「老害」と「バスの運転手」
わたしには、「定例会」という仲間たちがいる。
毎月一回、集まって食事をしておしゃべりをする会。
いろんな職種のビジネスパーソン、研究者10人程度の集まりで、
グループの名前はなく、毎月「定例会」をしているので「定例会」とみんな呼んでいる。
もう10年以上、「定例会」は続いている。
ここのところ、第3の人生か第4の人生を始めたり、
こんなに生きてきたのにまだぶち当たるべきカベがあったのか、というような困難に直面していたり、
いやもう穏やかな暮らしを始めましたよ、だったり、
メンバーたちはそんな局面を迎えて、
だけどそれをどこか楽しんでいるフシがある。
昨日、その「定例会」があって、zoomで集まった。
上記のようなメンバーなので、たとえば東京にいるとは限らなくなった。
かつてはみんな東京(とその近郊)にいて仕事と生活をしていたけど、
東京から離れたところに生活拠点を築いたり、
東京から離れたところの仕事についたり、
自宅から遠く離れない生活になったりしていて、
コロナになってリモートがすっっっっっと生活と仕事に入ってきたときに、
「定例会」もzoomでやり始めたら、
「ああこれは心地いい」ということになって、
以来、zoomでやることにしている。
で、昨日。
まだzoomには3人しか集まっていないときに、
会長役のヨーイチさんが、
「むらさんがnoteに書いた『エルダーシップ』、
あれからずっとそれにはまってて、使ってますよ」
と。
エルダーシップ……。
……そうだ!書いた!
しばらく思い出せなかったが(2秒ぐらいだけど)、
書いた書いた、エルダーシップ。
わたしは「年長者のノブレス・オブリージュ」的な、
「恩送り」的な意味でエルダーシップを書いたけど、
ヨーイチさんはちゃんと調べたんだろう、
「年長者はその智慧と経験とでまだまだいろんなことに貢献できるはずだ」
という意味で「エルダーシップ」をつかっていた。
アーノルド・ミンデルも「エルダーシップ」といっていて、
ミンデルの定義によると、エルダーシップとは、
老子の「道」の実践者であるような、すべて包含するようなフトコロの深さがあり、
多様性を認め、全体最適を目指し、持続可能なことを尊ぶ、
長老的なリーダーシップが「エルダーシップ」である、と。
ネットで見ていると、こんな解釈もある。
組織とか社会などでしばしばあることには、「対立」がある。
そこに存在する不都合や不便や不平等を「変えよう」とするグループと、
その勢力に対して「そうはいくか!」と抑え込もうとするグループの対立があって、
組織や社会がごたついたりする。
そのとき発揮するのが、「エルダーシップ」である、と。
だとすればそれは、
智慧と経験で、「ちょっと待った!」と仲介に入るのか?
それとも「おれを誰だと思ってるのか!」の水戸黄門なのか?
心理的安全性、心理的柔軟性における<バスの運転手>のたとえ話を、
ちょうど昨日の朝、聞いたところだった。
あなたはバスの運転手です。
バスの中で乗客の2人が口論をし始めました。
2人はだんだんエキサイトしてきました。
さて、あなたはどうしますか?
「お客さ〜ん、静かにしてください」
と、ルームミラーをみながら無難にマイクで諭す?
それでいうことを聞かなかったら、
「迷惑だから降りていただきますよ!」
強い口調でいうか?
けっか、火に油を注ぐことになったら?
バスを止めて、仲介に入る?
いずれにせよ、目的地に向かっているバスを止めることになるし、
止めないまま仲介を続けると、集中力がそっちに向かい、
バスに乗っているほかの乗客を危険な目に合わせることになるかもしれない。
諍い、怒りに対処すれば、ムダな時間をとられる。
人生だったり業務だったりを進める「バス」を止めることになる。
であるならば、この場合のバスの運転手としての正解のひとつは、
「その乗客に座席を与え、過度に注意を払わず、戦いもせず、
大切な方へ運転することに注意を向ける」
こと。
乗客を排除せず、矯正せず、「そこにいていいよ」という。
それが心理的柔軟性であり、
それは、「Let it go」な態度である。
バスの運転手は、「アナと雪の女王」なのである。
ということで、年長者が長老的リーダーシップを発揮するのはいいが、
智慧と経験で仲介に入ればそれはすなわち「老害」であり、
そうじゃなくて「let it go」という心理的柔軟性を発揮すれば、
それは「エルダーシップ」になる。
エルダーシップは、バスの運転手である。
なんかそんなことなんだろうな。