ティルドラス公は本日も多忙① ハッシバル伯国は事もなし(14)
第四章 石人の森(その4)
「!」
アーネイラの腰から下は石だった。座った姿勢のまま、身につけたどこか大時代な袴の生地の皺一つまでが、森の中で見たあの石人たちと同じ灰色の石に変わっている。「………。」彼の視線に気付き、アーネイラは悲しそうに目を伏せた。
しばらく無言でいたティルドラスだが、やおらアーネイラに歩み寄ると、身をかがめて彼女の腰に掌を当てる。「!」思わず顔を赤らめるアーネイラ。その横からカーヤが彼の頭をはっぱたく。
「痛い。」
「何をするんだい! あんたまでが。」怒鳴るカーヤ。「寝ぼけるんじゃないよ!」
「いえ、別に寝ぼけてはいません」とティルドラス。「見たところ何かの呪いのようですが……。」
「だから何なんだい。」
「実は以前、学問を習っていた師匠から、オリディオン家伝来の治癒魔法と解呪魔法も伝授されました。もしかすると、それで呪いを解くことができるのではないかと……。」
「あんたがこの呪いを解くだって?」カーヤは軽蔑したような口調で言う。「生意気言うんじゃないよ! どうせ貴族の息子が、通り一遍の方術を習っただけのくせして。そもそも、あんた今までに本物の呪いを解いた事があるのかい?」
「はい。」ティルドラスはうなずく。「この間、行在所の近くの農家がどこかの行脚僧にお布施をせびられたのを断って、腹いせに、家に蜚蠊が集まる呪いをかけられたので、それを……。」
「ふん! で、呪いは解けたのかい?」
「いえ。しかし移す事はできました。」
「かけた坊主に呪い返しをしたんだね。」
「それが、どう間違えたのか私の上に呪いが移って、そのあと三日ほど行在所が蜚蠊だらけ……。」
「話にならないね。」カーヤは舌打ちする。「だいたい、三日や十日で効きめが切れる呪いとこの呪いを一緒にするなんて……。まあやってごらん。あんたくらい腕がなけりゃ、逆にこっちも安心だ。呪いを変にこじらせて自分が石になる事もないだろう。ほら、あんた達はさっさと戻って寝てな。見せ物じゃないんだ!」
部屋を追い立てられる残りの五人。翌朝、目を覚まして起き出してきた彼らがアーネイラの部屋で見たのは、昨夜と同じ姿勢のまま彼女の傍らにひざまずいているティルドラスの姿だった。彼の方は徹夜の施術で気力も尽き果てた様子にもかかわらず、アーネイラの腰から下は相変わらず石のままで、何一つ変わった気配はない。
「そらごらん。」とカーヤ。「どだい、あんたに歯が立つ呪いじゃないんだよ。」
「でも、もう少しで何とかなるかも……。」肩で息をしながら、なおも術を続けようとするティルドラス。
「いくらやっても無駄さ。だから言わんこっちゃない。……まあそれでも、途中で投げ出さずに頑張ったのは感心だね。それに免じて今日の仕事は勘弁してやるから、部屋に戻って寝てな。」
「今日の仕事と言われますが、ティルドラスさまは伯爵家の公子――、」横から驚いたように口をはさむチノーをカーヤは一喝する。
「だから何なんだい! たかがネビルクトン程度の小城持ちの息子がお姫さまの前で大きな顔するんじゃないよ。よしんばティンガル王家の王子でも、あたしゃ遠慮はしないからね。嫌ならここを出て、勝手にどこへでも行くがいい。」続いてカーヤはハカンダルたち三人の方を振り向くと、命令口調で言った。「そこのでかいの、今から外で、昨日あたしが運んできた木の枝を払って、払った枝を薪の長さに鋸で挽いておきな。幹の方は後から炭に焼くから、手をつけずに残しておくんだよ。ひょろ長いの、あんたは外の井戸から台所の水がめに新しい水を汲んで、あと、鍋釜を洗っておくこと。太ったチビは廊下を掃いて、終わったら炕の煤掻き。道具は外の納屋に揃ってる。さあ、さっさとお行き!」はっぱをかけられて、慌てて外に飛び出していく三人。
「そこの坊やは……、そうだね、魚でも釣ってきてもらおうかね。」カーヤはナガンの方へと向き直る。「ここから歩いて半刻ほどのところに魚がたくさんいる沼地があるから、行って釣ってきな。道具は物置から適当に選んで、――リュケルノー!」カーヤの声とともに、アーネイラの右手の腕輪が輝き、昨夜の緑色の魔神が彼らの前に片膝をつく。「坊やを沼に案内して、あと、鰐だの蛟だのに襲われないように見ていておあげ。」
リュケルノーと呼ばれた魔神は、低くうなるような声とともに頭を下げた。
「それから、あんただけど……、」
「よろしければ、楽器なり歌なりでお二人の無聊をお慰めいたしましょう。」何か言おうとするカーヤに、チノーは自信ありげに胸を張る。「音楽は以前から何人かの師について研鑽を積んでおりますので、ご満足いただけるかと。」
カーヤは何やらあざ笑うような表情になると、座所の傍らにあった五弦の琵琶を取り上げ、それを奏でながら、静かに、しかし重々しく歌い始めた。
仰ぎ見れば大樹の梢は蒼天を覆い隠し
深き森は深閑として猿猴の声さえ無し
石人の森、人に知られざるの地
俗世の百年、この地に時を刻まず
伏して見れば地の青苔は重く闇を含み
影を渡る冷気は夏なお肌を刺す
石人の森、人の訪る能わざるの地
栄辱も治乱も、この地に届くこと無し
立ちて歩めば樹下の蹊は細く果てなく
幻影のごとく変じて人を迷い惑わす
石人の森、人の留まるべからざるの地
隠されたるその謎、秘して語るべからず
座して居れば木々の間には怪異の気配
満ち満ちる妖気は深く骨さえも冒す
石人の森、人の世に非ざるの地
触るるべからざる禁忌、この地に深く眠る
よく通る琵琶の音色と共に、思わず居住まいを正すほどの荘重さで朗々と響く歌声。驚嘆の目を見張りながら彼女の歌に聴き入るチノー。「で、何を聞かせてくれるって?」歌い終えたカーヤは皮肉たっぷりに彼の方を見やる。
「参りました。」チノーは頭を下げる。「驚きました。私などとても及びません。」
「そうかい。」にこりともせずに答えるカーヤ。「まあ当然さね。音楽がだめなら――、そうだね、他の連中が仕事を終えて汗を流せるように、風呂の用意でもしてな。さあ、さっさとお行き。」
「はあ。しかし参ったな。ティルドラスさまの秘書官ともあろう者が、こんな山家で風呂焚きとは……。」
「偉そうなこと言うんじゃない! 風呂焚きだって難しいんだ。だいたい、あんたは風呂より気持ちのいい音楽を人に聴かせられるのかい。聴かせられないだろ。……おや?」がみがみ怒鳴りながらチノーを部屋から追い立てた後、振り返ったカーヤが見たのは、床の上に転がって寝息を立てているティルドラスの姿だった。「やれやれ、とうとう音をあげたかい。まあいいさ。――ガルゴス!」
アーネイラの左手、黒真珠の腕輪が輝き、岩の塊のような昨夜の魔神が姿を現す。
「この坊ちゃんを部屋に連れていって寝かせてあげな。――逆さにぶら下げるんじゃない。起こさないように、静かに運んでおあげ。」
一つが座布団より大きそうな両の手にティルドラスを乗せて部屋を出ていくガルゴスを見送ったあと、カーヤは「お姫さま、」とアーネイラを振り向いた。「あの者たちでございますが、本当にここに置いてよろしいのでしょうか?」
「ええ。」微笑むアーネイラ。「行き場がないのも気の毒だし、何より、一緒にいて楽しい人たちだわ。ゆうべ私の呪いを解こうとしてくれたティルドラス公子にしても、一生懸命なのにどこかおかしくて、でもやっぱり一生懸命で――。こんなに楽しかったのは久しぶりよ。」
「何か失礼をしでかしそうで心配でございますが。」とカーヤ。「それに――。」
「そうね。」アーネイラは少し悲しそうな顔になる。「私たちと彼らでは、住む世界、時の流れ、全てが違う。楽しい時を過ごせば過ごすほど、別れは一層辛くなる……。それは分かっています。」
「少し外に出て参ります。」カーヤは一歩退いて深く頭を下げる。「ご用がございましたら、またお呼び下さい。」
岩屋の外に出たあと、木陰で仕事を怠けていたハカンダルとケスラーを怒鳴りつけ、仕事の勝手が分からずにまごついているチノーを叱りとばし、自分もこまごまとした用事を片づけながら、カーヤは井戸のところまでやって来る。井戸端ではバーズモンが、藁の束子で鍋釜を一生懸命に洗っていた。「手早い割に仕事がきれいじゃないか。」彼に声をかけるカーヤ。「たいしたもんだね。」
「ええ。」うなずくバーズモン。「昔、こういう仕事もしていたもんで。」
「おや、そうだったのかい。」
「俺、本当は料理番になりたかったんだよな。」バーズモンは言う。「十四の時に田舎から出てきて、床磨きや皿洗いから始めてあちこちを渡り歩いたあと、二十の時に、あるお屋敷の賄いの親方に見込まれて、一番下っ端の料理番に雇ってもらえそうなところまでは行ってたんでさ。それが兵隊狩りに捕まって、もう五年……。」バーズモンは釜を洗う手を止め、しんみりとつぶやいた。「誰もが生きていくだけで精一杯のこの時代に、料理番なんて滅多になれるもんじゃないのは分かってんだ。でもね、今ごろ小さくてもいいから自分の調理場を持って、それで生きていけたらどうだったか、って時々考えるんでさ。愚痴ですけどね。」
カーヤは黙ってその場を歩み去る。
それぞれがそれぞれの仕事を黙々とこなすうちに時間は過ぎ、やがて日が傾く。仕事が一段落し、井戸の回りに集まって一息入れるハカンダル、バーズモン、ケスラーの三人。そこに、釣りから帰ったナガンとリュケルノーを連れて、カーヤがやって来る。
「見て見て、大きな白鰱! 僕が釣ったんだよ!」リュケルノーが下げている二尺以上はありそうな魚を示しながら、ナガンがはしゃいだ声をあげる。「あと鯰が二尾と鯉が一尾、ザリガニと蛙がたくさん。すごいでしょ。いくらでも獲れるんだよ。もっと釣れそうだったけど、あんまり獲るのもかわいそうだから早めに帰ってきたんだ。」
「いい心がけだね。」カーヤはナガンの頭をなで、リュケルノーから魚を受け取った。「今夜は御馳走だ。」
「白鰱ですかい。こりゃあ上物だ。」彼女の手元をのぞき込むバーズモン。「大きい上に脂が乗ってまさあ。市で買ったら安くねえですよ。これだけ大きけりゃ頭だけでも一品できるな。皮や鰾からは煮こごりを取って、筍だの香草だのと寄せ物にすると美味いんですがね。」
「詳しいじゃないか。」とカーヤ。「何ならあんたが料理してみるかい?」
「本当ですかい!?」
「ああ。あんたの料理の腕を見せてもらうのも悪くないね。ただ――、お姫さまの御膳にも上がるんだからね。変なもの作ったら承知しないよ。」
「まかせといて下さい!」カーヤの言葉に目を輝かせるバーズモン。「白鰱の頭は煮つけ、身は素揚げにしてからザリガニの身と野菜入りのあんかけにしましょう。鯉は酢のきいたタレをかけた洗い、鯰の方は身を薄切りにしてから衣をつけて揚げ物がいいや。最後に残ったアラは大鍋でダシを取って、細切りにした蛙の肉に茸と山菜をたっぷり入れた羮(スープ)に――。ああ、そんな御馳走、今まで食った事があったっけか。」
「けっ。馬鹿じゃねえか。」興奮気味のバーズモンを横目で見ながらハカンダルは軽蔑したようにつぶやく。「たかが魚を料理するだけの事で浮かれやがって。ついてけねえぜ、全く。断っとくが、俺ぁ手伝わねえぜ。一人で勝手にやりやがれ、間抜けが。」
「何をぶつぶつ言ってんだい、ハカンダルの兄貴。」とケスラー。「食わねえのか?」
「いや、食う方はいいんだ。」
「何だよ、そりゃ。」
「そろそろ風呂が沸きますぞ。」岩屋の戸口のところからチノーが叫ぶ。「最初にどなたが入られますか。」
「ぼくが入る!」そう叫んで岩屋の方へと走り出すナガン。「兄上、もう起きた? 一緒に入ろう。潜りっこしようよ!」
しばらくはこのままでもいいじゃないか。彼らの心の中にそんな気持ちが芽生える。宮廷の陰謀からも爵位継承の争いからも遠く離れたこの森の中で、この二人のところで、静かに過ごすのもいいじゃないか――。
だが、そんな穏やかさとは裏腹に、伯国の北の国境では、今まさに、血みどろの戦いが始まろうとしていたのである。
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