イースター島のモアイ像はいかに造られたか?/羽仁礼・ムーペディア
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今回は、南太平洋に浮かぶ小さな島を世界に知らしめた謎の巨石像を取りあげる。
文=羽仁 礼
絶海の孤島に残された謎めいた巨石像
モアイは、南太平洋にぽつりと浮かぶ孤島、イースター島に残る巨石像である。
その顔は細長く、狭い額、くぼんだ眼窩、長い耳と鼻といった特徴を持ち、唇が少しばかり突き出ている。
決して洗練されているとはいえない、二頭身の素朴なデザインであるが、物いわぬその顔を黙って眺めているだけでなにか安らぎを感じ、心がなごんで癒やされる想いがしてくる。
大きさは、2メートルもないものから20メートルに達するものまでさまざまであるが、大部分は5メートルから7メートルくらいに収まっている。
完全体のモアイは、「アフ」という石組みの台座の上に、頭に「プカオ」という赤い石材を載せた状態で立てられ、白い珊瑚で作られた目が入っていた。しかし、島のモアイ像はかつてすべて引き倒されていたので、現在でもこの状態で復元されたものは少ない。
モアイのあるイースター島は、南緯27度、西経109度に位置するチリ領の火山島である。チリ領といっても、南米大陸にある本土西海岸からは3800キロも離れており、一番近い島は同じくチリ領のサラ・イ・ゴメス島だが、これは無人島だ。人の住む一番近くの島となると、西方1200キロにあるイギリス領ヘンダーソン島というから、文字通り「絶海の孤島」である。
面積は165平方キロで、日本でいえば長崎の平戸島(163.4平方キロ)とだいたい同じくらい。ほぼ三角形をしており、周囲は58キロしかない小さな島だ。
イースター島という名前は、1722年、オランダの探検家ヤーコプ・ロッヘフェーンが西洋人として初めてこの島を発見した日が、ちょうど復活祭(イースター)の休日であったため、そのように名づけられたが、現地語では「ラパ・ヌイ」と呼ばれ、その後チリ領となった後はパスクア島と呼ばれている。
かつては、「テ・ピト・オ・ヘヌア(世界のへそ)」とか、「マタ・キ・テ・ランギ(天を見る眼)」などとも呼ばれていた。
現在は、島全体がユネスコの世界遺産に登録されているが、この小さな島の、鉄器すら持たない先住民が、どうやって1000体を上回るモアイ像を作成し、設置場所まで運んで立てたのか、島の発見以来、不思議がられてきた。なにしろ発見当時、島には、モアイを引っ張るロープの材料になりそうな樹木はなかったのだ。
そこで、モアイは超古代文明の遺産であるとか、太古の昔、地球を訪れた異星人が残したものであるとの説が唱えられたこともある。
たとえば、イギリスのジェームズ・チャーチワードは、「イースター島は、かつて海に沈んだムー大陸の南東端部分にあたり、巨石像は古代の知識によって造られた」と述べている。
一方、異星人と関連させたのは、スイスのエーリッヒ・フォン・デニケンである。
明らかになってきたモアイの製造方法
しかし、近年の考古学的調査により、モアイの謎はかなりの程度解明されてきている。
まずは石を削る技術であるが、モアイはいずれも、火山灰が圧縮されてできた凝灰岩という種類の石から造られている。石質はかなり柔らかく、爪でひっかいてもぼろぼろと崩れるほどだ。
こうした石材であれば、玄武岩や黒曜石などのような、もっと硬い石でできた工具を用いれば、加工することは容易である。
実際、島の東部に位置するラノ・ララクという場所には、造りかけのまま放置されたモアイが400体近くも残されており、それらを観察することで、モアイ製造の工程はかなり詳しくわかってきた。
モアイはまず、凝灰岩質の岩山に穴を空け、仰向けになった状態で彫り進められる。途中、背中部分だけで地面とつながった状態になり、おおよその形が整った段階でこの背中部分を切り離し、細部の細工が行われたようだ。
では、巨大なモアイを運搬したり直立させたりする方法はどうか。
アメリカの生理学者、進化生理学者、生物地理学者にして作家のジャレド・ダイアモンドらは、7世紀から8世紀ごろ、まずアフ造りが始まり、モアイが造られるようになったのはその後だとしている。
そして、そのころのイースター島の土壌に含まれる植物の花粉を分析した結果、当時、島は巨大な椰子の森に覆われ、木材が豊富に存在していたことが判明した。椰子の葉や樹皮からは強靱なロープも作成できる。
したがって、ラノ・ララクの石切場で切りだしたモアイを運ぶ際に使用するロープや、下に敷くコロの材料は、当時はふんだんに手に入ったのだ。
ころを地面に敷いてロープで引っぱるだけでなく、木製のそりのようなものに載せたということも考えられる。また、島には「モアイが自分で歩いた」という伝説も伝わっており、この伝承にしたがった形で移動させる実験も行われたことがある。
その伝説というのは、次のようなものである。
——モアイが盛んに彫られていたころ、ラノ・ララクにひとりの魔女が住んでいた。彼女は魔法を使って石の巨人に生命を吹きこみ、自ら定められた場所に歩いていかせていた。しかし、あるときラノ・ララクの石工たちが、彼女に黙って大きなエビを食べた。エビの殻を見つけた魔女は怒り、歩いていた石像をみなうつむけに倒してしまい、以後石像は歩かなくなった——。
この話は、モアイがすべて倒された後で、その説明として生みだされたものと思われるが、ハワイ大学のテリー・ハントとカリフォルニア州立大学ロングビーチ校のカール・リポは2011年、モアイの頭部にロープを結びつけ、直立させたまま左右に揺らしながら、少しずつ前進させられることを証明した。
要は、丈夫なロープや木製の補助具を用いれば、モアイを運ぶことは可能なのである。
アフの上に立てる方法についても、ノルウェーの探検家トール・ヘイエルダールが1955年から翌年にかけてイースター島で調査を行った際、島の村長が3本の木の棒と石ころを使って、実際にモアイを立ててみせている。
このとき村長は、棒を使ってモアイの端を持ちあげ、そこに石を順番に詰めていくやり方で、モアイを台座と同じ高さまで持ちあげ、台座のほうにずらしてから、今度は胸と頭の下だけに石を詰めて立ちあがらせた。
なぜモアイ造りは突然中止されたのか?
では、モアイはなんの目的で造られたのだろう。
現在、通説となっているのは、モアイは部族の中の主だった人物が死んだときに造られ、海岸に運ばれて村落を見守るように内陸を向けて立てられた、というものである。
その独特のデザインについても、最初期のモアイは人の姿に近いものであったが、それが次第に現在の様式に発展し、やがて統一されて、ラノ・ララクで大量生産されたようである。
次に、モアイ造りが突然中断し、しかもそのすべてが引き倒されたのはなぜか、という疑問が浮かぶ。
モアイの製造は、ヨーロッパ人が島を発見するより前に終了していたが、ラノ・ララクには、多数の造りかけのモアイばかりでなく、工具類もそのまま放置されていたため、製造作業はかなり急激に中止されたようだ。
その原因についてヘイエルダールは、「かつて島を支配していた長耳族に対し、被支配階級であった短耳族が反乱を起こしたため」としている。
一方、ダイアモンドは「大量のモアイの製造、運搬のために島の樹木がすべて切り倒され、森林破壊が進んだ結果、肥えた土が海に流出して土地が痩せ衰えたことで深刻な食糧不足が生じ、部族間の闘争が生じた」と主張している。
かつて島を覆っていた森林が、15世紀ごろに消失したことは、花粉分析から確認できる。だが、島から見つかる人骨を調べた結果、島内で大規模な戦闘が行われた形跡は見つかっていない。ヘイエルダールやダイアモンドが主張する部族間の闘争を裏づける証拠は、今のところ確認できていないのだ。つまり、モアイ製造中止の理由も、完全には解明されていないといえよう。
一種の祖霊信仰ともいえるモアイ信仰に代わり、その後、島で支配的となったのは、最高神マケ・マケ崇拝と、それに関連した鳥人儀礼であった。
鳥人儀礼とは、イースター島の南西沖に浮かぶ、現地語で「モツ・ヌイ」と呼ぶ小さな無人島に、渡り鳥のグンカンドリが巣を作るころ、若者たちが島へ渡り、最初にグンカンドリの卵を持ち帰った者が1年間“鳥人”として崇められ、支配者として過ごすというものだ。ただし、マケ・マケ信仰の詳しい内容についても、今では伝わっていない。
イースター島と日本の意外な関わりとは?
イースター島に残るもうひとつの謎が、未解読の文字である。
イースター島には、ロッヘフェーンの発見前から、「ロンゴロンゴ」と呼ばれる独自の絵文字が伝わっていた。
支配者家族や神官のみがこの文字を読めたのだが、18世紀から19世紀にかけて島民の多くが奴隷として連れ去られ、さらに外部から持ち込まれた天然痘や結核によって島の人口が激減した結果、この文字を読める者も絶えてしまった。
ロンゴロンゴの起源については論争があり、かつては古代インダス文字との関連も指摘されたことがあるが、現在は否定されているようだ。
なお、日本とイースター島との間には、かつて意外な関わりがあった。じつはこの島は、もしかしたら日本の領土になっていたかもしれないのだ。
それは、1937年のことである。当時、チリの政府が新しく軍艦を建造する費用を捻出するため、サラ・イ・ゴメス島と一緒にイースター島を日本に売ろうとしたことがあるのだ。しかしこのとき、アメリカとイギリスにも売却が打診されていることが判明した。
当時は第2次世界大戦の直前であり、日本と両国との関係は悪化していた。アメリカ大陸に近いこの島を購入すると、両国が警戒するのではないかと判断した当時の日本政府は、この要請を黙殺したようだ。
結局買い手がつかず、島はそのままチリ領に留まったのだが、現在ではチリの貴重な観光収入源ともなっている。多くの謎を抱えたまま、虚空を見つめて佇む無数のモアイ。その不思議な存在感に、今も多くの者を魅了され、イースター島を訪れているからであろう。
(月刊ムー2020年12月号掲載)
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