ティルドラス公は本日も多忙⑤ 嵐の年、国滅ぶ時(16)
第四章 ヒルエンラムの小さな事件(その1)
ヒルエンラムはトッツガー家の国都・アシュアッカから南西方向に徒歩で十日ほどの距離にあり、「丘の岬」を意味するその名の通り、海に臨む丘陵に沿って広がる街だった。
ここはトッツガー家発祥の地である。本来トッツガー家はヒルエンラムを中心に小さな勢力を持っていた土豪の家柄で、ミスカムシル最大の勢力を誇る大国となった今も、この地は父祖の地として一族の聖地であり続けている。
この地には代々のトッツガー家の先祖を祀った霊廟があり、一族の男女は成人・結婚・家督相続・隠居といった人生の節目ごとにこの地を訪れて霊廟に参拝し、先祖の霊に報告を行うのが慣わしとなっていた。
そして今、ミレニアは二月ほど前から、父・イエーツに伴われてこの街の一角にあるトッツガー家の行在所に滞在している。目的は霊廟に参拝しミギルとの婚約を報告することで、むろん彼女自身が望んでのことではない。
ミギルがシンネタイで変事を起こし、兄を殺し父を隠居させて伯爵家の主となったという報せは、直後にこの地にも伝わっていた。
「万事順調に運んだか。さすがカフトよ。」アシュアッカのゾーファンから早馬で届けられた書状を一読したあと、イエーツはそう言って傍らのミレニアを振り返る。「これでお前も一国を領する君主の正室ということになる。めでたいことではないか。」
「………。」ミレニアは答えない。
「ほう、ケロス公子が逃亡したとな。」同時に届いた別の書状に目を通しながらイエーツは続ける。「ミギル伯爵がケロス公子を捕らえるため送り込んだ者たちが一人残らず返り討ちにあったというが、よほど腕の立つ者が付いておったと見える。場合によっては生かしておいて、ミギル新伯爵に何かあった場合の手駒とすることも考えておったが、気の早いことよ。」
「いかが対処いたしましょう。」傍らに控えていた軍師のフワナが尋ねる。
「そうさな。」イエーツは少し考え込んだあと、彼女を振り返って言う。「ケロス公子が生きておることは我が国にとって好都合な部分もある。マッシムー家の者がわが領内でケロス公子を探すことに便宜を図るのは良いが、我が家の者が探索に加わるのは控えるよう、そう指示しておくが良い。」
「承知いたしました。」頭を下げるフワナ。その間、ミレニアは一言も発しないまま、悲しみと嫌悪の表情を浮かべたまま顔を伏せ続けていた。
この地で日を送るうち、都・ケーシに使者として派遣されていた軍師のティルウィックが帰国し、直接この地に到着する。彼は、ミレニアとミギルの結婚を許可する旨の、ゴディーザム王直筆の勅書を携えていた。
「よし、待っておったぞ。」ティルウィックから報告を受けたイエーツは大きく頷き、傍らのミレニアに言う。「王家のお許しも得られた。参拝の際にこの勅書を読み上げさせれば、先祖の霊もさぞやお喜びになろう。お前も、いつまでもティルドラスに未練など持たず、ミギル伯爵との今後を考えよ。聞くところではティルドラスはケーシへの参朝中に、あろうことかお前を見限って王家の王女との縁組を画策しておったというではないか。」
「左様なことがあるはずはございませぬ。」ミレニアはかぶりを振りながら、はっきりとした口調で言った。
それでもイエーツは、翌日から連日ミレニアのもとに人を寄こしては霊廟を訪れての参拝を促す。それに対してミレニアは、自分の宿舎に籠もったまま体調が優れぬと頑なに参拝を拒み続け、最後の抵抗を試みるのだった。
「ミレニアさま、お迎えに上がりましたぞ。」その朝も、一人の将軍がミレニアの泊まる建物の前に立って大声を張り上げる。彼の名はムゾック=ユーキン。トッツガー家の雑号将軍の一人で第五軍の副将を務めており、今回の旅に護衛として扈従していた。「公爵がお待ちかねでございます。お支度をしておいで下さいませ。」
彼の声に応じて玄関の扉が開かれ、一人の女性が戸口のところに姿を現す。侍女のディミティラだった。「ミレニアさまはご気分が優れぬとのこと。ご面会はかないませぬ。お引き取り下さいませ。」
「何を申すか。お前の相手をしている時間などないわ。中で直接に申し上げる。どけ!」ユーキンは足音も荒く玄関へと歩み寄ると、ディミティラを押しのけて中に入ろうとする。
「いえ、なりませぬ。お目通りはかないませぬ。お引き取り下さいませ。」ディミティラも引かない。戸口の柱を両手で握りしめ、その場から一歩も動かない構えだった。
「図に乗るな、小娘が!」ユーキンは怒鳴る。「そもそもお前は単なる侍女、本来であれば将軍たる俺と直接口をきくことさえ許されぬ立場ではないか。ミレニアさまの従妹ということで遠慮しておればつけ上がりおって。この場でお前を無礼討ちにしても構わぬのだぞ!」
「ではお斬りあそばせ!」ディミティラは負けずに声を張り上げる。「ミレニアさまがお泊まりのこのお屋敷がわたくしの血で汚れれば、汚れを清めるまで御霊屋への参拝はかないますまい。ならばミレニアさまのマッシムー家へのお輿入れも延期となるはず。そうやって少しでもミレニアさまのお役に立つことができるなら、侍女として本望でございます。」
「口の減らぬ小娘め。」舌打ちするユーキン。「ではミレニアさまにお伝えするが良い。公爵の忍耐も長くは続かれませぬ、いずれ直々にこのお屋敷に乗り込まれ、力ずくでも公女をお連れすることになりましょう、とな。むろんその時には、お前も相応の罰を受けることになろう。覚悟しておけ!」そして彼はきびすを返し、振り返りもせずに歩み去って行く。
彼を見送りながら、ディミティラは小さく安堵のため息をつく。今日も何とか乗り切れた。だが、いつまでこの状態を続けることができるだろうか。
状況は絶望的だった。ミレニアの兄弟たちにせよ主立った家臣たちにせよ、公爵家の中にミレニアの味方は一人としていない。彼女に仕える侍女仲間ですら、イエーツの威を恐れて彼に迎合する者がほとんどで、正面切ってミギルとの縁組に抵抗するディミティラは周囲から孤立した状態である。
『もう駄目なのか。いや、それでもまだ、何かできることがあるはず。』ディミティラは拳を握りしめながら考える。『そう、必ず何かの道が――。私にできることがあれば――。』
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?