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ティルドラス公は本日も多忙⑤ 嵐の年、国滅ぶ時(23)
第五章 敵地への帰還(その3)
さらに十日近くの旅を続けて、ティルドラスたちはネビルクトンへとたどり着く。季節は秋から冬へと移りつつあり、冷たい風が吹きすさぶ中での帰還である。
冷たいのは風ばかりではない。宮廷の雰囲気もまた冷たいものだった。伯爵家の重臣たちも、居並ぶ小吏たちも、彼を迎える態度はどこかおざなりでよそよそしく、どうかすると厄介者が戻ってきたかのような表情をあからさまに見せることすらあった。
何やら見知らぬよその国にやって来たような気分である。そんな中、宮廷に戻ったティルドラスは休む間もなくサフィアの前へと呼びつけられる。
「参朝の大任を果たされつつがなくお戻りになられたこと、家臣一同に代わりましてお喜び申し上げます。」自身は椅子に腰を下ろし呼びつけたティルドラスは立たせたまま、棒読みのようにサフィアは切り出す。むろんそんな言葉は建前で、本心ではティルドラスが戻ってくることなど望んでいなかったのだろう。
「留守中の国政、さぞや心を労されたこととお察しします。今後は私が叔母上に替わって国政を担う所存ですので、どうかご安心ください。」こちらも多少皮肉めいた口調で答えるティルドラス。
「ともあれ無事に王への拝謁もかない、旧バグハート領を引き続き領有することへのお許しも得られたのは何よりでございました。王家の姫との縁談がならなかったのは残念とはいえ、今後良縁もありましょう。気を落とされませぬよう。」とサフィア。「そのことについて、先日、マッシムー家で次男のミギル公子が父のドゥーガル伯爵より位を譲られて新たに伯爵となったとの報せがございました。それに伴って、ミギル新伯爵とトッツガー家のミレニア公女との婚約が整ったことが両家から公表されております。」
「!」彼女の言葉に呆然と目を見張るティルドラス。
「王家から正式のお許しも得ての縁談とのこと。」動揺する彼を冷ややかに見やりながらサフィアは続ける。「伯爵におかれましても、これを機に、いつまでもミレニア公女との過去の婚約に執着されることなく、新たな縁談をお考えくださいませ。」
「………。」サフィアの前に出るまでは、彼女の言葉を決して唯々諾々と受け入れるようなことはするまいと固く決意していたのだが、のっけから一番気力を削がれる話を持ち出されてティルドラスは戦意を喪失する。悔しいが、こうした人の心を折る手腕にかけてはサフィアの方がはるかに上手である。
そのあと意気消沈したまま留守中の国政についての報告を受けるティルドラス。報告といっても、サフィアが自分に都合の良いように行った政策や人事のことを一方的に知らされるだけである。――旧バグハート領も含めた伯爵領全土に新たな銅銭の使用を義務づけることにした。これにより伯爵家の財政は潤い、民の暮らしも豊かになるに違いない。キーユ子爵を父祖の地であるメトスナップに封じシーエック家を再興していただく運びとなった。これはルロア太夫人への伯爵の孝心を天下に示すためでもある。旧バグハート領に数多く存在する、住民たちが入会地として薪や牧草を採るために使用していた主のない山林や原野は全て伯爵家の御料地として差し押さえることとする。ここから得られる税収により伯爵家はさらに豊かになるであろう。――。
「伯爵がお側に置いておいでのサクトルバスでございますが、以前より伯爵が望んでおられました通り、奴隷の身分から解放することとしたいと思います。」国事についての話が一通り済んだところでサフィアは突然に話題を変えてくる。「チノーからも報せを受けております。アシュガル領では闘技場での試合で天下に名高いムーン・ガリアンの両将に勝利して我が国の武威を輝かせ、ケーシでは見事な剣舞を王のお目にかけてもったいなくもお褒めのお言葉を賜ったとか。左様な武勇の士を、いつまでも卑しき身分のままに置いておくわけには参りますまい。奴隷の身分から解き放ち、改めて伯爵家の武官として正式に登用すべきかと存じます。」
「それは大変によろしいと思いますが――。」戸惑うティルドラス。これまで何かと理屈をつけてはサクトルバスを解放することに反対していたサフィアが唐突にこんなことを言い出すなど、いったいどうした風の吹き回しだろう。
「そのことについて、ちょうどムカッラの屯営に曹の欠員がございます。サクトルバスを一足飛びに曹に任官させ、彼の地に赴任させて大いに役立ってもらうことといたしました。既に辞令も出来上がっております。」
「!」ムカッラはハッシバル領の北部、メトスナップからティルムレチスへと向かう街道から少し奥まった場所にある小さな屯営で、そもそもサクトルバスの武勇が求められるような場所ではない。明らかにサクトルバスを自分から引き離すためだけの人事である。「それは困ります。彼は護衛として私の身近にいてもらうのが役目。お考え直しください。」思わずティルドラスは声を上げる。
「それは他の者でも務まりましょう。今になって取り消すことはできませぬ。そもそも伯爵をお守りするのは虎賁の兵の役目。伯爵がご自身の独断で警護の者を任命されて身近に置かれては、虎賁の兵の間に無用の混乱を招くこととなります。」
「いや、しかし――」
「話は以上でございます。お戻りくださいませ。」サフィアがそう言って手元の鈴を鳴らすと同時に二人の廷臣が現れ、有無を言わせずティルドラスをサフィアの前から退出させる。
私室へと向かいながら、ティルドラスは混乱する頭で考える。自分の護衛は虎賁の兵に任せるべきと言うが、虎賁はサフィア一派であるジニュエの指揮下にある。彼らに警護を任せると言うことは、サフィアの命令一下、いつでもティルドラスを拘束し連れ去ることができるということに他ならない。
恐れていたことが現実になってしまった。キーユの言った通りである。どうやらサフィア一派は自分を追い落とすための最後の仕上げに入ろうとしているらしい。
私室に戻った彼は慌ただしくサクトルバスを呼び、サフィアから聞かされた話を伝える。「それは――」さすがに驚いた表情になるサクトルバス。
「正直、私もどうすれば良いのか見当がつかない。アンティルの知恵を借りるしかなさそうだ。」
アンティルは既に控えの間で待機していた。直ちに呼び出され、ティルドラスを迎える挨拶さえ途中で遮られて、これまであったことの説明と相談を受けたあと、アンティルは頷く。「なるほど。いよいよ自分たちの本心を露わにして参りましたな。」
「どうしたものだろう。」途方に暮れた様子でため息をつくティルドラス。