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ティルドラス公は本日も多忙④ 都ケーシの宮廷で(10)
第二章 サッケハウにて(その5)
ンジャールを下がらせ自身も執務室に戻ったあと、アブハザーンは小さな声で独りつぶやく。「セルフィア……。」
セルフィアは彼の父である先代アフマード侯爵の異母弟の娘で、アブハザーンより一歳年長だった。幼い頃から彼と一緒に育ち、見目麗しく気立ても良く、いつしかアブハザーンは彼女に対して淡い思慕の念を抱くようになる。
ミストバル家では古くから一族の娘を当主の正妻に迎える風習があり、いずれ慣習に従いセルフィアがアブハザーンの正室となるのではないか、というのが侯爵家内部での見方だった。アブハザーンもその話は耳にしており、密かにそれを心待ちにさえしていた。
だが、その思いは無残に踏みにじられることになる。
アブハザーンが十六歳で元服して成人として認められ、正式の縁談についても取り沙汰されるようになった矢先、サッケハウの宮廷を震撼させる報せが飛び込んでくる。
――ハッシバル家のフィドル伯爵がセルフィア公女の麗質(れいしつ)を聞きつけ、側室として差し出すよう求めてきたそうな。――
――無体な。アフマード侯爵が承知されるものか。――
――承知せねば直ちに我が国に攻め入り、軍民を問わず手当たり次第に殺すとの脅しじゃ。――
――何ということを。ハッシバル家の無道・横暴もここに極まったか。――
――おいたわしや。――
当時のハッシバル家は天下に覇を唱える超大国であり、一方のミストバル家は領土の大半をハッシバル家に奪われて国都・サッケハウの周辺のみを辛うじて保持している状態だった。どれほど不法な要求であっても国力の差を考えれば応じざるを得ない。こうしてセルフィアは人身御供(ひとみごくう)同然に、当時のハッシバル家の国都であるキナイへと送られることになる。
出発の前夜、アブハザーンの寝所の戸をセルフィアが密かに叩く。何も言わずに彼女を部屋に迎え入れるアブハザーン。お互いが何を求めているかは言わずとも分かっていた。そのまま二人は夜通し愛し合い、そして語り合う。
――ずっと言えなかったけど、あたし、本当はアブハザーンが好きだったの。――
――僕もだよ。できることなら、このままいつまでも一緒にいたいのに。――
――ごめんなさい。ごめんなさい。もし生まれ変わってまた会うことができたなら、今度こそずっと一緒にいようね。――
――謝ることなんかない。生まれ変わる必要なんかない。いつか必ずハッシバル家に勝ってセルフィアを助け出す。だから……だから待っていてくれ。――
翌日セルフィアは、見た目だけは華やかに飾られた行列と共にキナイへと旅立っていった。家臣たちの手前、涙を見せずにそれを見送ったアブハザーンだったが、そのあと一人きりの場所で涙涸れるまで泣き続けたものである。
その後の彼女の消息は断片的にしか知れなくなる。聞くところでは、フィドル伯爵のセルフィアへの扱いは側室とさえ呼べない単なる囲い者程度のもので、数年後に生まれた息子――ナガンも父に会うことすら稀なままほとんど放置され、見かねた正妻のルロアと彼女のもとで育てられていたティルドラスが個人的にあれこれと母子の面倒を見ていたという。
一方、父・アフマードが世を去り十八歳で侯爵家を継いだアブハザーンは、フィドル伯爵を呪いハッシバル家への怒りをたぎらせながら、荒廃した国の再建に全力を注ぐ。やがてハッシバル家が天下諸侯の大同盟軍との戦いに大敗しフィドル伯爵も国都・キナイを捨ててエル=ムルグ山地へと逃げ込んだことに乗じ、ミストバル家は奪われていた領土を奪還。さらにハッシバル家がエル=ムルグ山地の外に保持していた最後の根拠地・シェリンスクに攻撃をかける。当時セルフィアはナガンと共にシェリンスクにある行在所(あんざいしょ)で暮らしており、彼女を助け出すことがアブハザーンの密かな目的でもあった。
激戦の末ミストバル軍はシェリンスクを制圧し、セルフィアもナガンと共にミストバル軍の手に落ちてサッケハウへと送られる。だが、十余年ぶりに会うセルフィアは見る影もなくやつれ果て、アブハザーンが誰なのかも分からず、ただナガンを抱きしめて怯えたように身を震わせるだけだった。十年以上にわたるフィドル伯爵のもとでの生活が彼女の心を蝕み、その理性を壊していたのである。
変わり果てた彼女の有様を嘆きつつも、アブハザーンは彼女をいたわり、幼いナガンが無心に遊ぶ様子を二人で眺めながら、しばしの平穏な時間を過ごす。しかし、その日々も長くは続かなかった。
同じ頃、アブハザーンの弟であるフサインがトッツガー家との戦いで捕虜となり、交渉の末、トッツガー家がフサインを帰国させるのと引き換えに、ミストバル家はナガンをハッシバル家に、ハッシバル家はティルドラスの婚約者で事実上の人質でもあったミレニアをトッツガー家にそれぞれ送り返す、という三国間の捕虜交換が成立する。アブハザーンは当初、ナガンだけを帰国させセルフィアはそのままミストバル家に留めることを主張したが、フィドル伯爵がそれを承知せず、トッツガー家からの圧力もあって、結局、彼女がナガンと共にハッシバル家に戻ることを認めざるを得なかった。
フィドル伯爵がセルフィアの帰還にこだわったのは、別に彼女を愛していたからではない。自分が一度手に入れたものを他人に奪われて面目を失うことが気に食わなかっただけなのだろう。事実、帰国した彼女をフィドル伯爵はネビルクトンから離れた僻地の小さな館に閉じ込め、ナガンも彼女から引き離して正妻のルロアの元で養育させるという命令を下す。噂では、彼女がミストバル家に抑留されている間にアブハザーンと関係を持ったのではないかと邪推したためではないかという。
事実上の軟禁状態に置かれ、息子のナガンも取り上げられたことでセルフィアの健康状態はさらに悪化。ついには一室に籠もって食事さえ取らないようになり、やがて灯火(ともしび)が消えるように衰弱しきって命絶えたという。
『セルフィア。』もう一度心の中で繰り返すアブハザーン。『俺はいったい、ナガンにどう接すれば良いのだ。』愛した彼女の忘れ形見であり、一方でどれほど憎んでも憎み足りない男の息子でもある。『どうすれば良いのだ。』
一方のティルドラスは、アブハザーンとの面会を終えたあと、ナガンに案内されて、というより走り回るナガンをペネラと共に追いかける形で、宮殿の中をあちこち歩いていた。
幽閉の地とはいえ、ナガンにとっては幼い頃に慣れ親しんだ思い出の場所でもある。よくかくれんぼをして遊んだという宮殿の庭園を見回しながら、はしゃいだ声をあげるナガン。「この彫像に登って怒られた事があってさ、まだ飾ってあったんだ。あの大きな木の根元の洞(うろ)にハリネズミの一家が住んでたんだけど、まだいるかな。あそこの池には三十年も前から住んでるっていう亀がいて――」
「ナガンさま!」その時声がする。振り返ると、華やかな衣装に身を包んだ十歳ほどの少女が背後に侍女たちを従えて立っていた。
「え?」目を見張るナガン。「もしかして――ツィムロッタ?」
「覚えていて下さったのですね!」少女は目を輝かせる。
ツィムロッタ=ミストバル。侯爵・アブハザーンの一人娘でナガンより一つ年下である。以前サッケハウに抑留されていた時代に彼女とよく遊んだことは、ナガンから聞かされてティルドラスも知っていた。「兄上のティルドラス伯爵。」彼女に向かってティルドラスを紹介するナガン。「兄上、この子がツィムロッタ。」
「ナガンさまがお世話になっております。」ティルドラスに向かってツィムロッタは丁寧に一礼する。この場合の挨拶としては違うような気がするが、子供相手にそんなことを言っても始まらない。丁重な挨拶を彼女に返すティルドラス。そのあと二人で庭園の中を走り回るナガンとツィムロッタをペネラと共に眺めながら、ティルドラスのその日は暮れた。
翌日からツィムロッタは来客の館を訪れてはナガンと遊ぶようになる。二人の世話をタスカに任せ、さらにその翌日、ティルドラスはアブハザーンとの公式の会談に臨む。
余人を交えず二人きりで行われた話し合いは、通り一遍の儀礼的なものに止まらず、かなり踏み込んだ内容にまで及んだ。かつてハッシバル軍がミストバル家の民を苦しめたことは大変に残念であること。自分としてはミストバル家との関係を改善する道を探りたいこと。さらに、自分が国権を取り戻すに当たり、場合によってはミストバル家の手助けを求める必要があることまでを、ティルドラスは言外に臭わせる。
「今回のケーシへの参朝には、隠された意図があるのではありませぬかな?」話が一段落したところで、アブハザーンはティルドラスにきわどい質問をぶつける。「不調に終わった先日のミレニア公女との縁談について、ティンガル王家の口添えを願うことを考えておられるのではないかと囁かれておりますが。」
「はい、その通りです。」言葉を濁すかと思いきや、ティルドラスははっきりと言い切った。「それについてもお願いしたいことが。私とミレニアの縁談について、貴国からティンガル王家への口添えをいただければ幸いなのですが。」
「残念ながら、それはできませぬな。」しかしアブハザーンはかぶりを振る。「我が国は執政官のアシュガル大公家と堅い盟約を結んでおり、アシュガル家に代わって執政官の地位を得ることを狙うトッツガー家とは対立する立場にあります。貴国が婚姻によってトッツガー家との関係を深めることは、我が国にとってもアシュガル家にとっても決して望ましいことではござらぬ。アシュガル家との関係上、口添えは致しかねます。」
「そこを曲げて何とか――。」すがるような口調で言うティルドラス。
「できませぬ。我が国にも立場があることをご理解いただきたい。」
「………。」ティルドラスの面(おもて)に浮かぶ苦悶の色。その様子を見ながらアブハザーンは一抹の哀れみを感じる。彼もまた政治と外交の中で自身の想いを翻弄され、その中で苦しんでいるのだ。
数日の慌ただしい滞在の後、ティルドラスとナガンはツィムロッタに見送られながらサッケハウを旅立つ。次の行き先はミストバル家の隣国であるアシュガル大公国である。