ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(40)
第八章 結婚外交(その5)
地続きで往来に支障の少ない他の属国と異なり、エル=ムルグ山地を隔てた奥にあるハッシバル家に対しては、トッツガー家の直接の支配は及ぼしにくい。たとえ属国化した場合でも、どうしても半独立のような形を認めざるを得ない。
「さらに、戦に勝って服属させた国とは異なり、ミレニア公女の婿君とあれば、我が国が諸侯を討ち従えた後もそれなりの地位と待遇を与えずばなりますまい。恐れながら公爵亡き後、ティルドラス伯爵が諸侯の中の重鎮として衆望を得るのは、ほとんど不可避でございましょう。」
「であろうな。」イエーツは頷く。
「公爵はティルドラス伯爵にあって我らが持たぬものが何であるかお分かりでしょうか?」
「申してみるが良い。」ゾーファンをうながすイエーツ。
「それは若さ――使える時間の長さでございます。ティルドラス伯爵は今年二十歳。我ら亡きあと、少なくとも二、三十年の時間を使える立場にあります。」器量と野心を兼ね備えた人物であれば、エル=ムルグ山地に守られた根拠地と諸侯の中の重鎮という立場を武器に、その長い時間を使って、トッツガー家が手に入れた覇権を乗っ取ることも考えるだろう。「むろん、公爵がティルドラス伯爵を見込まれ、その婿君がトッツガー家に取って代わることがあったとしても、それはそれで良しとされるのであれば、私から申し上げることはございませぬが。」
「ティルドラスはあくまでハッシバル家の者、あのフィドルの息子よ。我らにとっては所詮他人に過ぎぬ。我らが辛苦の末に得たものを譲ってやる義理などない。」イエーツはかぶりを振る。「ミレニアがティルドラスの子を産めるとは限らぬし、産んだとしてもその子がハッシバル家の跡を継ぐとは限らぬ。天下の権は、あくまでも我が一族――トッツガー家のものであり続けねばならぬのだ。」
「であれば、この縁談には十分に慎重を期するべきかと。一時の利を求めて軽々しく決めるべきではございませぬ。」
「うむ。」イエーツは頷いたものの、その言葉には、どこか迷うような響きもあった。
ティルドラスからの使者の話は密かに、だが急速にアシュアッカの宮廷内に広がる。「ミレニアさま!」自室で読書をしていたミレニアのもとに一人の少女が息せき切って駆け込んできたのは、その日の夕方のことだった。彼女の名はディミティラ=キリレフ。ミレニアの侍女という扱いになっているものの、ミレニアの母(既に他界している)の妹の娘なので従姉妹同士の関係でもある。「ティルドラス伯爵が使者を遣わして、ミレニアさまとの婚約の履行を、正式に公爵さまに申し入れられるとのことです!」
「ティルドラスさまが――!」目を見張るミレニア。
「台所の者たちに教えられました。もう一度行って、詳しい話を聞いて参ります!」そしてディミティラは、入り口の扉を開け放したまま、あたふたと部屋を飛び出していく。
「ティルドラスさま……。」しばし放心したように宙を見つめたあと、ミレニアは小さく呟く。「私を忘れておられたわけではないのですね。ああ、どれほどこの日を待ったことか……。」
属国であるマッシムー伯爵家の次男・ミギルとの間で進められていたミレニアの縁談であるが、ここしばらくは、やや停滞する様相を見せていた。
理由の一つはマッシムー家内部でのミギルの立場である。ミレニアとの縁談が持ち上がった頃は、長男のオドゥールを差し置いて父のドゥーガル=マッシムーから伯爵家の跡取りに指名されそうな情勢だった。凡庸で臆病なオドゥールとは異なり、ミギルは剛毅な性格で武勇にも優れ、父のドゥーガルも、伯爵家の将来のためにはミギルを跡継ぎとした方が良いのではないかという気になっていたのである。ミレニアの父であるイエーツも、それを見越して彼を縁談の相手に選んだのだろう。
しかし、家臣たちの間でのミギルの評判は決して良くない。剛毅で勇武と言えば聞こえが良いが、実際は粗暴かつ苛烈な性格であり、加えて狭量で強欲でもある。こうした家臣たちからの懸念もあって、ドゥーガルもミギルを跡継ぎとすることに躊躇する色を見せていた。そのためか、ミレニアとミギルの縁談についても一時ほど取り沙汰されず、このまま立ち消えになるのではないかという観測さえ流れている。
『それでも半ば諦めていました。私はこのまま、ティルドラスさまに忘れられたまま他家に嫁がねばならぬのかと……。』夕暮れの迫る薄暗い部屋の中、灯りも点さず独り考え続けるミレニア。『生きていて良かった、心からそう思います。』
それから数日後、イックを初めとする使者たちはアシュアッカに到着し、他国の使者のための宿泊施設に丁重に案内される。
「最初の関門は突破したか。」宿舎の一室に集まったジョーとオールディンを前に、安堵の表情でイックは言う。
最初から使者として扱われず、交渉を始めることすらできぬまま退去を命じられる危険性が一分ほどある。そうなれば手の打ちようはない――。彼らが出発するにあたって、アンティルはそう言った。「また、使者として迎えられても、用向きを伝えるだけでトッツガー家の重臣たちへの対面が許されぬまま帰国を命じられる可能性が三分。こちらもトッツガー家の意向次第で、我らにできることはございませぬ。そのあといよいよトッツガー家の重臣たちと直接対峙し、交渉を始めることとなります。それを乗り切れば、事は七分まで成功したと考えて宜しいでしょう。そして最後に、イエーツ公爵自身への目通りが叶い、トッツガー家がパドローガルの銀器を受け取ることに同意したならば、事は九分通り成就したことになります。」
「これは伯爵お一人の問題に止まらぬ、この縁談の成否によって天下の形勢が大きく変わり、延(ひ)いては天下の民の命運も左右するはず――、アンティルどのはそう言っておられた。おのおの、その事を忘れぬようにされたい。」他の二人を見回しながら、イックは厳しい口調で言う。
「は、はい……。」小心者のオールディンが、青ざめながらも精一杯の気力を振り絞って頷く。
ティルドラスの思いと民の命運を背負い、三人はトッツガー家との交渉の場に臨む――。