ティルドラス公は本日も多忙⑤ 嵐の年、国滅ぶ時(11)
第三章 シンネタイの変事(その1)
後に「嵐の年」と呼ばれるミスカムシル歴二八二二年だが、その「嵐」は、実は前年である二八二一年、ちょうどティルドラスがケーシを出発して帰国の途にあった時期と時を同じくして、既に始まっていた。
今、マッシムー伯国の国都、ここシンネタイの宮廷は華やいだ祝いの空気に包まれていた。伯爵家の次男である公子ミギルと、トッツガー家の公女ミレニアの婚約について、ティンガル王家の朝廷から正式に許しが下りたとの報せがもたらされたのである。
それに先立ってトッツガー家からの使節団が、婚約に当たっての多数の進物とそれを護衛する千あまりの兵を率いてこの地を訪れていた。使者はトッツガー家の次席軍師であるボゴール=カフト、そして将軍筆頭であるトゥーン=カークトンとその弟でトッツガー家第四軍の上将軍を務めるエミザル=カークトンの両将軍という錚々たる顔ぶれである。
トッツガー家の兵士たちは華やかな礼装で街を練り歩いては両家の縁組みを吹聴して回る。それを見ながら、シンネタイの市民たちは互いに囁き交わすのだった。
――めでたきことじゃな。――
――この縁組みでトッツガー家の後ろ盾を得れば、我が国も安泰というもの。――
――聞くところではハッシバル家が両家の縁談に異を唱えてあれこれ画策しておったというが、まずは無事に話がまとまって何より。――
――これで両家の誼も一層深まろう。――
そしてこの日、マッシムー家の主立った顔ぶれが宮廷に集まり婚約の申し入れに立ち会うこととなった。その中には、ミギルの兄で伯爵家の長男であるオドゥール=マッシムーも含まれる。
「では、行って参るぞ。」衣服を整え、宮廷に向かうため自邸を出ようとするオドゥール。その時、一人の年輩の家臣がオドゥールに慌ただしく駆け寄る。彼の名はディディアック=ワッターリ。オドゥールの母方の遠縁で、若いころから彼の身近に仕え、オドゥールの息子であるケロスの養育係も務める人物である。
「オドゥールさま、お待ちください。」ディディアックは言う。「実は先日来、トッツガー家の兵たちの動きを探らせて参りましたが、何やら不審がございます。あるいは何か不測の事態が起きぬとも限りませぬ。ここは急病と称して、出席を見合わせられた方がよろしいかと。」
「トッツガー家の兵が宮廷で騒ぎを起こすというのか。」オドゥールは気にも留めぬ様子で言う。「それは杞憂というもの。考えてもみよ、トッツガー家の兵はわずか一千、しかも宮殿の門内に入ることを許されておるのはその中の二、三十人に過ぎぬ。残りの兵がシンネタイの街中で騒ぎを起こしたところで、たちまちマッシムー家の兵に取り押さえられてしまうわ。そもそも、このめでたき日に伯爵家の長子たる儂が姿を見せぬようではトッツガー家への体面上も良くあるまい。父上にも申し訳が立たぬ。」
「しかし――」
「よい。心配せずに待っておれ。」そしてオドゥールは門前で待っていた輦に乗り込み、そのまま出発する。遠ざかる彼の姿を見送りながら、ディディアックは独り呟く。
「何やら嫌な予感がするが……。」
そのまま何事もなくオドゥールは宮廷に到着し、申し入れの儀式に参列する。儀式は滞りなく終わり、祝宴を控えての休憩時間に入った。「オドゥールさま、ご休息のための部屋を用意させてございます。どうぞこちらへ。」年の頃は四十前後、黒髪に整った顔立ちの男が彼に声をかけた。彼の名はマノス=ヘルダーキン。ミギルの最も信頼する側近の一人である。
「うむ、ご苦労。」オドゥールは鷹揚に頷く。もともと今日のこの儀式はミギルのためのものであり、ミギルの部下たちが場を取り仕切ることには何の不思議もない。疑念など起きようはずもなかった。
ヘルダーキンに先導され、二人の供の者を後ろに従えてオドゥールは休息の間へと向かう。その彼らのすぐ後ろを三、四名の人間たちが何気ない様子で追い始めたことに、彼は気付かぬままだった。
と、大太鼓が短い間隔で三度打ち鳴らされる音が宮廷内に響き、それが二回、三回と繰り返される。
「おや、何事であろう?」怪訝な顔で足を止めるオドゥール。大太鼓は時刻や重要人物の到着、儀式や行事の開始、緊急事態の発生などを周囲に知らせるため宮廷の正門の上にある望楼に据え付けられているもので、一刻(二時間)に一度の時報を除けば決して頻繁に鳴らされるようなものではない。
「さあ、何事でございますかな。」とヘルダーキン。その声には、何やら嘲るような響きがあった。
ほとんど同時に剣を抜き放つ音が周囲に響き、血しぶきが飛ぶ。彼らの後からついて来ていた者たちが突然、前を歩くオドゥールの供たちに斬りかかったのである。応戦する間もなく供の二人は斬り倒されてその場に転がる。
「これは!?」驚いて彼らの方を振り向くオドゥール。その背中めがけてヘルダーキンが剣を振りかぶり、肩口から腰近くまで一気に斬り下ろした。「うぐ!。」背中を大きく断ち割られ、オドゥールはその場に前のめりに倒れ伏す。「ヘ、ヘルダーキン、いったい何を……。」
「――お命頂戴つかまつる。」短く言い放つとヘルダーキンは剣を握り直し、オドゥールの肩を掴んで引き起こすとその胸を一気に刺し貫いた。口から血の泡を吹きながらその場に崩れ落ちるオドゥール。それを冷たく見やりながら、ヘルダーキンは傍らの部下たちに「事は成った。合図の角笛を鳴らせ。」と命令を下す。
彼の言葉に応じて部下の一人が隠し持った角笛を取り出し、あらかじめ決められていた節を付けて高らかに吹き鳴らす。同時に宮廷の門が開かれ、門外で待機していたトッツガー家の兵、そして彼らに従うマッシムー家の兵たちが、そこから宮廷内になだれ込んできた。「合印は緑の布、緑の布を付けた者が味方だ! 同士討ちをするな!」指揮官の声が響く。
既に宮廷の内部にも彼らに内応する者たちが多数送り込まれている。乱入した兵士たちは彼らの手引きで宮廷の要所を難なく制圧し、伯爵家の主・ドゥーガルが休息していた一室にどやどやと踏み込む。
「何事であるか!?」席を蹴立てて立ち上がり、剣を手に叫ぶドゥーガル。「ミギルの手の者どもではないか。この狼藉は何事か!」
「オドゥール公子がご自身に阿る不逞の輩、さらにアルイズン家の残党どもと語らって、畏れ多くも父君であらせられる伯爵を弑し、伯爵家を我が物とすることを企んでおりました。」兵士たちの先頭に立ったヘルダーキンが恭しく一礼しながら答える。「幸いミギル公子がその企みを察知され、オドゥール公子を討って伯爵家を安寧ならしめました。まこと比類なき大功と申すほかはございませぬ。」
「―――!」彼の言葉に呆然とするドゥーガル。
その時、背後の兵たちの間からカフトが姿を現し、ドゥーガルの前に進み出て言った。「実は以前より我が主・イエーツ公爵はオドゥール公子の不孝・悪心に心を痛め、未来の婿であるミギル公子、そして盟邦たる伯爵家の安寧をお守りするよう我らに密かに命じられておりました。このたびミギル公子がオドゥール公子の悪謀を阻むに当たって、主命に従い我らも加勢させていただきました次第。差し出がましくはございますが、火急のことゆえ何とぞご容赦願います。」
彼の言葉でドゥーガルは全てを理解する。野心家のミギルが伯爵家を我が物とするため、トッツガー家と語らって事を起こしたのである。考えてみれば、本来なら伯爵家の跡取りですらない次男のミギルを娘の婿としてイエーツが選んだのも、最初からこれが狙いだったのだろう。迂闊だった。もっと早く気付いていれば――。
「伯爵に申し上げます。」黙り込むドゥーガルに向かってカフトは続ける。「このたびの出来事でミギル公子は伯爵家のご家中、そして天下にその勇武・孝心を示されました。まこと、伯爵家の主となるに相応しいお方と申せましょう。ここは跡目をミギル公子にお譲りになり、平穏に余生を過ごされませ。これはイエーツ公爵の望みでもあることを申し添えておきます。」
勧告の体を取っているものの明らかな命令である。だが、今となってはそれに抗う術はない。唇をわななかせながら、ドゥーガルは観念したように頷いた。