ティルドラス公は本日も多忙⑤ 嵐の年、国滅ぶ時(21)
第五章 敵地への帰還(その1)
ティルムレチスの城に数日間滞在したあと、ティルドラスは国都・ネビルクトンへと向けて出発する。
その間、グスカには全てを打ち明けた。近いうちに、フォージャー家の軍勢がダンを擁してティルムレチスへと攻め寄せる可能性が高いとミストバル家のアブハザーン侯爵から警告されたこと。おそらくその背後ではサフィアが支配するネビルクトンの宮廷が糸を引いていること。結果として、場合によっては腹背に敵を受ける孤立無援の戦いを強いられるかもしれないこと――。
秘事を打ち明けられてグスカは驚いたようだったが、しばらく考え込んだあと、いずれにせよ、何があろうとこの城を守り抜き、決してサフィアには与せずティルドラスに忠誠を尽くすと断言する。彼は信用して良いだろう。逆に彼さえ信用できぬようなら、信用できる者などほとんど存在しないことになる。
ただ、ティルムレチスの守りはグスカに任せるとしても、ネビルクトンでのサフィア一派との対決は自身で指揮せねばならない。国都に戻ればアンティルの助言が得られるとはいえ、それまでに打つ手は誰の知恵を借りれば良いのだろう。本来であればチノーが相談相手になってくれるはずだが、最近の彼には何やらサフィア一派に取り込まれてしまったような気配が見受けられる。うかつに全てを打ち明けるのは危険かもしれない。他にチノーに匹敵する才の持ち主といえばドゥーカンだろうか。だが彼は都の動きをティルドラスに伝える仕組みを作るためケーシに残してきた。しかも彼にはグスカの傍らにあってティルムレチスを守り抜くための策を巡らせるという大役がある。帰国したとしても自分の身近で知恵を貸してもらうわけには行かない。イックとジョーのレック兄弟もおそらく信用できるが、現在の情勢を的確に分析してティルドラスへの助言を行うには、彼らではやや力不足の感が否めない。
『やはり人か……』ティルドラスは内心ため息をつく。『人を――私を助けてくれる人材をもっと集めねば。』
明るい見通しがないわけではない。間もなくミッテルとアンコックが、ケーシを離れて自分のもとへとやって来てくれるはずである。そしておそらくホーシギンも――。彼らがティルドラスの陣営に加われば、状況はいくらか改善するに違いない。ならば彼らの到着までは、あらん限りの力を尽くして何とか持ちこたえねば――。
自分の国へと帰ってはきたものの、何やら敵地へと乗り込んでいくような気持ちだった。いや、実際にここは紛れもない敵地なのだ。その敵地で、圧倒的に不利な形勢の中、これから情勢を覆して行かねばならないのである。
通り過ぎるティルドラスの一行に向かって恭しく礼をする民たち。だがその目の中には、何か恨みや怒りを含んだ、これまでになかった不穏な色が感じられる。サフィアの圧政は領民たちの間にも伯爵家に対する不信や不満を広めているらしい。おそらくその不満は伯爵家の当主である彼自身にも向けられているはずである。だとすれば、ダンとの跡目争いの時のように領民からの支持を後ろ盾に勝つことは、今回はできないかもしれない。では、どうすれば良いのか。
良い考えが浮かばないまま道をたどるうち、一行はメトスナップの街の近くまでやって来た。と、道のむこうから白地に藤色(薄青紫)でシーエック家の紋章である朝顔の紋を染めた小旗を背負った伝令が馬を駆って現れ、ティルドラスの前で馬を下りて恭しく一礼する。「メトスナップの館より参りました。キーユ子爵がお待ちでございます。」
「キーユが? メトスナップに? いったいなぜ……。」戸惑うティルドラス。そもそもキーユは参朝中の自分から委任を受けて伯爵家の政策への最終的な決済を行う立場としてネビルクトンの宮廷にいるはずである。その彼がどうしてこの地で自分を待っているのか。
「このたび、キーユ子爵を先祖代々の領地であるメトスナップに封じ、シーエック子爵家を正式に再興する運びとなりました。既にお国入りされたようでございますな。」傍らからフォンニタイが言った。
「そんな話は一言も――」目を見張るティルドラス。初めて聞く話である。
「おや、これは異なこと。」わざとらしい驚きの表情を浮かべながらフォンニタイは続ける。「ケーシを出立する間際に摂政の君より報せがございました。当然伯爵にもチノーさまからお話が行っておるものと思い、特に申し上げませんでしたが、ご存じではございませんでしたか?」
「チノー、知っていたのか?」チノーを振り返るティルドラス。
「いえ、私も全く――」彼の問いにチノーは慌ててかぶりを振る。嘘ではなく、本当に何も知らなかった様子である。
「どうやら何かの行き違いがあったようでございますな。」フォンニタイの口調は白々しい。むろん、実際には行き違いでも何でもなく、意図的にティルドラスやチノーには知らせぬままでいたのだろう。「いずれにせよ、キーユ子爵はルロア太夫人の甥御にして伯爵家の外戚のご一門。いつまでも爵位のみで領地を持たぬ客分のままに置いてはルロア太夫人への孝心を疑われかねませぬ。ここは伯爵家の藩屏としてしかるべき地位を与え、伯爵の孝心を天下に明らかにするべきではございますまいか。これは伯爵におかれましてもご異存はないものと拝察いたします。」
「確かに異存はないが……。」むろん言葉通りに受け取るわけには行かない。何かの隠された意図が背後にあるはずである。しかし、ここで問い詰めたところではぐらかされるだけだろう。言葉を濁しながらもティルドラスは沈黙する。
メトスナップはもともとルロアの実家でもあるシーエック子爵家の国都だった街である。この街にはかつてシーエック家の居館だった古い建物があり、シーエック家が事実上ハッシバル家に併呑された後も、名目上はシーエック家の所有のまま、伯爵家の行在所や兵の屯所、領内を行き来する役人たちの宿泊施設のような使い方をされていた。ティルドラスの父であるフィドル伯爵の治世の末期、謀反を疑われたサフィアがしばらく幽閉されていたのもこの館である。
キーユはその館の門前でティルドラスを出迎えた。互いにうんざりしながらも領地と爵位を持つ貴族同士の長々とした挨拶を終え、付き従う部下たちを居館の中に通して休息させたあと、ティルドラスはキーユの私室に案内される。「こんなことになっていたのか。突然に聞かされて驚いた。」席に着くのももどかしくティルドラスは口を開いた。
「ああ、そうだろう。僕も驚いたよ。」憮然とした表情でキーユは言う。「一月ほど前に唐突に話が始まったと思ったら、ほんの十日ほどでいきなり、伯母上を連れてメトスナップに居を移すようにという命令が来た。口を挟む暇さえ与えられずにネビルクトンを追い立てられて、四日前にこの地に着いたばかりだ。」
「母君も?」
「ああ。摂政の狙いは明らかだ。僕と伯母上を君、そしてネビルクトンから引き離しておきたいのさ。もっとも伯母上の方は準備が整わずにまだネビルクトンに留まっているが。」そしてキーユはティルドラスの方に向き直り、悲しげな口調で言った。「ケーシでの首尾は聞いている。ミレニアとの縁談はならなかったか。」
「無念だ。」沈痛な表情でティルドラスは顔を伏せる。
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