ティルドラス公は本日も多忙④ 都ケーシの宮廷で(17)
第四章 ムロームの闘技場(その3)
上の空でそんなことを考えながら、フォスカとの表面上は重々しい、しかし中身のない面会を終え、ティルドラスは客人の館へと戻る。到着初日はこうして終わった。
その晩は旅の疲れもあって早く就寝し、翌日遅く目を覚まして留守中の国事を預けているキーユへの手紙を書いていると、コムーノが迎えに来た。歓迎の行事の準備が整っており、同行してほしいという。「今回の催しは元服前のお方にはご覧に入れられぬこととなっておりまして、ナガン公子はお連れできませぬ。伯爵お一人のみお越し下さい。」
そのまま昨日の二頭立て馬車に乗せられ、ティルドラスは慌ただしく出発する。同乗するのはチノー・メルクオ・フォンニタイの三人。さらに護衛のサクトルバスほか身分の軽い供の者数人が、こちらは荷馬車に乗せられて彼の後を追う。「ナガンに見せられぬ催しとは何か。そもそもどこに向かっているのだろう。」馬車に揺られながらティルドラスは尋ねる。
「闘技場でございます。諸侯の地位にある客人が滞在される際は、剣闘士の戦いをお見せすることとなっております。」とコムーノ。
「!」ティルドラスは息を呑む。剣闘士の戦い。人間と猛獣や妖魔を戦わせ、あるいは人間同士の殺し合いを見せ物にする催しである。「私はその種の見せ物を好まぬ。音楽なり芝居なりに替えてもらうことはできぬだろうか? それが無理とあれば、むしろ今日は一日寝ていたいのだが。」
「これは慣例でございまして。」ティルドラスの言葉に、逆に困惑したような表情を浮かべるコムーノ。「中級の客人をもてなすには、初日に剣闘士の戦い、二日目に古典劇、三日目に雅楽をご覧いただき、ご出立の前日に小牢(しょうろう)の宴を開いてお送りするのが大公家での決まり事となっております。特に剣闘士の戦いは下々の者も見物が許されておりまして心待ちにしておる者も多く、伯爵お一人のご都合で取り止めては大公家として面目が立ちませぬ。」
またも慣例、またも格式である。大公家の客人となった以上、剣闘士の戦いは嫌でも見物させられるものらしい。後から聞いたところでは、上級の客人の場合は初日に小牢の宴で歓迎されたあと二日目に剣闘士の戦い、三日目に舞踊、四日目に古典劇、五日目に雅楽を鑑賞し、出発前日に大牢(たいろう)の送別の宴というのがしきたりだという。つまり中級・上級の客人が大公家を訪れるたびに、確実に何人かの人間が見せ物として殺されるのである。ナガンには見せずに済むのがせめてもの幸いかもしれない。
ちなみに、もともと大牢とは牛・羊・豚を一頭ずつ、小牢とは同じく羊と豚を一頭ずつ用いた祭祀の料理のことだったが、この時代のミスカムシルでは、厳密に定められた材料と手順で作られる客をもてなすための豪華なコース料理を意味していた。アシュガル家では客人に剣闘士の戦いを見せることが、こうしたもてなしと同列に扱われていることになる。
闘技場はすでに満員だった。世には人の死を見せ物にする催しを喜んで見物したがる人間たちがこれほどまでに多いものなのだろうか。暗澹(あんたん)たる気持ちのまま、観客席の一角に設けられた主賓の席に案内され、着席するティルドラス。「本日の主賓、エル=ムルグ山地はネビルクトンの城主・ティルドラス=ハッシバル伯爵である! ご挨拶申し上げよ!」場内の観衆に向かってコムーノが声を張り上げ、それに応じて盛大な拍手が起こるが、正直言って嬉しくも何ともない。
「まず、恒例通り罪人の処刑を行う。」触れ回りの役人が、闘技場の中央、戦いが行われる馬場の中を馬で馳せ巡りながら、観衆に向かって声高に叫ぶ。「極悪非道で名を馳せた山賊の一党・カムサック一味。頭目どもは既に八つ裂き、串刺しの刑に処されたが、これより手下の者二名を猛獣の餌食とする。」場内の観衆から沸き起こる歓声。
役人が退場すると共に、馬場に通じる出入口の一つから、ぼろぼろの着物を身につけた裸足の男が二人、鞭や刺叉(さすまた)を手にした獄吏たちに追い立てられながら姿を現した。彼らが馬場に入ると同時に背後で扉が閉じられ、男たちは恐怖と絶望の表情を浮かべながら馬場の中に取り残される。続いて馬場の反対側にある大きな扉が開かれ、荒々しい吼え声とともに四頭の獅子狒(ラブーン)がそこから姿を現した。
突然広い場所に引き出された猿たちはしばらく戸惑ったように周囲を見回していたが、やがて馬場の反対側にうずくまる人影に気付くと、そちらに向かって足を踏み出す。悲鳴を上げる二人の罪人たち。と、そのうち一人が貴賓席に座るティルドラスの姿を認め、彼の方に向かって全力で走り出した。彼の慈悲にすがり、万に一つの助命があることを期待していたのだろう。
だが、彼が馬場の中央にすら達しないうちに、背後から二頭の獅子狒(ラブーン)が猛然と襲いかかり、彼を地面に引き倒す。鋭い牙の生えた巨大な顎が彼の頭上で開かれたとみるや、彼の首筋から右肩にかけての肉が骨もろとも食いちぎられ、周囲に血しぶきが飛ぶ。ほとんど同時にもう一頭が彼の横腹に喰らいつき、はらわたを長く引きずり出しながら肉を噛み取った。
その光景を眺めながら、もう一人の男は放心したように最初の場所に座り込んだままだった。その彼の目の前に残りの二頭がゆっくりと迫る。しばらく立ち止まって男をじっと見据えたあと、獅子狒(ラブーン)たちはやおら男に躍りかかり、頭と足に同時に喰らいついて両側から彼の体を引き裂いた。頭が噛みちぎられ、脚がもげ、男の体は一瞬にして白い骨があちこちから突き出した一個の肉塊と化す。
見守る観衆は大喜びだった。罪人たちに向かって浴びせられる罵声、男たちの高笑い、その合間に響く感極まったような女性の叫び声で、闘技場内は隣同士の会話すら聞き取れないような喧噪に包まれる。
その中で独り、嫌悪と憐憫(れんびん)の表情を露わに浮かべて押し黙るティルドラスに、なだめるような口調でコムーノが言う。「不憫(ふびん)がられる必要はございませぬ。あの罪人どもは悪名高い山賊の一味として盗み・人殺しを初めあらゆる悪事を行ってきた者でございまして、斯様(かよう)な刑すら軽いと言わざるを得ませぬ。これは罪を罰し、なおかつ市井の民に徳義を勧め法の重きを教え諭すもので、民の教化にも大いに意義があると識者も申しております。」
「彼らが死罪に値するというのであれば、ただ粛々と刑を執行すれば良い。わざわざ見せ物にする必要があるのか。その識者とやらは道理を知らぬと見える。」ティルドラスは不機嫌な表情のままだった。「あの見物人たちにしても、義を口にすることで残酷な見せ物に浮かれる自分たちを正当化しているようにしか見えぬ。殺されるのが取るに足らぬ小さな罪を犯しただけの者や全く無実の人間だったとしても、やはり彼らは何も考えずに浮かれ騒ぐだろう。このような形での処刑を衆に示したところで、それが正義を勧めたり法を重んじさせたりすることにつながるとは思えぬ。――大公にお伝え願えぬだろうか。斯様な行いは、悪を罰するようで実は人心を荒廃させ、いつか国に大きな禍(わざわい)をもたらすものである、と。」
この時の言葉は残念ながらイスハークに伝えられることはなかったが、後世、ティルドラスの人となりを示すものとして『ミスカムシル史大鑑』に記されることとなる。そして「闘技場の義士」といえば、些細な落ち度や不謹慎を口実に安全な場所から弱い者を集団で叩いては喜ぶ者たちを意味する故事成語となった。
馬場では、もはや人間の原形を留めていない肉塊を獅子狒(ラブーン)たちが貪(むさぼ)っている。と、その時、馬場に通じる出入口の一つが開き、派手な衣装に身を包んだ一人の男がそこから姿を現して馬場の中を走り始めた。彼に気付いた猿たちが動くよりも早く、男は馬場の中に何本か立てられている高さ一丈半ほどの鉄柱の一つに駆け寄ると、手がかりも何もないその柱に取り付いてするするとよじ登り、鉄柱の上に取り付けられた直径一尺ほどの足場の上に立つ。一頭が彼を追って鉄柱の下までやって来たものの、手が届かず、うなり声を上げながら見上げるだけだった。
続いて男は小さな足場の上で何やら踊り始める。最初はただ手足をくねらせる程度のものだったが、その動きはだんだんに大きくなり、ついには足場の上で飛び跳ねたり、逆立ちや宙返りまでを披露してみせる。場内の観衆から起こる彼への喝采。ただ、その中には「落ちろ!」「獣に食われろ!」といった罵声もいくつか混じっていた。
「あれは軽業師(かるわざし)でございます。処刑が終わっての余興となります。この場合、主賓の方より幾ばくかの金子を下げ渡されるのが慣例となっております。」コムーノが言う。
「では慣例の通りに。」相変わらず暗い表情のまま、ティルドラスは短く答える。
足場の上での踊りが続く中、今度は馬場の上に張られた一本の綱の上を別の男が渡り始める。こちらも途中綱の上で飛び跳ねたり綱にぶら下がって回転してみせたりしては観衆の喝采を浴びるのだった。彼が無事に反対側の客席にたどり着いたのを合図に、防具に身を包み鞭や棘だらけの棒を手にした猛獣使いたちが姿を現し、獅子狒(ラブーン)たちをもとの出入口へと追い立てていく。鉄柱の上で踊っていた軽業師も場内の拍手を受けながら退場し、残された罪人の死体、というより、もはや死体とすら呼べないばらばらの肉片を奴隷とおぼしい係の者たちが無表情に拾い集めて手押し車で運び去ると、再び触れ回りの役人が馬場を馬で馳せ巡りながら周囲に叫ぶ。「これより剣闘士の戦いを始める! まずは剣闘士見習いと狼鼠(ファランクス)の群れの戦いである!」