
1月5日 「撮られる」って、自分を知ること
これは、ハマるわ。ハマってしまうわ。今日は、人生で二度目のPhoto shootingだった。誰かに写真を撮ってもらうというのは、本当にたのしい。実は、写真を撮ってもらうのは人生を通してずっと苦手なのだが、本当は撮ってもらいたいのだ。段々、写るのに慣れてきて、可愛いじゃん、と思えるようになってくる。その感覚が好きだ。今日は感動したことがいくつもあった。静かに感動している。まず、どういう風に見られたい?優しい感じ?謎な感じ?エキゾチックな感じ?とカメラマンの友人が聞いてくれたこと。それによって、自分はこの写真を通してどんな人に見られたいのか、つまり、自分の醸し出していたい雰囲気についてはっきりと考えることになった。それは、自分自身の主観の目をすり抜けて、客観的な鳥の目から、自分の出したい雰囲気を想像せざるを得なくなったということだ。レンズ越しに、問いかけられたから。考えた。なんか、考えているようで、はじめてちゃんと考えた気がする。デキる感じ?信頼できそうな感じ?それとも・・・。わたしは、その問いかけに対して、こんなふうに答えていた。「うーん。なんか、わたしはいかにもアーティスト写真、みたいな、アーティストっぽい感じは似合わないような気がするんだよね。」「もっと、ナチュラルというか、自然な感じ…」「目がしっかり写ってる感じ」「笑ったり、外側に散らばっている感じじゃなくて、演劇をやっているときみたいな、もっと深く本質を見ているような感じ…」と。そしてカメラマンの彼は言った。「じゃあ、本質っぽい顔してみて」いや、むずーーーっ(笑)!!自分で言っておきながら、そういう雰囲気を出そうとする、表情をつくろうとするのは、やはりムズいのだ。トライしながら、七五三の写真を撮られている女の子状態に、口をムゴムゴさせているわたし。すると彼はちがう言葉でリクエストしてくれた。「カメラのレンズのさ、奥の奥を通りぬけて、俺の背中の後ろの方を見てみて」おお。やってみよう。やってみるが、ムズい。…あれ?なんか、できたかも。「視力検査の、眼圧はかるときの、あの気球を見てる感じ」「あ、気球見えた!いま、気球見えました!」そんな感じで、ちょっとずつ、キメ顔ではなく、でも普通の顔でもなく、レンズと交流しているときの表情がだんだんできるようになってきた気がする。それを感じたとき、ちょっと、楽しかった。レンズの奥を見ようとしながら、フワっとした。舞台でもそうだけれど、見られているという自意識を薄くして、そこでほんとうに“生きる”のって、難しい。でも、すごくおもしろい。この、克服していく感じが、まさに、我々現代人が目指していきたい方向じゃないかなって、思う。左脳から、右脳へ。エゴから、大元へ。自意識から、無意識へ。自然の道具となる。自然と一体になる。そうすれば、なんにもこわくない。すごく楽ちん。そんな感覚を、目指している。ちょっとずつ、思い出している。
写真を撮られるって、受動的ではなくてすごく能動的な行動なんだというのは、前から薄々感じてはいたが、今日は、本当にそういうことなんだなと感じた。なんとなくの感覚でできてまう人もたくさんいると思うのだけれど、わたしみたいな撮られ慣れていないタイプの人は、とりあえず硬直する感じになってしまうかもしれない。でもそこから、自然体になっていくには、やっぱり自分がどんなエネルギーを出していたいか?どんな雰囲気を感じてもらいたいか?この写真を見る人の立場に立って、一度考えてみると、能動的なエネルギーが湧いてくる。なにより、この「撮られる」プロセスを通して、自分自身の外側から見られたい雰囲気について、本来の自分のエネルギーについて、客観的に考えることができる。それが、すごく面白いと思った。そこに向き合わさせる写真というものがすごく面白いし、カメラマンさんってすごいなって思った。さらに、モデルさんってすごい。だって、たぶんモデルさんって、そこがはっきりしているってことなんだ。自分が出したいイメージと、他者から見たそれが、一致している。そこのプロなんだって思ったんだよね。そんなことがわかった今日は、とても静かに感動しているのだ。カメラマンさん、モデルさん、すごいぜ。
半年経てば髪型も変わるし、仕事だって変わっているかもしれない。自分自身は常に変化していくからこそ、こうやって写真を通して自分自身のエネルギーについて考える機会を定期的に持つのって、すっっごく素敵じゃない!なんて、思ったんだ。