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ティルドラス公は本日も多忙⑤ 嵐の年、国滅ぶ時(18)

第四章 ヒルエンラムの小さな事件(その3)

 そして三日後の夕刻、シクハノスは投げ文にあった街外れの廃寺に一人で出向く。
 塀の破れ目を乗り越え、地面を覆う枯れ草を踏んで荒れ果てた本堂にたどり着き、壊れかけた扉を開けて中に入ると、頭巾で顔を覆った一人の女性がそこに待っていた。「アルイズン家の遺臣の方でございますか?」シクハノスの姿を認めて女性は口を開く。
 「どなたかな? まずは名乗られよ。」油断なく周囲を見回しながらシクハノスは言った。
 「申し遅れました。私の名はディミティラ=キリレフ。トッツガー家公女・ミレニアさまの侍女です。」女性はそう言いながら、顔を覆っていた頭巾を外す。「よろしければそちらのお名前を。」
 「ゼネム=ストーク。」シクハノスは答える。仲間内であらかじめ打ち合わせてあった偽名である。
 「ではストークさま、お尋ねしたいことがあります。マッシムー家にこの上ない恥辱を与える方法があるとして、興味をお持ちでしょうか?」ディミティラは続けた。
 「だとしたら何とされる。」シクハノスは警戒を解いていない。マッシムー家と結ぶトッツガー家、その公女の侍女を名乗る彼女が自分にいったい何の用だろう。「そもそも、ミレニア公女はマッシムー家のミギル新伯爵と婚約の仲と聞き及んでいるが。」
 「それはミレニアさまが望まれてのことではありませぬ!」ディミティラは強い口調で言うと、これまでの事情を話し始める。もともとミレニアはハッシバル家の現当主・ティルドラスと婚約の仲だったこと。捕虜交換でハッシバル家からトッツガー家に戻されはしたが、ミレニア自身、さらにティルドラス伯爵も婚約の履行を望んでいること。ミギル伯爵とミレニアの婚約は父であるイエーツ公爵がマッシムー家と結ぶためミレニアの意に反して押しつけたものであること。そして今ミレニアは、先祖の霊廟に婚約を報告する参拝を拒んで最後の抵抗を試みていること――。
 「なるほど、事情は分かったが……、我らに何をお望みか?」話は聞いたもののシクハノスはまだ合点が行かない表情だった。
 「実はミレニアさまと共にトッツガー領を抜け出し、ハッシバル領に向かうことを考えております。その手助けとハッシバル領までの警護をあなた方にお願いしたいのです。」ディミティラは言う。「ここヒルエンラムは西の国境から遠くありません。ミレニアさまをお連れしてハッシバル領まで逃れることができれば、必ずやティルドラスさまは我らを受け入れて下さるでしょう。あなた方にとってはマッシムー家に――ミギル伯爵にこの上ない恥辱を与えることもできます。お願いいたします、どうか手助けを!」
 「なんとまた思い切ったことを。」シクハノスは少し驚き、そのまま考え込む。もともとハッシバル領に向かうつもりではいた。彼女の言う通りなら、確かに自分たちがハッシバル家に受け入れられるための大きな手助けになる。それだけではない。ミレニアとミギルの縁談を妨害することができれば、マッシムー家の面目を潰すだけではなくトッツガー家とマッシムー家の連携を弱めることにもなり、いてはそれがアルイズン家の再興につながるかもしれない。彼女の言葉が果たして信用できるのかが問題だが、わざわざ捕り手が来ることを教えて自分たちを逃がしたことを考えれば嘘を言っているようにも思えない。「分かった。助力させていただこう。」ややあってシクハノスは頷いた。
 「ありがとうございます!」彼の言葉に目を輝かせるディミティラ。
 「実は我らもハッシバル家を頼ることを考えていた。ただ、人目を忍ぶ身ではハッシバル領に向かう船もなかなか見つけられず、この地に足止めされていたのだ。果たしてハッシバル家に受け入れられるのかという懸念もあった。あなたの言うことが本当であれば、確かに我らにとっても好都合だろう。」
 「ではこれを。ミレニアさまのご用を務める者に渡される符節ふせつです。」ディミティラは懐から一つの木片を取り出し、シクハノスに手渡す。ミレニアの使いとして遠方に赴く者や、彼女のための品物を用立てる出入りの商人などに渡されるもので、これがあれば少なくともトッツガー家及び属国の領内では怪しまれることもなく、各種の便宜さえ図ってもらえるはずである。
 「おお、かたじけない。」
 そのあとさらに、互いに連絡を取るための方法や船が見つかったときの手筈なども打ち合わせ、シクハノスとディミティラは別れる。『ついに見つけた。ミレニアさまをお救いする手立てを!』心の中で叫びながら、既に日の落ちた道を足早にたどり――この時代、夜道の一人歩きなど大変に危険な行為なのだが――行在所あんざいしょへと戻ったディミティラは、直ちにミレニアの元に駆けつけて自分の策を打ち明ける。
 「ここから逃れてハッシバル領へと向かう――!」ディミティラの考えに、さすがにミレニアは驚いた表情を見せる。
 「もはや他に道はありませぬ。必ずやティルドラスさまのもとにお連れいたします。どうかわたくしにお任せ下さい!」訴えるようにディミティラは言う。彼女の言葉にしばらく考え込むミレニアだったが、やがて意を決したように頷いた。
 彼女たちは長くは待たされなかった。数日後、ディミティラのもとにシクハノスからの文が密かに届けられる。――明後日の日暮れ時に港を出てハッシバル領へと向かう船を見つけることができた。当日の夕刻、かねてから打ち合わせた通り行在所の通用口のところに迎えに参る。準備怠りなきよう――。
 『いよいよだ。』手紙を二度三度と読み返したあと、ディミティラは拳を握りしめ、唇を噛みしめる。『ミレニアさま、あと少しでございます。』

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