東京五輪を延期させた”徳川家の怨念”ーー幻のザハ案と聖地・千駄ヶ谷から江戸レイラインを読む/吉田悠軌
2021年への延期が発表された、東京オリンピック。
招致の段階での賄賂から、エンブレム盗作など、要所要所で疑惑にさらされた末の、感染症による延期。これはなにかの因縁なのか?
そもそもは、TOKYO2020の象徴たる新国立競技場が、強く警告を発していたのである。過去2回の五輪計画に翻弄された徳川家と聖地・千駄ヶ谷の”呪い”を、オカルト探偵・吉田悠軌が顕にする。
文・写真=吉田悠軌
「徳川家の祟り」が新国立競技場を脅かす
2020年の東京オリンピックは、ついに延期が決定した。全世界が新型コロナウイルスの脅威に包まれる中、致し方ないことだろう。
とはいえ私は2014年1月の時点から、今回の東京オリンピックについて、なにやら不穏な気配を覚えてはいた。
あまりに主張し過ぎたため、もはや耳にタコができた方もいるだろう。しかしもう一度だけ、私の見解を述べさせていただきたい。
「新国立競技場を巡るトラブルは、徳川家の祟りが関係しているのではないか!?」……というものだ。
もちろん、これだけ聞けば荒唐無稽に思えるだろうが、あの周辺の土地を探っていくと、無視できない歴史が色々と掘り出されてゆくのである。
旧国立競技場が残っていた頃の空撮写真(写真=国土画像情報/国土交通省)。
競技場建設予定地から道路を挟んだ一帯。そこはかつて、徳川宗家の広大な敷地となっていた場所だった。
まずは明治維新から話をはじめよう。大政奉還から戊辰戦争といった徳川家の危機は、大河ドラマでも有名な篤姫(この頃には出家して天昇院)の活躍によって免れる。江戸城無血開城を前にして大奥を去った天昇院および徳川宗家は、その後、千駄ヶ谷へと移住。土地を入手した経緯は不明だが、もともとこの一帯は江戸時代、紀州徳川家の抱屋敷だった経緯も関係しているのだろう。
ここから、徳川宗家と紀州徳川家、千駄ヶ谷という土地の因縁が深く絡みあっていく。
当時、宗家が所有した敷地は十万坪と、原宿まで達する広大なものだった。天昇院より英才教育をほどこされた16代当主・家達(いえさと)は、13歳にして英国イートン・カレッジに留学。そして帰国後、近衛泰子と結婚し、17代当主・家正の懐妊となる。それを待っていたかのように、天昇院は千駄ヶ谷邸内にて脳溢血で倒れ、47年間の激動の生涯を終えた。
世が世なら大将軍だった家達は、さすがのエリートぶりを発揮し、貴族院議長を31年も勤めあげた。一時は徳川復権かとも噂されるほど、政界にも庶民にも影響力の大きさを示したのである。
大正時代に大改築が行われた徳川邸は、火災によって本館(今の東京体育館がある場所)が全焼するなどの被害を受けた。とはいえその後も屋敷は再建され、家達、家正ら家族はこの地にて穏やかに暮らしていたようだ。
徳川家達。世が世なら16代将軍として日本のトップに君臨するはずだった。
しかし日本が近代国家としての地位を固めていく中で、徳川家とオリンピックとの因縁がたちあがっていく。1940年のオリンピック大会は、柔道の父・嘉納治五郎らの尽力によって、東京へ招致することに成功。そして今まさに森喜朗氏が勤める「オリンピック組織委員長」に任命されたのが、家達だったのだ。この東京五輪は海外へのアピールはもちろん、国内においても「紀元二千六百年記念行事」の一環を兼ねる、大規模な計画となっていった。
しかし動乱する世界情勢の中、国内外から「五輪中止論」が噴出。さらに嘉納治五郎が急逝したこともあり、政府は1938年7月に東京オリンピック中止を閣議決定した。そしてオリンピックが行われるはずだった1940年に、徳川家達は逝去。晩年の大仕事が頓挫したことはさぞ無念だったはずだ。
さらに3年後、国民の士気高揚のための錬成道場建設が計画される。その予定地として、徳川邸の敷地一帯が東京都へ譲渡されることになった。そして戦後、この敷地に「東京体育館」が建てられ、現在に至るという訳だ。
五輪開発で生まれた心霊トンネル
そして徳川家とオリンピックの因縁は、時代を変えて続くこととなる。「幻の東京五輪」から時をへだて、ついに東京オリンピックが実現した1964年。場所は同じく千駄ヶ谷である。
時あたかも戦後復興をなしとげた、高度経済成長まっただなかの日本。五輪にむけてあちこちで突貫工事が行われ、東京は急速に様変わりしていく。インフラ整備によって水路や小川は姿を消し、代わりに道路網が延びる。街並み保全よりも開発が優先され、徳川時代の「江戸の風景」は次々に消滅していった。そのような事態を象徴するかのごとく、ある心霊スポットが出現してしまったのだ。
それはあの「千駄ヶ谷トンネル」。
東京体育館・国立競技場がならぶ千駄ヶ谷は、特に工事を急ぐ必要があったのだろう。本来なら迂回するべき寺院・墓地のある地区へ、無理やりトンネルを突っ切らせる行程をとってしまった。
東京五輪の再開発で貫かれた千駄ヶ谷トンネル。心霊スポットとしても有名。
前述したように、ここはそもそも紀州徳川家の敷地である。さらには、その菩提寺である「仙寿院」が建立された土地でもあった。仙寿院とは、徳川家康の側室であり、熱心な日蓮宗の信徒でもあった「お万の方」(養珠院)が創建したもの。お万の実子で、紀州徳川家の祖である徳川頼宣が、1664年に千駄ヶ谷の敷地へ移したという由来をもつ寺社だ。その後、仙寿院は紀州徳川の菩提寺・祈願所として、代々の側室や婦女子が弔われた墓所にもなっていった。
そう、突貫工事によって千駄ヶ谷トンネルが突っ切った墓地とは、この仙寿院である。工事にあたって墓はいったん取り去られ、トンネル開通後、その上の高台に改葬されるといった手順がとられた。
千駄ヶ谷トンネルの真上に位置する仙寿院は、紀州徳川家の菩提寺である。
このような経緯に、霊の祟りを畏れた人々もいたのだろう。千駄ヶ谷トンネルには、怪異なる噂がまとわりつくようになった。
「車で走りすぎると、ウインドウに手形がつく」「トンネルの天井から女がぶら下がっていた」などといった怪談が語られ続け、都心の心霊スポットとして現在でも知られる存在となっていくのである。
さらに隣接するビクタースタジオも数々の心霊現象が起こることで有名だ。「仙寿院の墓地が見えるトイレの窓から、女の幽霊が覗きこんでいた」「ここで録音された某音楽CDには奇怪な音声が入っている」または原因不明の機材トラブル等々、あまりの怪異の多さに「スタジオマンは慣れっこになっている」と、関係者から直接聞いたこともある。
千駄ヶ谷トンネルに近い青山ビクタースタジオ。
これらの真偽はともかく、人々が怪異譚をささやく背景には、間違いなく千駄ヶ谷トンネルが墓地の下を通ってしまっていることへの畏れがある。その発端は、紀州徳川家が江戸時代はじめから守り続けてきた菩提寺を、ある意味で疎かにしてしまった突貫工事だ。東京オリンピックが引き起こした徳川の受難が、50年以上たっても尾を引いているのである。
古代からの聖地・千駄ヶ谷を侵すべからず
ネットの海からあなたの端末へ「ムー」をお届け。フォローやマガジン購読、サポートで、より深い”ムー民”体験を!