見出し画像

ティルドラス公は本日も多忙⑤ 嵐の年、国滅ぶ時(22)

第五章 敵地への帰還(その2)

 「摂政たちは大喜びしているがな。ミレニアとの縁談がならなかったことで、君がトッツガー家の後ろ盾を得て自分たちに楯突くこともなくなった。おそらく今後、これまで以上に露骨に君をないがしろにしてくるぞ。いや、もう既にそうなっている。」そしてキーユは現在のハッシバル家の情勢について説明する。旧バグハート領で悪銭の流通に伴う悪影響を緩和するためティルドラスが発行した引換証は銅銭との交換が停止され、サフィアが発行した悪銭の使用が伯爵領全体に強制されている。それに乗じて商人たちが商品の値上がりを見込んで売り惜しみをしたり法外な価格をつけて暴利を貪ったりしており、さらに、サフィアが(ティルドラスの名で)次々に課す重税が民たちを追い詰める。結果として伯爵領全体に不穏な空気が漂い始めており、各地で強訴や暴動も頻発するようになっているという。「にもかかわらず摂政たちがやっていることといえば、君に同情的な官吏を次々に罷免・左遷して、後任に自分たちに媚びへつらう人間たちを据えることばかりだ。漏れ聞くところでは君を廃する議論さえ始まっているらしい。」
 「もしそのような動きがあったとしても、残念ながら驚きではないな。」議論どころか、ミストバル家に立ち寄った際に、既にフォージャー家に身を寄せているダンを迎えてティルドラスを廃する策謀が進められているとアブハザーン侯爵から警告を受けたのだが、そのことは明かさないままティルドラスは頷く。
 「せめてこのメトスナップ周辺の私領では民を懐けて事が起こらぬようにしようとは思うが、ハッシバル領全体が動乱に巻き込まれてしまってはそれも焼け石に水だ。」一応いざという時に備えてティルドラスを助けられるだけの兵が集められないかとも考えたものの、この居館を守ることさえ難しい人数しか集められそうにないという。「それでも、君の手兵とこの居館があれば何かできるかもしれない。取りあえず守りを固めるために居館の周囲を堀で囲う普請を始めることにした。」
 「堀で? よく叔母上が承知したな。」とティルドラス。堀の工事は人目につく。周囲に知られぬよう隠れて行うことはできない。当然サフィアたちにもその動きは知られているはずである。
 「シルケントスが摂政のもとに赴いて交渉してくれたのだ。周辺の安寧のため居館の守りを固めてこの一帯の押さえとなるようにしたいと持ちかけ、先方の了承を得た上にいくらかの資金まで引き出してくれた。そもそも堀で居館の守りを固めることも彼の発案だ。」
 「ふむ?」ティルドラスは少し考え込む。一見、うまく交渉してこちらに有利な条件を引き出したかのように見える。だが何かがおかしい。サフィアたちにしてもキーユがティルドラス側の人間であることは承知しているはずで、そのキーユがこの時期に居館の守りを固める普請を始めるということは、当然自分たちに対して抵抗する意図があってのことというのも分かっているはずである。にもかかわらず、なぜあっさりと認めたのか――。
 堀は外敵の侵入を防ぐためだけのものではない。中の人間を外に出さないための役割もある。アブハザーン侯爵からの警告では、サフィア一派は廃位した自分をルロアと共にメトスナップの地に幽閉する計画でいるという。あるいはその堀は、自分とルロア、さらにキーユまでを、この館に閉じ込めて逃がさないようにするためのものではないか?
 それをキーユに進言し、さらにサフィアの許しを得ることにまで成功したというシルケントスの行動も、最初からサフィアの意を受けてのものだったとしたら――。そもそも、長年に渡ってキーユの身の回りの世話や子爵家の会計だけを主な仕事にしてきた彼が突然に居館の守りについての献策やサフィアとの交渉に関わり始めたということ自体、何か不自然なものを感じる。まさかと思うが、考えてみればサフィア一派がキーユの周辺に対しても調略の手を伸ばしてきたとしても何の不思議もない。
 「シルケントスだが――、彼にあまり秘事を打ち明けない方が良いかもしれない。彼本人ではなくとも、誰か彼の周囲に、叔母上の意を迎える者がいるような気がする。」短い沈黙のあとティルドラスは言った。
 「彼は曾祖父の代からシーエック家に仕える一族だぞ。彼自身も父上の代から我が家に仕えている。信用して良いと思うが。」驚いた表情になるキーユ。
 「私も確信があるわけではない。ただ、どうも気になるのだ。」そしてティルドラスは声を潜めながら続ける。「私自身の周囲でも、どうやらチノーまでが叔母上一派の誘いに乗ってしまった気配がある。当然、君の周囲の人間たちにも何らかの誘いの手が伸ばされていると考えるべきだ。」
 「チノーが……!」息を呑むキーユ。
 「完全に叔母上の側についたわけではないようだし、彼自身も叔母上のために働いているつもりはないようだが、それでも上手く操られて結果的に叔母上を利するような行動を取らされている。おそらくアンティルへの対抗心につけ込まれたのだろう。」
 「うーむ。」彼の言葉にキーユも考え込む。「チノーまでがあちらに取り込まれたとすると、確かに油断はできないな。用心しよう。」
 「君がネビルクトンを追われたことは残念だが、実は良い面もあると思うのだ。」ティルドラスは続ける。「以前アンティルが言っていた。叔母上に対抗するためには、叔母上に支配された宮廷の内部ではなく宮廷の外に自身の勢力を築くようにと。君はしばらく隠忍自重して、この地で力を蓄えるようにしてほしい。遠くない将来、君の力を借りることになるだろうが、その時は頼む。」
 「分かった。どこまでできるか分からないが、やれる限りのことはやってみよう。」
 「あと、叔母上たちとの争いが本格化すれば、おそらく私は母君の傍らにいることができなくなる。母君が君のもとで暮らすことになるのはむしろ心強い。しっかりとお守りしてほしい。せめてもの助けになるよう、いくらか手兵を割いてこの地に送るつもりだ。」
 「任せてくれ。」キーユは大きく頷く。
 そのあと細かな部分を遅くまで話し合い、翌日の朝早く、ティルドラスは館を出立する。別れ際にキーユが彼に歩み寄ると、小さな声で囁いた。
 「摂政たちがどんな手を使ってくるか分からない。くれぐれも警戒を怠らないでくれ。」
 彼の言葉に黙って頷き、そのまま馬に乗って歩み去るティルドラス。キーユが変わらず自分の側にいてくれることを確認できたのは大きな収穫だったが、一方でサフィア一派の手があらゆる場所に及んでいることを改めて感じさせられた。果たして自分は彼らに勝って国権を取り戻すことができるのだろうか?

いいなと思ったら応援しよう!