時事無斎ブックレビュー(13) 余は如何にしてネット発ファンタジー小説に幻滅せし乎(前編:ネット発テンプレファンタジーの問題点について)
この歳のオッサンがやっていると周囲から多少イタい目で見られるのかもしれませんが、休日に天気が良くて時間がある場合、運動がてら自転車で市内の書店・古本屋を回っては面白そうなマンガの出物がないか物色するのが常です。
その中で以前から気になっているのが、どこの書店でも漫画売り場の一角に大きなスペースを取って並べられている、ネット発の原作(主に異世界ファンタジーもの)をコミカライズした作品のレーベルです。気になるといっても残念ながら良い意味でではありません。これまでいろいろと目を通したものの読んでいて問題が目に付く作品が多く、むしろ最近ではその種の本が溢れ続けることに危機感さえ抱くようになっています。
以下、そうしたネット発作品について私が思うことを三回に分けてお送りします(注1)。なお、タイトルは内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』のパロディです。内村先輩、失礼しました。
注1:なお、本稿はあくまでネット発テンプレファンタジー作品一般についての話で、個々の作品の批評が目的ではないため、具体的な作品名は出しません。おそらく読んでいて「あの作品かな?」と思い当たる方も多いでしょうが。
実を言うと最初からネット発ファンタジー小説に厳しい評価をしていたわけではありません。むしろ当初はかなり期待を寄せていました。出版社を通さずに自由に作品を発表できる場所が生まれることによって、既存のスタイルに囚われない斬新で独創的な作品がもっと日の目を見られるようになり、はびこる商業主義に風穴を開けてくれるのではないか。そんな期待があったのです。
ファンタジー小説がやたら多いことも当初はむしろ好意的に捉えていました。それまでなかったような緻密、あるいは幻想的な世界を構築してくれる作者がどこかから現れて、ファンタジー小説の新たな時代を切り開くのではないかと考えたのです。
しかしそうした期待は脆くも崩れ去ることになります。以下、私がネット発ファンタジー小説に失望した点を、順を追って説明します。
1.設定やストーリーが画一的
最大の期待外れがこれでした。斬新さや多様性どころか、どの作品を読んでも世界設定からストーリーから登場人物のキャラクター造形まで全く代わり映えのしない作品が、同じ鋳型で大量生産された工業製品のように溢れる金太郎飴状態で、多様性や独創性などむしろ消滅しています。
公正を期すため言っておくと、いわゆる架空戦記や萌え系作品など画一的なストーリーの作品が粗製濫造される風潮はネット小説が世に出回り始める以前からすでにありました。私自身はネット発小説がそうした風潮に風穴を開けてくれることを期待していたのですが、実態はむしろ画一化を推し進める方向に動いてしまったようです。具体的には、以下のような内容が挙げられます。
※転生もの
一時期これが氾濫しました。「現世でうだつの上がらなかった主人公が異世界に転移・転生し、その時に与えられたスーパーパワーで大活躍する」というのがテンプレです。ただ、はっきり言ってなぜ転生時にスーパーパワーがおまけに付いてくるのか疑問しか感じない上「そもそも主人公が転生者である必然性が全くないのでは?」と思う作品も少なくありません。
※チートもの
世間に飽きられたためか転生ものは一時に比べ減ったものの、こちらは未だに盛況です。俗に「チート」(注2)と呼ばれるその世界で唯一無二のスーパーパワーを主人公が(それも呆れるほど安直に)与えられ、その力で好き勝手する、というのが基本的な話の流れになりますが、読んでいて「そんなこと(例えば自分を邪険に扱った相手への仕返し)にチートパワーを使うのか」と思うような矮小で個人的な目的に力を使う例が目立ち、さらに、それだけの大きな力に対して当然伴うはずの責任や周囲との軋轢についても何一つ触れようとしない作品が大半です。作者の皆さん、「力」というものをあまりに軽く考え過ぎではありませんか?
注2:「チート」は本来ゲームなどでの「不正行為」の意味で、この言葉がこの意味で使われることを嫌う人も多いようですが、ここでは便宜上「チート」の語を使います。
藤子・F・不二雄『ウルトラスーパーデラックスマン』
圧倒的なチートパワーを手に入れた凡人が、その力を身勝手な正義感と自身の都合のためだけに好き勝手に使ったとしたら――をテーマに描かれた藤子・F・不二雄の異色短編SF。残念ながら、最近のチートものでこのテーマを深く掘り下げた作品には一つとして出会ったことがありません。
※ハーレムもの/逆ハーレムもの
主人公が複数のヒロイン(女性向けであればイケメンヒーロー)に囲まれてモテモテという作品です。これ自体は少し昔のいわゆる萌え系作品にも(というより、はるか『源氏物語』や『竹取物語』の時代から)よくあったパターンで、別にネット発ファンタジー小説に特有のものではありませんし、まだ枯れていない色好みのオッサンとしては、(何股もかけられるヒロイン側の気持ちはどうなるんだという疑問はあるものの)ある種の男のロマンとして、一概に否定するつもりもありません。
ただ、真面目な話、ネット発ファンタジー作品でそのパターンがあまりに多すぎるのではないかと感じるほか、そうした作品ではしばしば、ヒロインが誰も彼も没個性で、単に主人公のモテモテぶりを誇示するためのコレクションにしか見えないのが気になります。ヒロインをたくさん出すなとは言いませんが、出す以上はきちんとキャラ付けをして人格を持った生身の人間に見えるようにするべきでしょうし、それができないならただのコレクション用アイテムのような女性キャラばかり安易に出すべきではないと思うのです。
2.内容に問題のある作品が多い
単に設定やストーリーが画一的というだけではなく内容に大きな問題を抱えた作品も数多く見かけます。しかもその問題が、これまた金太郎飴のように同じようなものばかりだったりします。作品が抱える問題点までテンプレ化してどうするのでしょう。以下、よく見かける問題点の例です。
※「力」に対する過剰な信奉
テンプレファンタジー作品で主人公が何かの問題に突き当たった時、しばしば「チートパワーで暴力的に解決する」という選択肢を採り、そしてそれが作中でもメタ的にも「正しかった」とされる場合がほとんどです。
しかし、単に力で押さえ込むだけの態度が本当に問題解決につながるのでしょうか。押さえ込んだだけで問題の根本的な原因が解決するものではありませんし、強権による抑圧でため込まれていった不満は、ほんのちょっとしたきっかけで大規模な爆発を引き起こすことがあります。歴史を少し調べればいくらでも実例が見つかることでしょう。
特に気になるのが、こうした作品ではしばしば、対話や地道な努力によって問題の解決を探ろうとする考えを「非現実的」「お花畑」と決めつけられて嘲笑・排除したがる傾向が見られることです。実際には、自分が絶対に傷つかないチートパワーを前提にした「力による問題解決」こそ、現実からかけ離れた頭お花畑の空論だと思うのですが、作者の皆さんはそうは考えないのでしょうか。
※「他者」に対するリスペクトの欠如
本来、異世界転移・転生ファンタジーの魅力とは、未知の世界をいろいろと探索したり、途方もなく巨大な敵や謎に挑んだりするスリルにあるのではないかと思います。その世界にはしばしば我々の知らない不思議な力を持った種族たちが住んでいて、いかに彼らから学んだり助けてもらったりするかは物語の醍醐味の一つでもありました。
ところが最近は少し違うようなのです。異世界の種族は我々人類よりも頭脳的にも文化的にも、時には肉体的にもはるかに劣った存在で、その彼らを主人公や「われわれ日本人」が圧倒的な科学力や文化や時には軍事力で征服して、ありがたく支配してやる――、そういう作品がけっこう頻繁に見られます。現在は少し下火になったようですが、その種の作品が異世界の住人たちをどれだけ愚かで無力に設定するかを競う大喜利のような状態になった時期さえありました。そういう幼稚園の砂場で園児相手に威張ってみせるようなお話の何が面白いのかと思うものの、ファンの方々に言わせると、それは私が古い考えのオッサンだからなのだそうです。(いや、実際にオッサンですが。)
このあたり、帝国主義華やかなりしころの欧米の植民地小説や、20世紀半ばくらいまであったいわゆる「白人酋長もの」との類似性が指摘されています。残念ながら、こうしたテンプレファンタジー小説の価値観や道徳観念には21世紀ではなく19世紀以前に退行している部分が少なからずあるようです。オッサンどころか200年以上前の感覚ですが、そちらは古くないのでしょうか。
なお、考えの古いオッサンである私は、本来以下のような作品こそが異世界転移もののスタンダードではないかと考えています。遅れていると言いたいのであればご随意に。
C=S=ルイス『ナルニア国ものがたり』
ミヒャル=エンデ『はてしない物語』
※奴隷制の肯定・美化
実をいうと19世紀では済まないかもしれません。その種の作品でしばしば指摘されるのが、「奴隷」そして「奴隷制」に対する無神経な態度です。
よく見かけるのが、異世界転移した主人公が従順な美少女奴隷を手に入れて冒険のお供にし、美少女奴隷の方もご主人さまである主人公にまめまめしく仕えてやがて自発的に喜んでハーレム入りする(正妻はどこぞのお姫様だったりしますが)、というパターンです。「当人も合意の上なんだから別に構わないだろう」と言う人もいますが、そもそも「奴隷と奴隷主」という絶対的な支配・被支配関係の中で、安易に「合意の上だから」などという言葉を口にして良いものなのでしょうか。作品によっては魔法やアイテムによって相手を一方的に支配しておきながら、なぜか奴隷少女との関係を美談や純愛のように描いている例さえあります。
とまあそういう指摘を以前ネットの某所でしたところ、その種の作品のファンとおぼしい人が「優しい奴隷主だっていた」「奴隷制が必要な社会もある」「奴隷を解放すれば社会が混乱する。そうなったらどうなると思ってるんだ」といった奴隷制擁護論を並べてしつこく絡んできたことがありました。しかし、それは結局、奴隷制によっていい思いをしている奴隷主の都合に合わせた議論ですよね。しかもこちらからの指摘には何一つまともに答えていません。なぜかそうした「奴隷主の論理」があたかも中立公正な議論のような顔で持ち出されてしまうことも、私がネット発テンプレファンタジー界隈に強い不信感を抱き続ける理由です。
フレデリック=ダグラス『数奇なる奴隷の半生』
本田創造『私は黒人奴隷だった』
参考図書として、もともと正真正銘の黒人奴隷で、その後逃亡して奴隷解放運動に身を投じたフレデリック=ダグラス関係の書籍を二つ挙げておきます。ネットで奴隷制を肯定してみせては何か勇気ある主張でもしたような気分に浸っている皆さん、あなた方は実際にダグラスのような人物と1対1の生身で向かい合ったとして、それでも「奴隷制は必要」「優しい奴隷主もいた」のような言葉を(開き直りの強弁ではなく)堂々と口にできますか?
3.純粋に作品としての完成度が低い
こうした内容上の部分のほか、読んでいて純粋に作品としての完成度が低いものが多いことも問題です。以下、列挙してみます。
※世界設定がゲームや先行作品の受け売り
本来ファンタジー(特に異世界ファンタジー)を書くというのは一つの世界を独自に構築するということなのですが、巷に溢れる異世界ファンタジーものを読むと、そうした自力での世界設定をサボって、どこかのゲームやその設定を引き写した先行作品をさらに模倣して三次的・四次的に書いているような作品が圧倒的多数派です。やたらに登場する幻獣や妖精にしても、オリジナルの神話伝承に基づかず先行作品の受け売りで書いているのが明らかなケースが大半です。それに関係して書いた文章が過去にありますので参考までに。
※科学的な間違いが多い
世界設定が先行作品の引き写しというのは確かに手抜きではあるものの、別に「誤り」ではありません。しかし、そういう「解釈の問題」では済まされない科学的な部分についても、しばしば破綻レベルの大きな誤りが見られるのがこの種の作品の特徴です。
以前、やはりネット発で医療・薬学をテーマにした作品のコミカライズ版(アニメ化までされた有名作品。ただし一般にいう異世界ものではない)を読んでいたところ、銀の食器に解毒能力があるようなことが平然と書かれていて唖然としたことがあります。もちろん銀にそんな性質はありません。おそらく作者の方が「銀の食器は昔から毒殺防止に使われてきた」という話をどこかで聞いて、それを「銀には解毒能力がある」と誤解したのでしょう。実際には、銀の食器が毒殺防止に使われたのは、通常は反応性に乏しい銀がヒ素化合物などに含まれる硫化物と反応すると黒ずんで(あくまで一部の)毒の存在を示してくれる性質があるからで、決して毒そのものを分解する力を銀が持っているわけではありません。
それにしても、ウェブから書籍化、さらにコミカライズという一連の流れの中で(アニメは未見なのでどうなったのかは知りません)、こんな中学理科レベルの間違いを指摘する人が誰もいなかったのでしょうか。しかも医療・薬学がテーマの作品です。こういう例を見るにつけ、この種の作品は書く側だけでなく出版する側にも大きな問題があるのではと感じます。
国立天文台・編集『理科年表』
物理・化学・天文学・地質学・生物学などの基本的な知識が満載された、物書きを志す人には必携の参考資料。手元に置いて折に触れて参照するようにすれば、少なくともネットで笑い物になるような恥ずかしい間違いはほぼ回避できるはずです。毎年最新版が発行されますが、基本的な部分については古い版を1冊持っていれば十分用が足ります。
※ストーリーの破綻/意味の通らない文章
ここまで来るとそもそも小説として失格ではないかと思いますが、残念ながらそういう作品が決して少なくないのも事実です。以前読んだある文庫化作品では誰が話しているのか分からない会話のシーンが延々と続くばかりで話の筋が全然見えず、途中で放り出しました。そういう作品で懲りたため、最近では専らコミカライズ作品で動向をチェックするようになっています。
このように問題の多いネット発テンプレファンタジー小説ですが、それをふるいにかける客観的な基準がないか考えてみました。以下、次回に続きます。
※中編:「時事無斎のなろう系指数」の提唱
※後編:テンプレ要素作品考