ティルドラス公は本日も多忙④ 都ケーシの宮廷で(6)
第二章 サッケハウにて(その1)
大空白地帯を抜けミストバル領に入ったあたりから、周囲の景色は明らかにそれまでと違ったものになる。
背の高い夏草が生い茂る荒れ地はよく耕された農地に変わり、そこでは初夏の光を浴びてつややかに伸びる作物が一面に育つ。「ミストバル領の民は勤勉と見える。安心して農事に励むことができているのだろう。そう考えると、ハッシバル家はまだミストバル家には及ばぬな。」小休止の間に馬を下り、周囲の畑で育っている作物を間近でしげしげと眺めながらティルドラスは言った。
「何を仰せられます!」彼の傍らからフォンニタイが咎めるように口を挟む。「ハッシバル家がミストバル家に及ばぬなど、そのような事があろうはずがございませぬ。所詮ミストバル家など、執政官のアシュガル家に頼って、辛うじて息をつないでおる国ではありませぬか。ああ、ハッシバル家の主たるお方が、自らの国を貶める左様な言葉を口にされるとは何たることでございましょう。そもそも開祖・キッツ伯爵のみぎり――」
フォンニタイのおしゃべりを聞き流しながら、ティルドラスは昨晩も目を通した本の内容を反芻(はんすう)する。本の題名は『各国要覧』。ケーシに向かうティルドラスのためアンティルがほとんど不眠不休で書き上げたという小冊子である。
記述は、アンティルが若い頃の遊学時代や仕官後の使者としての往来の間に見聞したこと、フィンケルを初めとするかつての学友たちから得た情報、官吏としての勤めの中で耳に入った各国の内情まで多岐に渡り、それがアンティルの卓越した分析力により相互に関連付けられ、当時の各国の実情を正確に捉えたものとなっていた。一方で他国の機密やティンガル王家の忌諱(きい)に触れるような部分も多く、チノーにさえ見せてはならぬと釘を刺されている。
本来であればティルドラス以外の目に触れることなく歴史の闇に消えていったはずの文書であるが、この時清書を担当したアルシアの手元にアンティルが書いた草稿が残っていて、その写しが紆余曲折を経てソン=シルバスに伝わり、当時の各国の状況を知るための一級の資料として「秘本『各国要覧』によれば――」と『ミスカムシル史大鑑』にも頻繁に引用されることになる。
――ミストバル領の穀物生産は稲と大麦の二毛作が一般的である。灌漑(かんがい)が発達していることに加え、農法も進んでおり、土地の生産性は高い。――
――ミストバル領は古来から煉丹術の研究が盛んに行われており、そこから派生した様々な技術は他の国には見られぬものである。将来ハッシバル家が科学を国の柱とするのであれば、ミストバル家に学ぶことは多いと考えられる。――
――租税・賦役(ふえき)は他国に比べ軽いわけではないが、灌漑・輸送のための運河の建設や凶作時の救恤(きゅうじゅつ)など民に還元される形で活用され、これによって民は安心して生業にいそしむことができている。――
『フォンニタイはああ言うが、やはりハッシバル家の国力はミストバル家に遠く及ばぬようだ。しかし、一体どこで差が付いているのだろう。今回の旅で、その一端でも知ることができれば……。』小休止が終わり再び馬を進めながら、ティルドラスは考える。ミストバル領としては辺境のはずのこの一帯さえ、周辺に広がる農地は、例えばハッシバル家の国都ネビルクトン周辺の農地よりはるかに良く手入れされ、豊かな実りを予想させるものとなっている。ハッシバル家の内部では未だにミストバル家と戦ってその領土を奪いエル=ムルグ山地の外への足がかりとすることを主張する声が根強いが、戦ったところで勝つことはできないだろう。『やはり自分の目で確かめることができて良かった。アンティルの言う通り、ミストバル家とは誼(よしみ)を深める道を探った方が良さそうだ。』
「この先にある渡し場で、ミストバル家の迎えの者が待っておるとのことでございます。」チノーに声をかけられ、ティルドラスは我に返る。
もともと敵対的な関係にあり、ほんの一年前にも二度に渡って戦ったハッシバル家とミストバル家。しかし、そうした国同士であっても、ティンガル王家への参朝については一切妨害せず可能な限りの便宜を図るのが諸侯の義務とされていた。
それを端的に示す逸話がある。ティルドラスの時代から百年ほど前のこと、当時チュリ川中流域の小国の主であったイシュテカ=ホスノフ子爵がパーナクトンの街で敵国・イームガー侯爵家の軍に囲まれ進退窮まった際、王家への参朝を行うことを理由にわずかな供回りと共に街を退去することを申し入れ、包囲側のイームガー軍もそれを認めてイシュテカ子爵が街を出ることを妨げなかったという。
なお、イシュテカ子爵が脱出した後のパーナクトンの街はたちまち陥落し、イームガー軍による徹底的な破壊と劫掠を受けることになった。「これを鑑(かんが)みれば、イシュテカ子爵は民を見捨てて己(おのれ)一人のみ逃げ延びた不仁の君であり、イームガー軍は民を苦しめて恥じぬ暴虐の軍であった。単に王家への参朝を妨げなかったことをもって、これを美談として伝えるのは大きな誤りと言わざるを得ない。」――ソン=シルバスは『ミスカムシル史大鑑』の中でこの逸話の記述をそう締めくくっている。
チノーの言葉通り、程なく差しかかった小さな川のほとり、渡し場の傍らに、三、四十人ほどのミストバル家の迎えの者たちが整列して一行を待っていた。「出迎え、大義に存ずる。よろしく頼む。」彼らに向かって馬上から声をかけるティルドラス。
彼の声に応じて迎えの者の中から、年の頃は二十代の半ば過ぎ、栗色に近い金髪を編んで背に垂らした眼鏡の女性が進み出ると、丁寧に一礼して言う。「ミストバル家校尉・ペネラ=ノイでございます。このたび伯爵のご案内をするよう、アブハザーン侯爵より申しつかりました。」
「あなたか。」声を上げるティルドラス。