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ティルドラス公は本日も多忙④ 都ケーシの宮廷で(34)

第七章 諸処点描しょしょてんびょう(その4)

 もっとも、その当の人物――アンティル本人はオーエンの考えなど知るよしもなかったし、たとえ知ったとしてもそれに構っている暇などなかったろう。
 ここはマクドゥマルにほど近い旧バグハート領の海辺、ティルドラスが猟場という名目で所有する荒れ地である。人気のない波打ち際の一角に真新しい煉瓦造りの建物が何棟か建ち並び、屋根の煙突から煙を吐き出し続けていた。少し離れた場所ではいくつもの風車が回り、建物の周囲では荷車を引いた人足や工具箱を抱えた工匠たちが慌ただしく行き来する。周囲の荒涼とした風景の中で、この周囲だけが何やら場違いな雰囲気を醸し出していた。
 今アンティルはその煉瓦造りの建物の一つにいる。彼の前では火が消されたばかりの大きなかまどにかけられた大きな釜が、まだ熱気を持って湯気を上げていた。その釜の中からすくい取られた白い何かが、小皿に盛られて彼の前に差し出される。
 「良いでしょう。」差し出された皿の上のものを一つまみ口に含み、アンティルは頷く。「製法の改良でさらに品質が上がりました。おそらく、この品質の塩をこの価格で売る者は、天下広しといえども他にはおりますまい。」
 ここで生産されているのは塩である。
 言うまでもなく塩は人間にとって不可欠の物資である。だが当時のミスカムシルの民たちにとって、塩は決して手軽に入手できるものではなかった。
 海水を煮詰めて塩を作ること自体は、各地の海岸沿いで広く行われている。しかし、ただ海水をそのまま使うだけでは手間がかかる割に少量の塩しか取れず効率が悪い。そのため、炎天下の砂の上に海水を撒いては人力でかき混ぜて水分を蒸発させ、その砂にさらに海水を通すなどして塩分を濃縮してから煮詰める方法が取られている。しかし、この作業は重労働で(「塩奴えんど」と呼ばれる奴隷同然の季節労働者が作業にあたったものの雇用者である製塩業者からの扱いは極めて過酷であったと『ミスカムシル史大鑑』食貨志は伝えている)、季節や天候にも左右され、燃料に使う薪炭の費用もかさみ、さらに内陸部では輸送費や仲買人の手数料も上乗せされることになって、庶民にはおいそれとは手が出せない価格になるのだった。
 もう一つの塩の供給源は岩塩である。この時代、岩塩の産地として全ミスカムシルで最大の生産量を誇っていたのはオーモール領内にあるロンヌシュマスの岩塩鉱山だった。だが、ここで採掘される岩塩は不純物が多く非常に品質が悪いことで知られている。この塩を口に含むと口内の粘膜が荒れ、肉を塩漬けにすると鮮やかな赤色になったというから、おそらく不純物はアルカリ性の硝酸塩だったろう。
 逆に品質の良い岩塩が採れるのは、その名も「塩の山」を意味するウェスガー領のシェボンプル岩塩鉱山だった。こちらは険しい山あいにあり、採掘や運搬に多大な経費がかかる上、積み出し港であるシェボドゥマルの港が一時的に隣国・デクター家の支配下に入って出荷が滞るなど流通上の問題もあって、ここ数年、事実上入手できない状態となっており、在庫品の価格も暴騰している。
 その上に、商人、さらに塩の流通に関する特権的な地位を与えられた人間たちによる中間搾取が加わる。例えばケーシの貴族であるキールン=ズーシュタインという人物(このあとすぐ登場することになる)はオーモール領からティンガル王家直領に運ばれる塩の取り扱いを独占する特別の許可を王家から与えられており、現在シェボンプルからの塩の供給がほぼ止まっていることに乗じて、オーモール領からの塩に法外な価格を上乗せして売りさばくことで莫大な富を得ている。ハッシバル領でも似たようなことが起きており、塩を扱う商人たちが結託して摂政のサフィアに取り入り、塩の販売に高額の手数料を取る許可を得て、それにより暴利を貪っていた。
 「塩の値段が上がり民が苦しむ今、塩を大量に作って安く売ることができれば、一つには伯爵に利をもたらすことができ、一つには民の苦しみを救うことにつながります。幸い、新たな製塩法により安く大量に塩を作ることには成功しました。まずは上々の滑り出しと言えるでしょう。」アンティルは言う。
 彼が開発した製塩法は、一般に行われている海水からの製塩とは比較にならないほど省力化・効率化されたものだった。風力を利用して貯水槽からくみ上げた塩水を節を抜いた長い竹の管に通し、管のあちこちに開いた小さな穴から水を噴き出させる。竹の管には目の細かい粗朶そだの束がくくりつけられており、噴き出した塩水は粗朶の束を伝って滴り落ちる間に水分を失って濃縮される。それを集めて再び濃縮する工程を繰り返し、最後に釜で煮詰めて塩を得る。さらに釜の形状を工夫して熱効率を高め、原始的な熱交換器により廃熱も利用するなど、生産効率は旧来の製塩法に比べ数十倍にも達した。だいぶ後の話になるが、アンティルの方法を真似て塩の製造を試みる者も現れたものの、アンティルの計算され尽くしたシステムを模倣しきれず、品質でも生産量でも経済性でも全く太刀打ちできずに消えていったという。
 「しかし、その塩を売り歩く役目を我らに与えられたのは何故なにゆえでしょう?」アンティルの傍らに立ったアゾル=ザッカが尋ねる。これまで試験的に作られた塩を、アンティルは彼の指揮するバグハート忍群の忍びたちの手で各地に売り歩かせていたのである。
 「理由はいくつかあります。」とアンティル。一つは情報の秘匿ひとくのためだった。ティルドラスが独自の収入源を得て自由に動かせる金を持つことは、当然摂政のサフィアにとっては面白くないはずである。場合によっては何らかの妨害を行ってくる危険性もある。そうした危険を避けサフィア一派にこちらの動きを悟られないようにしながら塩の販売を行うには、バグハート忍群は適任だったのである。
 また、治安の悪いこの時代、値段が高騰している塩を商品として多量に持ち歩けば盗賊などに目をつけられ狙われることになる。その点、自分と商品を守る腕を持った忍びたちであれば、さほど心配はいらない。
 さらに、塩の行商はそのまま情報収集や宣伝活動を行う際の偽装にもなる。実際、アンティルの命を受けた忍びの者たちの一部は国境を越えたケーソン領やミストバル領まで足を伸ばし、その地で塩を売りながら密かに現地の情報を集めてきていた。
 「これまで行っていただいた行商で、試しにつけた価格でも塩は売れ、なおかつかなりの利益が出せることも明らかになりました。これより本格的な生産に入ることとします。販売については、引き続きあなた方にお願いいたします。」アンティルは言う。
 そのあと、なおも建物の中をあちこち歩き回り、事細かに周囲に指示を飛ばしながら彼は考える。
 『伯爵、そろそろケーシに到着された頃でしょう。ミレニア公女との縁談については予断を許しませぬが――、どうやら多少の良い話はお聞かせできそうです。』
 そして話は再びケーシのティルドラスの元に戻る。

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