ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(19)
第4章 冬終わる日に(その5)
ティルドラスが登用されたばかりの一介の郎と、朝から晩まで執務室に籠もって熱心に国政を論じ、しかもその進言は悉(ことごと)く採用されて直ちに法令や布告となる――。周囲の者たちは驚き戸惑う。
――アンティルとは何者ぞ。――
――まるで令尹(れいいん。宰相)か尚書令(首席秘書官)のような扱いではないか。――
――伯爵はどうなさってしまったのだ。――
そうした驚きや戸惑いは、やがてアンティルへの嫉妬や怖れも相まって、彼への批判へと変わっていく。
――たかが郎の分際で、日夜伯爵の側に侍して、あまつさえ国政に口をはさむなど身の程知らずも良いところではないか。――
――聞くところでは、あの者は若い頃に悪名高い妖術師のもとに弟子入りし、妖しの術を身につけておるというぞ。その術で伯爵に取り入り、国政を壟断(ろうだん)しようとしているのやもしれぬ。――
――だとすれば由々しきこと。まさに誅殺(ちゅうさつ)に値する罪!――
こうしたアンティル批判の急先鋒が、官吏ではチノー、軍ではユニだった。ハッシバル家の宿将であるトゥンガ=フーも、新参のアンティルが重用されることに懸念と不信を隠さない。リーボックも、どちらかと言えばアンティルに懐疑的な立場だった。そのほか、ティルドラスに仕える中級から上級の官吏の相当数が、陰に日向にアンティルへの不平や不信を訴える。
逆にアンティルを擁護する者にはメルクオを筆頭にサクトルバス、ツェンツェンガがいた。アンティルの噂をティルドラスの耳に入れたオールディンも控えめながら彼の支持に回る。ただ、アンティルがバグハート家の内部で軽んじられていたこともあり、彼らに同調する官吏は少数に止まる。
オールディンの舅であるナックガウルは今回もへそ曲がりぶりを発揮して、アンティルをめぐる議論には加わらず、少し離れたところから他の者たちの大騒ぎを黙って眺めるだけだった。イック=レックも中立派だが、こちらはアンティルの才を見極めた上で態度を決めたいという姿勢である。
これまで一枚岩の団結を見せていたティルドラスの側近たちが、アンティルへの評価をめぐって分裂する。内輪での愚痴のこぼし合いや意見の異なる者同士での言い争いまでが起きる中、ある日ユニが、部下たちの要望を代表して、という前置きを添えてティルドラスのもとへとやって来る。
「聞き及びますところでは、このたび、伯爵は大賢人を得られたとのこと。願わくば我らも一堂に会して、その高説を存分に拝聴する機会を与えていただきたいものでございます。有志一同を代表して、特にお願いに参りました。」ことさらに取り澄ました口調で彼女は言う。
「わかった。考えておく。」渋い表情で頷くティルドラス。その彼に向かってわざとらしく馬鹿丁寧に一礼し、ユニは退出していった。
『困ったものだ。』ティルドラスはため息をつく。
要は、アンティルが果たして伯爵の信任や厚遇に値する人物なのか確かめさせろ、もっと言えば、部下たち一同を集めてアンティルを糾問(きゅうもん)させろという含みなのである。おそらくユニの独断ではなく、背後でチノーが糸を引いているのだろう。気持ちは分からなくもないが、彼の性格からして、まさかここまで陰湿なことをやってくるとは思わなかった。
しばらく考え込んだあと、ティルドラスはアンティルを呼び、ユニからの申し入れを伝える。「なるほど、要するに口頭試問でございますな。」彼の話に、さほど驚いた様子もなくアンティルは頷いた。
「口実を設けて、またの機会にすることもできるが――。」
「いや、いつかは通らねばならぬ道でございます。」アンティルは決然たる口調でかぶりを振る。「そもそも、国政が密室の中で国主と側近のみで決められるというのは決して望ましい姿ではありませぬ。ご家中の方々の不満も一理あると存じます。この機会に、私の考えと今後の方針を他の方々にもお示ししておくべきでございましょう。」
こうして、急遽、中級から上級の官吏たちを宮廷の広間に集め、アンティルとの間で質疑応答を行う場が設けられる。彼が恐れをなして逐電(ちくてん。逃亡)でもするのではないか、そこまでは行かなくとも、周囲の怒りになりを潜めるのではないか、と期待していた者たちにとっては予想を裏切る形となるが、ともあれ、批判派から擁護派までが一堂に集まる中、広間の中央に設けられた壇にアンティルが立ち、司会者が開会を告げる。
「アンティル、一つ訊くが、お前は自分が才ある人間と思っておるのか。」居丈高な口調で真っ先に切り出したのは、バグハート家からハッシバル家に降り、そのまま宮廷の儀式を司る役職に留任した人物だった。バグハート家時代にはアンティルより高い官位に就いており、当時から何かと言えばアンティルを侮ったり見下したりしていた男である。そういう人間からすれば、郎という低い地位にもかかわらずアンティルがティルドラスから大きな信頼を得ていることは我慢がならないのだろう。「自分が伯爵の信任を得るに足る人物であるとでも思っているのか!」
しかし、彼の言葉にアンティルは静かにかぶりを振る。「人の賢愚は、当人が自分をどう思っているかで決まるものではありませぬ。例えば私が自分を天下に並びない才の持ち主であると自賛したとして、それが伯爵から信任をいただく理由になりましょうか。失礼ながら、今のお尋ねは無意味なものかと存じます。」
「う……。」相手は言葉に詰まる。
「率直に言って、我ら一同、あなたがどういう方なのかを良く存じ上げぬ。まず、伯爵を輔(たす)けるにあたって、あなたがどういうお考えをお持ちなのかお聞きしたい。」イックが言った。
「まずは衰えた国を立て直し、民を安んじる必要がございます。官吏の腐敗を除き、法を公正に執行し、さらに民に生業を与え、国を富ませる。これが当面の課題でございましょう。」
「なるほど。」イックは気のない様子で頷く。
当たり前のことではないか。もっともらしく言うほどのことか――。そんな空気が周囲に広がりかける中、アンティルは言葉を続ける。「ただ、そこに止まるべきではありませぬ。我らが目指すべき道は、さらなる高みにございます。」
「その高みとは?」
「そもそも、アシュガル執政官家の跡目争いに端を発したジミルの乱以来、天下は戦乱の巷となり、民が苦しむこと実に二百年に及ぼうとしております。その苦しみを終わらせることができる君主は、私の見ますところ、ティルドラス伯爵をおいて他にございますまい。ならば、伯爵を輔(たす)け天下を平らげて乱世を終わらせる事こそが、我らに与えられた使命かと存じます。」
突然、話の内容があまりに破天荒なものになったことに顔を見合わせる列席者たち。「それはつまり……、我ら一同、力を合わせて開祖の時代の栄光を取り戻すべきとのお考えなのか。」一人の老官吏がおずおずと尋ねる。
しかしアンティルはかぶりを振る。「残念ながら開祖の偉業は開祖お一人の卓越した才に依存したもの。所詮、長く続くものではございませんでした。我々が為すべきは、二度と戻らぬ過去を懐かしんでそこに帰ろうとすることではなく、開祖が為し得なかった事を、新たな道を切り拓くことによって達成することにあります。」
混乱はさらに大きくなる。一介の雑兵から身を起こして一代で天下の半ばを平定した開祖・キッツ伯爵。その時代の栄光を取り戻すことはハッシバル家にとっての夢であり、目指すべき目標だった。だが、アンティルは明確にそれを否定し、別の方法で、さらに大きなことを成し遂げるべきと言うのである。
「一つ伺いたい。」広間全体に戸惑いの声や怒号までもが広がる中、リーボックが発言を求めて手を挙げた。「あなたが仰るように天下を平定するとすれば、兵をいかに用いるかが重要となるが、何か方策はお持ちか。」
「兵の鍛え方、陣の張り方、戦場にあっての軍の指揮、自ら武器を取り戦う術(すべ)、そうした事については残念ながら私は何のお役にも立てませぬ。私ができるのは、戦に関する大事・中事・小事それぞれについて皆様の助けとなることのみでございます。」アンティルは答える。
「その大事とは?」
「大事とは、他国と誼(よしみ)を結んで後顧の憂いを除き、戦うべき時・戦ってはならぬ時を見極めて伯爵に進言を行い、勝利を有効に利用し、敗北の悪影響を最小限に止め、新たに得た土地の民を懐(なつ)けて国の力を保つことを意味します。」
「それは国主を補佐する者には当然のこと。中事・小事について伺いたい。」
「中事とは、武具を作り兵糧を整え、疫病の発生を防いで軍の状態を万全に保つこと。小事とは、歩きやすく疲れにくい靴、軽くて暖かい服、携行しやすい糧食などを工夫し、個々の兵が最大限の力を発揮できるようにすること。それらを積み重ねることにより、他国に対して優位に立つことができましょう。」
「あなたは医者でもあると聞いている。病気の発生を防ぐことができると言われたが、それはまことか。」
「医学は万能ではありませぬ。防げる病気と防げぬ病気があり、治せる病気と治せぬ病気がございます。ただ、例えば壊血病であれば、すぐにでも治すことは可能で、予防の方法をお示しすることも容易でございます。」
「壊血病を――!」息を呑む列席者たち。