ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(30)
第六章 公子ジュベ(その5)
ほぼ時を同じくして、ハッシバル家の国都・ネビルクトンで、ある小さな事件が起きていた。
今、ネビルクトンの表通りを一人の男が歩いている。藍(あい)染めの旅装束に草鞋(わらじ)履き。鼻の下まで隠れる深い笠をかぶり、人相はよく分からない。中背で一見貧弱な体つきだが、見る者が見れば、その旅装束の下には鍛えられた強靱な肉体が潜んでいることが分かったはずである。
周りの雑踏に溶け込むようにゆったりとした足取りで歩く男だったが、突然歩みを止め、辺りを見回したかと思うと、近くの路地に足早に入っていった。同時に周囲の空気がわずかに動き、数人の者たちが身を潜めながら彼を追う気配がする。だが、通りを歩く街の者たちの中に、それに気付く者はいなかった。
先ほどの様子とは打って変わった俊敏な動きで、男は路地を走る。だが、しばらく行ったところで足を止め、「不覚。囲まれたか。」とつぶやいて天を仰いだ。その言葉に応じるように、辺りの物陰から数人の人影が現れ、一定の間合いを取って彼を取り囲む。ティルドラスに仕えるバグハート忍群の忍びたちだった。
「お前たちか。久しぶりだな。」男はそう言いながら笠を取る。その下から現れたのは、年の頃は四十前後、褐色の肌に眼光鋭い精悍な顔だった。彼の名はゼブル=ザッカ。バグハート忍群の領袖・アゾル=ザッカの息子であるが、以前アゾルがティルドラスに話した通り、数年前、バグハート家での処遇に不満を抱いて数人の仲間と共に国を離れ、カイガー家に仕えていた。
「お久しぶりでございます、若。」周囲の者たちの一人が丁寧な、しかし油断のない口調で言う。
「で、父上はお元気か。」とゼブル。
「すぐお会いになれます。これより我らと同道下さい。」
「嫌と言ったらどうする?」
「若!」最初の一人が咎めるように声をあげる。
「我々であればこそ、まだ事を穏便に済ませることもできるのです。摂政の指揮下にあるハッシバル家の忍びに捕えられれば、単なる間者としての扱いにしかなりませぬぞ。」別の一人も厳しい口調で言った。
「仕方ないな。では行こう。」ゼブルは頷いた。
ゼブルを取り囲みながら、人目を避けるように路地を行く忍びたち。やがて彼らは、宮廷からほど近い、とある大きな一軒家へと入っていく。バグハート忍群のほか、官位を持たないため宮廷に入ることを許されない緑林兵や白甲兵たちに、ネビルクトンでの詰所としてティルドラスが用意した建物である。
「伯爵家の家臣ではなくティルドラス伯爵の私臣として抱えられたと聞いたが、待遇は悪くないと見える。草賊・夜盗同然の輩(やから)と蔑(さげす)まれ、雑兵以下の扱いしか与えられなかったメイル子爵の時代とは大変な違いだな。」辺りを見回し、周囲の臭いを嗅ぎながらゼブルは言う。「干し魚の臭いか。食事もそれなりに良いようだ。炭火と鉄の焼ける臭いもするが、道具を作る鍛冶場まで与えられているのか。」
「若、こちらは努めて丁重な扱いをしているのですぞ。それを良いことに、我らを探るような真似はお止め下さい。」彼の前を歩く忍びが振り返って言う。「頭領がお待ちです。こちらへ。」
ゼブルはそのまま奥まった一室へと通される。部屋の奥では、アゾルが椅子に腰掛けて彼を待っていた。「父上、ご挨拶申し上げます。」アゾルに向かって、皮肉めいた素振りで頭を下げるゼブル。
「久しぶりだな。まさかこのような形で再会することになるとは思わなんだが。」とアゾル。
「あまり驚いたご様子ではありませぬな。」
「お前自身が来るとは思っていなかったが、実は、近いうちにカイガー家からネビルクトンの様子を探りに来る者が現れるはずと言われておった。そこで市中の警戒を強めていたところ、お前がやって来たというわけだ。」
「ほう、それは。」少し驚いたような顔をするゼブル。「この後どうせよという指示を受けておるのですかな?」
「ただ話をして、そのまま帰せということだった。」アゾルは言う。「むろん、ハッシバル家の軍事や政治の機微(きび)に触れることは一切話せぬ。だが、ティルドラス伯爵の私生活、特に、結婚に関する話であれば、隠さず話すように言われておる。お前が探りに来たのも、そのことではないか?」
ゼブルはさらに驚いた表情になるが、父の問いには答えないままだった。
「と言っても、話すほどのことはないのだがな。」アゾルは続ける。「伯爵は品行方正な方で、およそ浮いた話を聞くことがない。むしろ、それで良いのかと心配する者が少なくないほどだ。」
「侍女に手を付けるようなこともないと?」とゼブル。
「ないな。そういう話は一切聞かぬ。」アゾルはかぶりを振る。
「意中の方はおられるのでしょうか。」
「かつての許嫁(いいなずけ)・トッツガー家のミレニア公女のことを、未だに想い続けておられるらしい。したがって、どのような形になるかは分からぬが、正室を迎えられるのはまだ先のこととなろう。」
「そこまで話してよろしいのですか?」
「全てを隠さず話すことが、伯爵のためにも、さらにカイガー家にとっても最良の道であろうとのことだ。」
「いったいどなたがどういうお考えでそのようなことを言っておられるのか、大変に気になりますな。」探るような表情になるゼブル。しかしアゾルはそれには答えぬままだった。
そのあともしばらくやりとりが続き、話が一段落したところでアゾルが口を開く。「ゼブル、戻って来るつもりはないか。お前が不満を抱いていた我らへの処遇も、ティルドラス伯爵のもとで格段に良くなった。儂もこの歳だ。戻って来てくれるのであれば、お前に跡目を譲って一線から退きたいと思っておるのだ。」
しかしゼブルはかぶりを振った。「かつて私が、メイル子爵に見切りをつけてバグハート家を去るべきと主張した時に、父上は仰いましたな。たとえメイル子爵からの処遇に不満があろうと、主家を失って路頭に迷いかけていた自分たちを抱え、居場所を与えてくれた先代・ニルセイル子爵の恩義に背くわけには行かぬと。」そして彼は少し遠い目をして続ける。「あの時は、父上は忍びとしては情に囚われすぎると思っておりました。しかし、私も父上の息子でございますな。国を捨て、他国に仕官を求めた我らを丁重に迎え入れ、こうして信任していただいているカイガー子爵の恩義に背くわけには行きませぬ。」
「そうか、残念だ。」大きなため息をつくアゾル。
「ともあれ、ここはおとなしく退散することとします。またお目にかかる機会もありましょう。母上や姉上たちにもよろしくお伝え下さい。」
「摂政麾下の忍びに捕らわれるでないぞ。我らはティルドラス伯爵の私臣。伯爵家お抱えの忍びがお前をどう扱おうと口は出せぬのだ。念のため、ネビルクトンを出るまで送らせる。ファンダーン、ノギ、ついて行ってやってくれぬか。」アゾルは言う。
父に向かって静かに一礼し、二人の忍びに付き添われながら部屋を退出するゼブル。それを見送りながら部下の一人がアゾルに囁く。「しかし、全てアンティルどのが予想された通りになりましたな。」
「うむ。だとすれば、アンティルどのの言われたように、再び彼らが我らの元に戻って来る日もあるのかもしれぬ。そう願いたいものだ。」アゾルは頷いた。
一方、アゾルの元を去ったゼブルは、送ってきた二人の忍びとネビルクトンの街外れで別れ、そのままカイガー領へと通じる道を行く。西に向かって街道をたどり、翌々日の朝にはキクラスザールの近くまでやって来た。と、前方に二、三十人ほどの行列が現れ、警蹕(けいひつ)の声が響く。
「寄れい、寄れい。伯爵のお通りであるぞ。」
言われるまま路肩に寄り、行列の通過を見送るゼブル。その彼の前を、墨染めの木綿の衣服に竹ひごを編んだ略式の冠という質素ないでたちの青年が、飄々(ひょうひょう)とした様子で馬に乗って通り過ぎていった。ティルドラスである。
「ティルドラス伯爵……。」遠ざかる彼の後ろ姿を見送りながらゼブルはつぶやく。「さて、これからどうなることやら。」