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「恐迫」/黒史郎・実話怪談 化け録

事件現場、心霊スポット、いわくいわれのある物件。そんな場所で怪異に出会ってしまうのも恐ろしいけれど、でも、ほんとうに怖いのは……。

恐迫

 昨年末、Uさんは彼氏とふたりで栃木県のK温泉にいった。
 泊まった旅館には時間制の貸し切り温泉があり、ゆったり40分コースで楽しむつもりが、20分ほどでUさんは具合が悪くなった。湯につかっていても体が冷えてきて、過呼吸になり、頭痛と吐き気がする。時間は余っていたが途中で切りあげて部屋に戻った。
 夕食どころではないので彼氏にひとりで食べてもらい、ふたりとも早めに布団に入って消灯したが、今度は耳鳴りがして眠れない。その耳鳴りが耐えられないほどに極まったので堪らずに起きあがって電気をつけると、「うわあっ」と彼氏が叫んだ。

「かおっ、かおっ」とUさんを見ていうので鏡を見ると、顔の右半分が腫れている。瞼も唇も頬もパンパンになって膿んだような色になっていた。

 救急車を呼んでもらい、病院で点滴を受けると容体が落ち着いてきたので、原因も聞かされぬまま、その日の夜のうちに旅館に帰ってきた。
 翌朝、顔の腫れは完全には引いていないが体調はいくぶんマシになっていた。とはいえ、このまま旅行を楽しむという気分ではない。できれば今日中に帰りたいんだけど、と彼氏に相談したが、彼氏は深刻な表情でスマホを操作していて返事をしない。

「ねえ、聞いてる?」
「待って。いま、調べてるから」

 この旅館のことを調べているのだという。
 彼はUさんの身に起きたことが、祟りの類いではないかと考えていた。というのも、Uさんは普段からそういう体験——いわゆるところの霊体験をしやすい人で、とくに外出先で何かしらの体験をすることが多いのだ。

 心配をさせたくないので最近は何かがあっても彼氏に話さないようにしているのだが、話さない理由は他にもある。彼氏はとてもイイ人なので、Uさんがそういう体験をしたと知るや、その場所のことをネットで何時間も調べだすのだ。Uさんに起こった霊体験との因果関係を捜しだし、彼なりに解決へと導いてくれようとしているのである。

 そう書くといいパートナーのようだが、この彼氏がまったくその手のことにはポンコツで、Uさんに昨夜起きたことも「お岩さんの祟り」ではないかと見当違いの考察をしだす。昨晩の彼女の腫れ顔が、彼には『東海道四谷怪談』のヒロインの顔そのものに見えたらしい。だから今も、この宿がお岩さんと関係がないかをがんばって調べていたのだという。

耳元でねっとりと

 縁もゆかりもない大昔の東京の幽霊が、わざわざ栃木まで出張って旅行を楽しむカップルを狙う意味がわからない。それよりも今すぐこの宿を出たいのに――。

「ねぇ、この旅館で過去に陰惨な事件とか起きてない? そういうのを調べてよ」
「とっくに調べたよ。でも、そういうのは何もなかった」
 あっけらかんと返される。
「ほんとに? 殺人とか起きてないの? 自殺は?」
「大島てるも見たけど、とくにそういう情報は出てないね」
「うそでしょ……もっとよく調べてよ」

 何もないなんて、そんなはずはない。彼にはいわなかったが、昨晩、貸し切り温泉から戻って布団の中で寝つけずにいたとき、耳鳴りのなかではっきりと女の声を聞いていたのだ。

「殺すぞ」

 それは右側の耳元で、ねっとりと聞こえた。
 怖くなって電気をつけたら彼氏が叫んで――それが昨夜の騒動である。
 間違いなく顔の右側の腫れは、あの声の女のせいだ。
 あんなにも直接的な言葉は、生きている人からもいわれたことがない。あんなに凶悪な霊障に見舞われたこともなかった。
 相当な殺意を向けられていたのではないかと戦々恐々としながら眠れぬまま朝を迎えたのに――。
 この宿に何もなければ、自分に原因があるということになってしまう。
  だから「何もなかった」ではすませたくないのだとUさんは語るのだった。

黒史郎 ( くろしろう) 作家、怪異蒐集家。1974年、神奈川県生まれ。2007年「夜は一緒に散歩 しよ」で第1回「幽」怪談文学賞長編部門大賞を受賞してデビュー。ムーPLUSにて「妖怪補遺々々」連載中。 『実話怪談 黒異譚』(竹書房)など著書も多数。

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