ティルドラス公は本日も多忙⑤ 嵐の年、国滅ぶ時(3)
第一章 ケーシを後に(その3)
この御苑を初めとする王宮内の遊休地を仕事もなくぶらぶらしている冗員の手で開墾して畑にすれば年間数百石から一千石以上の収穫を見込むことができ、それを紙くず同然の紙幣に代わる現物支給の形で小役人たちに俸禄として与えることで彼らの苦しい生活を助け、さらに重い租税と遠方から宮廷に農産物を輸送する労役に苦しんでいる直領の農民たちの負担も軽くすることができる――という建白書を提出したのは昨年の末のこと。小さなことではあるが、それでも領民や小役人たちにはいくらかの助けになるのではと思っての献策だった。しかし彼の考えが取り上げられることはなく、それどころか王宮から二人の捕吏が逮捕状を持ってティッハヤーの城までホーシギンを捕らえに来た。
逮捕状には、王の名で発行される紙幣を「紙くず」と呼んだ不敬の罪、同じく王の所有になる御苑を損壊させようとした王室財産毀損の罪、朝廷の政道を批判した誹謗の罪、直領の農民たちが王家を恨んでいるような風説を流した流言の罪、その他十あまりの罪状が並べられていた。幸い、上司のマシスガーが捕吏を追い返し、朝廷の各所にも取りなしてくれたため辛うじて投獄・免職は免れたものの、俸禄の二割を削られた上に一か月の自宅謹慎を食らった。
『まだ救えるかもしれぬと思っていた。あの時までは……。』天を仰ぎながらホーシギンは考える。『王家を、朝廷を、そして民たちを救う道が、まだどこかに残されているのではないかと考えていた。だが残念ながら、もはや今の朝廷は救うことすら叶わぬところまで墜ちてしまっている。たとえ身を捨て、あらん限りの知勇を振り絞ったところで何一つ変えることができぬまでに腐りきっている。』
秋の風がざあっと音を立てて吹き過ぎ、御苑の木々の葉を舞い散らす。「秋深まれば草花は枯れ、木々は葉を落とさざるを得ない。それもまた天の時か……。」ホーシギンはため息をつく。
乱世はいよいよ混迷の度合いを深めつつある。その天の時を覆せるほどの地の利は、直領は寒冷で土地は痩せ大きさも子爵の国並みというティンガル王家にはない。何よりも、人――そこに住む人間たちが、どうしようもなく時代から取り残されてしまっている。この小さなティンガル王家直領の都に過ぎないケーシの、外部から隔絶された一角でしかない宮廷があたかも世界の中心であり、この世の全てが自分たちのためにあるような錯覚に囚われたまま、時代の中で朽ち果てようとしている。
『ティンガル王家に乱世を救う力はすでにない。救うべき意思もない。このままこの地にいたところで、才を振るう機会さえ与えられることはないだろう。』
周囲の人間たちは、上司であるマシスガーさえも、自分を世間から距離を置いた欲心のない人間と思っているのかもしれない。だがそれは違う。本来自分は功名心も名誉欲も人一倍強い人間なのだ。世間の人間たちが欲するような実力の伴わない虚名や身の丈に合わない地位を望まないというだけで、自分の才を存分に天下に振るい、それによって功名を立て名声を得たいという気持ちは人並み以上に持っている。しかし今のティンガル王家にそれを望むのは無理だろう。だとすれば――。そう考える彼の耳に、ティルドラスの言葉がよみがえる。
――あなたほどの人物が――
これまでの人生で自分の才を認めてくれた人物はマシスガーとティルドラスだけだった。『衛門校尉、あなたに受けたご恩は生涯忘れませぬ。しかし、残念ながらここは私の居るべき場所ではないようです。お別れする時が参っておるのやも知れませぬ。』マシスガーのことを思い浮かべながら、ホーシギンは心の中でつぶやく。
同じ頃、宮廷から離れたケーシの一角でも、この地を去ることを決めた者がいた。今、ここアークシー家の邸宅では、ミッテルが父・コンジュに向かって自分の決意を打ち明けていたのである。「父上、私はティルドラスと共にハッシバル領に赴こうと思っています。」
「……そうか。」しばらくの沈黙のあと、良いとも悪いとも言わずコンジュは口を開いた。「確かにティルドラス伯爵は血縁だが、一方で我が一族とハッシバル家はかつて存亡を賭けて戦った仇敵の間柄でもあるのだぞ。それでも行くか。」
「ならば、血縁として手を携え共に天高く飛翔するもよし、それが為らぬのであれば、相手の油断を見計らって寝首を掻き、積年の遺恨を雪ぐも良いでしょう。いずれにせよ、衰亡するケーシに恋々と留まって朝廷と共に朽ち果てるより、ティルドラスを伝手としてエル=ムルグ山地に乗り込み、その新天地で志を延べたいと私は考えるのです。」ミッテルは言う。
「決意は固いのだな。」
「はい。」
「兄上、僕も一緒に行く。」と、傍らからミッテルの弟のグロリオが声を上げた。
「グロリオ!」少し驚いたような表情で弟の顔を見やるミッテル。
「兄上がティル兄上を助けるみたいに、ナガンにだって助けが必要だと思うんだ。だから僕も付いていく!」
「そうか、お前はナガンと仲が良かったな。」少し哀しげな表情でかぶりを振りながらミッテルは言う。「だが、僕がすることは必ずしもティルドラスやナガンのためばかりではないかもしれないぞ。時と場合によっては彼らを裏切っても良いとさえ考えている。それでもいいのか。」
「もしそうなったら――、僕が二人を兄上から守るよ。」グロリオはそう言ってにっと笑った。
「良かろう。」ため息をつくような口調でコンジュは頷く。「いずれにせよ、このままケーシで、ただ朝廷への願い事を取り次ぐだけの使い走りを続けたところで先は見えている。それは儂も感じていた。お前たちにどのような運命が待っているかは分からぬが、おのおの信じた道を進むが良い。」
一方で、ティルドラスのもとに残るか去るかの選択を迫られる者もいる。場所は変わってティルドラスが滞在するロフトルザム親王邸、その台所の片隅ではバーズモンが一人の人物と向かい合っていた。彼の名はイータ=サバーン。親王家の料理長である。
「なあバーズモン、考え直す気はねえか。」難しい顔でサバーンが言う。「前も言ったが、伯爵さまにお暇乞いしてこのままケーシに残れ。ちょうどこのお屋敷の料理番の第三席に空きがある。そこに収まってもっといい話が来るのを待ったっていい。悪い話じゃなかろうが。だいたい、お前は料理人としてお仕えしてるわけじゃなくて肩書きは下っぱの兵士だろう。お暇乞いすればすんなり認められるはずだ。何ならお前を譲ってくれるよう奥方さまから伯爵さまに話を通していただくことだってできる。」
「………。」
黙り込むバーズモンには構わず、サバーンはなおも続ける。「こないだの季節変わりの小宴の料理にしても、王さまはじめどなたからも軒並みお褒めをいただいた出来ばえじゃねえか。世間じゃまるで俺の手柄みてえに言われてるが、ありゃあ八割がたお前が作ったもんだ。お前なら間違いなくケーシでも料理人としてやっていける。朝廷の高官がたのお屋敷や、もしかしたら王宮や王妃宮の料理番の声だってかかっても不思議じゃねえと俺ぁ思うんだ。だからケーシに残れ。」
「ありがてえお話なんですが、ティルドラスさまには以前命を助けていただいた恩がありましてね。」バーズモンが口を開く。「今、ティルドラスさまは摂政のサフィアさまとうまく行ってなくて、事によるとお食事に毒でも盛られかねない有様なんです。誰か信用のできる人間がお食事を作って差し上げねえと、危なくて見ていられねえんです。俺ぁやっぱり、ティルドラスさまに付いてハッシバル領に帰ることにしますよ。」
「そうか。残念だ。」哀しげにかぶりを振るサバーン。
「そうやって俺を見込んで下さった上に、いろいろ教えていただいて、ご恩は決して忘れません。」席から立ち上がり、バーズモンはサバーンに向かって深々と頭を下げる。「せめてものご恩返しに、次の宴席では精一杯腕を振るってお見せします。」