ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(28)
第六章 公子ジュベ(その3)
その頃、シュマイナスタイのさらに奥、アーネイラの岩屋の前では、ティルドラスとアーネイラがくつろいだ様子で語り合っていた。
「つまり、略奪は防げたのね?」とアーネイラ。前回の訪問時にティルドラスは、バグハート領内で自軍が略奪を行うのを防ぐため、アーネイラの訪問を口実にシュマイナスタイを訪れ、彼女の助けを借りて直接バグハート領内最前線のハッシバル軍本営に乗り込む、という行動を取っていた。
「なんとか防ぐことができた。アーネイラの助けがなければ間に合わなかっただろう。」頷くティルドラス。
「あの時は突然行ってしまって話もあまりできなかったから……。」アーネイラは少し拗(す)ねたような表情をしてみせる。「今日はゆっくりして行くんでしょう? 泊まっていくの?」
「迷惑でなければ。」
「別に構わないわ。カーヤ、ティルに部屋を準備してあげて。」
「かしこまりました。」アーネイラの言葉に頭を下げるカーヤ。
和やかに話す二人の背後にある岩屋の台所、そこでは今、かまどに鍋をかけ、バーズモンが何かの料理を一生懸命作っていた。
「畜生め。何だかやたら美味そうな臭いじゃねえか。」彼の背後で鼻をひくつかせながらハカンダルが言う。
「マクドゥマルの料理人から作り方を教わってきた、干した貝だの干し魚だのを使って作る炊き込み飯だ。やっぱり海の近くはいろいろと面白え料理があってためになるぜ。」忙しく手を動かしながら答えるバーズモン。彼が作っているのは、貝や魚の干物を水で戻し、その戻した水と魚介類に野菜やキノコ、香草なども加えて米を炊き上げる、我々の世界のピラフやパエリアに似た料理だった。「こないだティルドラスさまに作ってお出ししたらお気に召したらしくってよ、アーネイラさまにも作ってくれとさ。」
「ちょいと味見させろよ。」
「駄目だって。これはティルドラスさまとアーネイラさまのお食事なんだからな。盗み食いなんかしたら、それこそカーヤ婆あにひねり殺されらあ。それより兄貴、早く水を汲んで、薪を運んで来てくれ。そのためにいるんだろうが。」
その時、岩屋の外から、チノーが供の兵士たちに触れ歩いて回る声が響く。「今夜はここに野営することとなった。手の空いている者は準備にかかれ!」
「なあ、チノーさまだが……、ちょいと様子がおかしくねえか?」岩屋の窓から外を眺めながら、やはりバーズモンを手伝っていたケスラーが小声で言う。
「そうか? いつもと変わらねえと思うが。」とハカンダル。
「いや、確かに変だ。何か上の空で考え込んでて、さっきなんかティルドラスさまが声をかけたのに気が付かなくてよ。今だって、まるで魂が抜けたみてえな声に、地に足が付いてないような歩きっぷりだぜ。いつものチノーさまじゃねえや。いったいどうしちまったんだ?」
一方、岩屋の外ではティルドラスがアーネイラにバグハート領での出来事を語っていた。彼が語るのは、勝ち戦の自慢ではなく、主にバグハート領の文物や風俗、ハッシバル領との違いといった話題である。「海の近くなので食べ物もだいぶ違ったな。今、中でバーズモンがバグハート領で覚えてきた料理を作っているから、アーネイラも味見してみるといい。」
「楽しみだわ。それで、行って一番良かったと思うことは何?」
「見聞を広められたこともだが、やはり人材、特にアンティルを得られた事だと思う。今日ここに連れてきて引き合わせられなかったのが残念だ。」今回、アンティルはティルドラスに同行していない。例の、ティルドラスの私領となった海辺の地に何かを作るとかで、宮廷を離れてマクドゥマルに出向いているのである。
「ふうん。ティルがそこまで褒めるなんて、私も会って話を聞いてみたいわね。」考え込むアーネイラ。
その時周囲に、虫とも蛙ともつかない何かの声が響き、アーネイラの傍らでかしこまっていたカーヤが顔を上げる。「メルギウルかい?」アーネイラに仕える魔神の一体で、姿を現すことなく、常に声だけが聞こえてくる存在である。魔神には珍しく人の言葉も話すものの、その話し方はぎこちなく、カーヤとのやりとりは、主にこの鳴き声のような声で行っていた。しばらくメルギウルの声に耳を傾けていたカーヤだが、やがてアーネイラの方を振り向いて言う。「お姫(ひい)さま、どうやら、森に入った者がおるようでございます。行って見て参ります。」
同じ頃、シュマイナスタイの別の場所では、ジュベが途方に暮れた表情で、手近な倒木の上に腰を下ろしていた。
『どうする?』とりあえず太陽の位置を頼りに、帰り道とおぼしい方角に向かって進んだものの、いくら行っても森を抜け出せる様子はなく、むしろ進めば進むほど森の奥に迷い込んでいくような気がする。
そのジュベの視界の端を、黒い毛玉のような体に鳥のような足をもった見慣れぬ生き物が素早く走り抜ける。森の外では見たことがない生き物である。そこから少し離れた場所には、恋人なのか兄妹なのか、怯えたように寄り添った姿勢のまま石と化した若い男女の姿があった。
『自分もここで、このまま石になるのか。』さすがに青ざめながらジュベは思う。
もし自分があの時、ハッシバル家と戦うことなど考えず、父の言葉の通りネビルクトンに、ティルドラスのもとに送られることを承諾していたならば――。
だがそれは、単なる人質ではない。父は敢えて口にしなかったが、自分がティルドラスのもとに赴くというあの言葉には、さらに深い意味が込められているのだ。
『父上……。私はどうすれば良かったのですか。』目にうっすら涙を浮かべながら、ジュベは心の中でつぶやいた。
と、その時、すぐ近くで、がさがさと藪をかき分けながら何かが近づいてくる音がする。「―――!」跳ね起きるように立ち上がり、腰の剣に手をやるジュベ。その目の前で藪が揺れ、灰色の服を身にまとった一人の老婆――カーヤが姿を現した。
「何やつ!」油断なく身構えながらジュベは言う。
「この森に住む者だよ。森に迷い込んで困ってるんじゃないかと思って来てやったんだ。別に取って食いやしないから安心おし。」とカーヤ。
「………。」ジュベは警戒を緩めない。いきなり襲いかかって来たりはしなかったものの、この森に住んでいるというだけで、普通の人間ではないことは明らかだった。見た目も、人間のように見えてどこか様子が異なる。どうやら人外の者のようである。
「で、あんたは何者なんだい。カイガー家の紋章だね。」ジュベを無遠慮にじろじろ眺めながらカーヤは言った。
「私はカイガー家の公子、ジュベ=カイガー。」ジュベは名乗る。「狩りに来たところ獅子狒(ラブーン)の群に襲われ、供の者たちとはぐれてここに来てしまった。」
「そうかい。」カーヤは疑わしげな表情だった。「この森の近くまで狩りに来るなんて、ずいぶんと向こう見ずだね。運良くあたしに出会わなければ、森の中を彷徨(さまよ)った挙げ句に、石人の仲間入りをしてたところだよ。わざわざこの辺りまで来ないといけないほど、カイガー領には獲物がいないのかい? だいたい、このあたりはもうハッシバル家の領地ということになっている。よその国の公子だか公女だかが来るような所じゃないよ。」
彼女の言葉に気まずそうに目をそらすジュベ。
「革の鎧に、頭には兜代わりの金輪、軍用の剣。あまり狩りの出で立ちには見えないね。まるで敵陣の様子を探りにでもきたような格好じゃないか。」カーヤは続ける。
「………。」ジュベは答えないままだった。
「まあいいさ、あんたがどういう了見でやって来ようが、この森に住むあたしたちには関係ないことだ。ただ、お姫さまへの挨拶くらいはしておいてもらおうかね。ついておいで。」そしてカーヤはジュベの前に立って歩き出す。
『お姫さま?』内心考えるジュベ。『そういえば聞いたことがある。石人の森の奥深くに、何者とも知れぬ妖しの者が暮らすとか。ついて行って良いものか……。だが、このままでは森を抜け出すことができない。――やむを得ん。』意を決して馬の背にまたがり、ジュベは彼女の後を追う。