしてこんなことを言ったのでしょう? 理由は簡単です。アインシュタインは、オッペンハイマーのやったことに怒っているのです。やったこととはつまり、原子爆弾を作ったことです。 アインシュタインの言いたいことはつまり、こうです。
「お前(オッペンハイマー)は原子爆弾を作ったことで、偉大な科学者として周りから称賛されるだろう。名誉ある賞さえ送られるだろう。しかし、その賞賛はお前自身に対して送られるものではない。送るものたちが納得するためにそうしているのだ。だから決して、自分が認められたとか、正しいことをやったんだとか、驕り高ぶるんじゃないぞ」と。
 続いて、2でオッペンハイマーが言った言葉についてです。「私は世界を変えてしまった」という趣旨のことを言っています。このときのオッペンハイマーの表情ですが、明らかに動揺し、心が激しく揺らいでいるのがわかります。つまり、オッペンハイマーは「世界を変えるつもりなんてなかったけど、意図せず変えてしまった、どうしよう」ということを言っているんです。
 オッペンハイマーが原子爆弾を作った理由は、作中でも何度か言及されていますが、「世界を救うため」でした。原子爆弾という強力な兵器を作ることで、世界のパワーバランスを安定させ、結果的に世界に平和をもたらす、ということです。
 しかし、実際に世界は平和になったでしょうか? 人々は幸せに暮らしているでしょうか?
 とんでもない。世界はより不安定になりました。各国はオッペンハイマーのマネをして原子爆弾を次々に作っていきます。その爆弾をお互いの首に突きつけ、いつでも世界を終わらせられるぞと脅し合っています。原子爆弾はおろか、より強力な水素爆弾まで作られる始末です。
 オッペンハイマーは「こんなつもりじゃなかった…」と泣き言を言っているのです。
 もうおわかりだと思いますが、3でアインシュタインが憤慨して湖畔を立ち去った理由は明らかです。アインシュタインは幻滅していたのでした。「お前はそんなことも分からずに、原子爆弾なんていうものを作ったのか」と。「お前はわかっているべきだった。そんなものを作ったところで、世界は安定しないし、平和にもならない。仮にお前が作らなくても、どこかの国が作っていただろう。そしていずれにせよ、世界は不安定になっていただろう。しかし、お前はそのことを理解した上で、それでも原子爆弾を作ったんじゃなかったのか」と。
 オッペンハイマーの泣き言と、それを聞いて無言で立ち去るアインシュタインが、この映画が最も描きたかったことなんじゃないかと思うのです。

オッペンハイマーは原子爆弾を作ったのを後悔していたのか?

 結論として、後悔はしていないと思います。「後悔しているっぽい」描写は随所に見受けられるのですが、直接「作らなければよかった」と発言していたシーンはなかったと思います(たぶん…)。
 例えば、トルーマン大統領との会話で、「私の手は血で濡れています」と言っていたかと思います。これは後悔しているとも取れる発言ですが、明確に「作るべきではなかった」と言っているわけではありません。これはどちらかと言うと、「覚悟はしていたけど、人の死がこんなにも重くのしかかるとは…」と漏らしているシーンなんだと思います。もし本当に後悔しているんだったら、トルーマン大統領に、水素爆弾の製造を中止するよう熱心に打診するはずですから(史実ではどうだったのかはわかりませんが)。
 そして、前述の湖畔での会話ですが、これも「原子爆弾を作らなきゃ良かった」という意味の発言はしていません。どちらかと言うと、「原子爆弾を作ることで、こんな風に世界を変えるとは思わなかった…トホホ」という感じです。それを友人のアインシュタインに漏らしているのです。
 正直、日本人にしてみれば「もっと後悔してほしいし、償って欲しい」と思うかもしれません。でもオッペンハイマーは、原子爆弾を作ったことを悔いている様子はなく、あくまで「ある程度予想はしていたけど、それでもここまでとは…」と打ちひしがれているだけのようでした。

この映画の結論

 冒頭で「オッペンハイマーは、原子爆弾を作った偉大な科学者なのか。それとも原子爆弾を作ってしまった愚かな男だったのか」という問いについて、この映画は下記のような答えを出したのだと思います。

オッペンハイマーは原子爆弾を作った偉大な科学者である。しかし同時に、原子爆弾を作ることによる影響や意味合いを理解していなかった、愚かな男でもあった。

 クリストファー・ノーラン監督はこれを伝えたかったのではないでしょうか。

 みなさんは『オッペンハイマー』を視聴して、どんな感想を抱きましたでしょうか? 

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