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ティルドラス公は本日も多忙⑤ 嵐の年、国滅ぶ時(7)

第二章 帰途の出来事(その2)

 イスハークはさらにティルドラスの謙譲と慈愛を褒め、短期間にバグハート家の侵攻をはね返して逆に相手の全領土を制圧したその戦いぶりを称え、一方でトッツガー家の朝廷への不遜な態度を非難し、場合によっては軍を発して罰せねばならぬと憤ってみせる。「伯爵の朝廷への忠心が至って篤いことは既に聞き及んでおる。トッツガー家に積年の恨みを晴らしたい気持ちもお持ちのはず。今後、ハッシバル家がトッツガー家と対峙することがあれば、我がアシュガル家としては盟邦であるミストバル家・ベルガー家と共に全力を挙げて伯爵の後ろ盾となる所存。後顧の憂いなく戦われるが良かろう。」
 「ありがたいお申し出、感謝いたします。ただ、現在我が国はまず民の暮らしを安んじることを考えねばならぬ状態にあり、新たに併せた旧バグハート領についても未だ平穏とは言えず、他国と事を構える時ではないと存じます。差し当たっては、貴国、そして貴国の盟邦であるミストバル家とよしみを深め、互いに助け合えるような関係を築きたいと考えておる次第です。」何とかハッシバル家の敵愾心てきがいしんをトッツガー家に向けようとするイスハークの言葉を、表面上はあくまで穏やかかつ謙虚にティルドラスは受け流す。
 「左様か。」自分の言葉にはかばかしい返事が得られないことに少々失望したような表情を見せながらイスハークは言う。「ともあれ、伯爵がミストバル家との誼を深めることを望んでおられるのであれば何より。こちらからアブハザーン侯爵にも伝えておくこととしよう。本日はまこと大儀であった。」
 こうして、時間ばかり長引いた割に中身のなかった面会を終え、イスハークの前を辞去するティルドラス。「落ち着いた対応でございましたが、あのような話をイスハーク大公が持ち出してくることを予想されておられたのでしょうか。」港へと戻る馬車の中、ホーシギンがそう訊ねる。
 「おそらくハッシバル家をトッツガー家と戦わせるように仕向けてくるだろうが、決して受けぬようにとアンティルに言われていた。私としても他国との戦いは望んでいない。ともあれ、ミストバル家との誼を深めることに大公家の同意を得られたのは大きな収穫だった。それで良しとしよう。」頷くティルドラス。
 「大きな声では申せませぬが、イスハーク大公は残念ながら器量が狭く、考えが浅い一方で軽々しく策謀を巡らせるところがございます。甘言に乗って兵を動かしたところで言葉通りの助けを得られることはありますまい。誘いに応じなかった伯爵の判断は正しかったと拝察いたします。」
 「アンティルと全く同じことを言う。やはり、才ある人間の見るところは一致するのだな。」感心したようにティルドラスは言った。
 「ほう。」ティルドラスの顔を見やるホーシギン。これまでも彼との会話の中でアンティルの名前はたびたび出てきており、ホーシギン自身もアンティルの人となりに大いに興味を持っているらしい素振りを見せることがあった。「どうやら、そのアンティルどのは天下の奇才と申すべき方のようでございますな。そのような方がお側におられるならば、伯爵におかれましては何のご心配もないのでは?」アンティルさえいれば、自分の手助けなどティルドラスには不要ではないのか――。ホーシギンの言葉にはどこかそんな響きがあった。
 だが、彼の言葉にティルドラスは静かにかぶりを振る。「全ての能力を一身に兼ね備えた人間はいないし、あらゆることを同時にこなせる人間もいない。アンティルは確かに希有な才能の持ち主だと私も思うし、大いに信任もしている。ただ、彼が真価を発揮するのはあくまで正道に基づいて物事を行う時で、詭道きどうを行うには向いていない。これはアンティル自身が常々私に言っていることだ。」
 万巻まんがんの書と自然の摂理に通じ、事実と論理に基づいて未来を正確に見通し、民に生業を与え、ティルドラスに仕える人間たちにそれぞれに適した役目を与えてその能力を存分に振るわせる――。そうしたことについてはアンティルは驚くべき力を持っている。だが一方で、宮廷内で謀略を巡らせ、他国を相手に欺瞞ぎまんや虚勢も交えた駆け引きを行い、戦場で敵の裏をかく作戦を立てるようなことは不得手で、アンティル自身もそうした才が自分にないことを認めている。
 「例えば私の麾下にリーボック=リーという者がいる。今は僻地の屯営で校尉こういをしているが、ある人物から数十万の軍も自在に指揮する力を持っていると評されたことがあり、実際に私もその力の片鱗を目にしている。また、個人の武勇であればサクトルバスに匹敵する者は天下に数えるほどしかいないだろう。他にもグスカにせよメルクオにせよナックガウルにせよ、決して我が国に良将がいないわけではない。ただ、その良将たちを自在に指揮して百戦あやまたぬような、一国の軍師として相応ふさわしい人間が私の周りにはいない。もしもそのような人物と出会えたなら、礼を尽くして迎え入れるように言われている。」そしてティルドラスはホーシギンの目を見据えながら改まった口調で言う。「ホーシギン、あなたにそのような才があるならば、是非とも私をたすけてもらいたいと思うのだ。」
 「!」一瞬、虚を突かれて息を呑むホーシギン。その時馬車が止まり、彼の返事を待たぬまま、ティルドラスは馬車を降りていく。
 港にはすでに乗り換えの川船が停泊しており、彼の到着を待っていたアシュガル家の者たちに案内されてティルドラスはその船に乗り込んでいく。それを横目にホーシギンがアシュガル家の案内役たちに申し送りをしている間に出航の準備は進み、新たな案内役たちが最後に乗り込むのと同時にもやい綱が外されて、船は岸を離れ沖へと漕ぎ出していった。
 『伯爵。』遠ざかる船を見送りながらホーシギンは内心つぶやく。『お答えはできませなんだが、私の考えはすでにお分かりでございましょう。遠いことではございませぬ。しばしお待ちください。』

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