元号「令和」と国号「日本」の言霊が予言する神国の未来/古銀剛・総力特集
平成31年4月1日、新元号「令和 」が公表された。そして5月1日、新天皇陛下の即位とともについに改元が行われ、日本は平成の次の、新たな時代に入った。
だが、なぜ日本は元号制度を守り、孜々営々と改元を続けてきたのだろうか。元号の秘史、そして「日本」という国号に秘められた真意を日本古来の信仰である「言霊」の観点から探り、今回の譲位と改元が啓示する、衝撃の未来予言を明らかにする!
文=古銀 剛
新元号に決定した「令和」
「新しい元号は、令和であります」
平成31年4月1日午前11時40分、新元号が公表された。すなわち、4月30日の天皇陛下(現上皇)の譲位をもって「平成」は終わり、翌5月1日に新天皇陛下が即位すると改元が行われ、元号が「令和」と変わることが判明した瞬間だ。
さて、政府の発表や各メディアの情報にもとづけば、新元号決定は、次のようなプロセスをたどった。
まず政府は、中国古典や国文学に詳しい複数の学識者に新元号案の作成を依頼し、非公式にその提出を受ける。その数は総計で50案以上に及んだともいわれる。その後政府側は精査を重ね、3月中旬には、若干名の元号考案者に正式に元号考案の委嘱を行い、最終的に候補は6案に絞り込まれた。そして4月1日、有識者9名からなる「元号に関する懇談会」や衆参両院正副議長にその原案が提示されて意見聴取が行われた。
その後、これらの意見聴取を踏まえて全閣僚会議で協議が行われ、安倍首相の主導で「令和」に原案が絞り込まれ、閣議で正式に新元号と決定。閣議後ただちに天皇陛下(現上皇)と皇太子殿下(現天皇)にこの決定が伝達され、天皇陛下(現上皇)の親署と御璽の押印をへて改元の政令は即日公布された。
そして一方で、菅官房長官が首相官邸で新元号を発表、さらに正午からは安倍首相が談話発表に臨んだのである。
248番目の元号「令和」の真意
注目は新元号の典拠だが、政府発表によれば、それは、奈良時代(8世紀)に編まれた、日本現存最古の歌集であり日本文学の大古典である『万葉集』で、正確には、巻5に収められている「梅の花の歌」への序文にみえる文章、「初春の令月にして、気淑(きよく)風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」だという。
これまで、日本の元号はすべて四書五経などの中国古典を典拠としてきたが、その慣例をやぶり、史上はじめて日本古典を出典とする元号が誕生したわけである。
そして、安倍首相は4月1日当日の談話のなかで、「令和」について「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められている」と解説した。「令」は命令の「令」を連想させるとして、この新元号を批判する向きもあるが、平和な文化を象徴しているということで、世論ではおおむね好意的に受け取られているようだ。
日本の元号(年号ともいう)は、大化[たいか](西暦645〜650年)から平成(1989〜2019年)までであわせて247を数える(北朝の元号16を含む)。したがって、令和は、248番目の元号ということになる。
だが、はたしてこの新元号に込められた意味とは、政府が発表した「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」ということに尽きるのだろうか。
そもそも、なぜ日本は元号というものをあえて使いつづけているのか。
結局、元号とは何なのか。そして、「梅」にちなんだ新元号「令和」に隠された、驚愕の未来予言とは、さらには、元号と「日本」という国号の秘められた関係とは……。
本稿で、今回の改元によって明るみに出た、瞠目の真実を明らかにしよう。
元号開始のきっかけとなった乙巳の変
今からおよそ1400年前の西暦645年。日本ではこの年、政権の中枢で前代未聞の一大事件が発生した。
当時は飛鳥(あすか)地方に朝廷が置かれた飛鳥時代で、時の天皇は女帝・皇極である。だが、政治の実権をにぎっていたのは、天皇でも皇族でもなかった。この時期、政権を掌握していたのは、有力豪族の蘇我氏であった。なかんずく、蘇我氏のリーダーで大臣(おおおみ)の地位にあった蘇我蝦夷とその嫡子・入鹿は、国政を牛耳るにとどまらず、朝廷のそばに豪邸をたて、多くの民を使役して巨大な生前墓を築くなどして専横な振舞いにふけり、天皇家と並び立つ、いや、天皇家をすでに超えたとも評されるほどの権勢を誇っていた。
だが、その栄光も、この年の6月12日の一大事件をもってあっけなく終焉を迎えてしまった。
蘇我氏の横暴と王権の衰微を憂う皇極天皇の皇子・中大兄皇子(のちの天智天皇)と、反蘇我派の有力氏族・中臣鎌足の主導によって、この日、クーデターが起こり、蝦夷・入鹿父子は誅殺され、蘇我氏が一挙に失脚してしまったからである。
ここで特筆したいのは、このクーデターの陰惨さだ。
『日本書紀』によれば、当日、飛鳥板蓋宮の大極殿では「三韓進調」という外交儀式が行われていたが、その最中に、天皇の面前で、中大兄皇子が突如、剣を抜き、参列していた蘇我入鹿を斬りつけたのである。血まみれとなった入鹿は転げながら玉座にたどりつき、今わの際に、天皇に向かってこう怨嗟の言葉を発したという。
「私にいったい何の罪があったのでしょうか!」
蝦夷はこの儀式に参列していなかったが、彼の邸にはほどなく息子・入鹿の無惨な屍が送りつけられ、翌日、蝦夷もまた死に追いやられている。
元号「大化」がクーデターをカモフラージュ
――とにかく、白昼、天皇が臨席する宮中儀礼のただなかで、要人の殺害が堂々と行われたわけである。現代にたとえれば、皇居宮殿での儀式の最中に首相暗殺が実行されたようなものだ。まさにショッキングな事件であり、天皇をはじめ目撃者たちは、この凄惨な場面の記憶を死ぬまで消し去れなかったにちがいあるまい。
このクーデターは一般に「乙巳(いっし)の変」と呼ばれている。干支で数えるとこの西暦645年が乙巳の年にあたるからであり、なぜ十干十二支の組み合わせで年を表記するのかというと、この時点では日本にはまだ「元号」が存在していなかったからである。
この事件の2日後の14日、皇極天皇は弟の孝徳天皇に譲位し、これを機に新政権が発足した。そして19日には、孝徳天皇と皇祖母尊(譲位した皇極)、皇太子となった中大兄皇子は群臣を集めて天皇への忠誠を誓わせ、さらに「この年を大化元年とする」と命じた。この「大化」こそが、日本における元号の最初である。
「大化」号の出典は明らかではないが、この言葉には「徳をもって他を導く」という意味がある。皇位乗っ取りをたくらんだ悪逆な蘇我氏を誅し、あくまで天皇を中心として天下に徳政をほどこそうという新政権の抱負がここにはこめられているのだろう。
一般に、「大化」の制定は、皇極から孝徳への皇位継承を機に行われたものととらえられている。しかし、改めてこのように歴史をつぶさに検証してみれば、大化制定は、宮廷に残された拭いがたい血痕をカモフラージュするためだったといえなくもない。いい換えれば、大化という元号は、いや元号そのものは、血塗られた惨劇を契機としてこの国に誕生したのだ。
元号の言霊パワー
日本の元号は大化のあと、白雉 [はくち](650〜654年)が続くが、その後いったん途絶え、天武天皇の時代に復活して朱鳥[しゅちょう](686年)となるも、その後また中断している。
元号制度がようやく確立したのは、文武天皇の時代の701年が大宝元年となってからのことで、このとき成立した国家の根本法『大宝律令』には
「公文書に年次を記す場合は干支ではなく元号を用いること」と規定されている。
そして、これ以後は現代に至るまで、元号の更新すなわち「改元」が繰り返されながら元号が連綿と用いられつづけている。
ここで歴史を顧みると、皇位継承があったときにのみ改元が行われる現代と違って、「大化」のように、動乱や災害、飢饉などの事件をきっかけとして改元が行われた例は決して珍しくない。むしろそうしたケースが全体の半数近くを占めている。
つまり、改元によって凶事や不幸の連鎖を断ち切ることが求められてきたともいえるわけで、「新たな元号には現実を改善してくれる呪力がある」という信仰をそこに認めることができる。
元号を構成する「言葉」にこめられたマジカルなパワー――これを「言霊(ことだま)」といい換えてもよい――、それが元号と改元のひとつの本質なのである。
元号の源流は古代中国
もっとも、周知のように、元号制度は日本のオリジナルではない。元号は歴史的には日本よりもはるか昔に中国で使用されていた。
元号の源流は、古代中国・前漢の第7代皇帝・武 (在位紀元前140〜前87年)の時代にはじまる。
それまでの中国では、各皇帝が即位した年を「元年」とし、それを基準にただ「〜年」と表記する方式が多く用いられていた。ちなみに、このように年を、あるひとつの年を元年(紀元)と定めてそこから数えて称する方法を「紀年法」と呼ぶ。イエス・キリストが生誕したとされる年を元年として数える西暦も、紀年法のひとつである。
だが、版図を拡大させて空前の大帝国を築き、独裁的専制君主として君臨した武帝は、自分が即位した紀元前140年を建元元年と定めた。自分が支配する国土の「年」に「建元」という称号、すなわち年号(元号)をつけたのだ。
これもまた紀年法のひとつであり、そしてこれが世界最初の元号となった。ちなみに、「建元」は「元(=最初の年)を建てる」という意味だから、かみくだいていえば、「最初の元号」というような意味にもなろう。日本の「大化」よりも800年近く昔のことである。
以後、中国の歴代王朝は元号を用いるようになった。さらに、中国は東アジアの先進地域だったので、元号制度は周辺諸国でも用いられるようになった。
たとえば、朝鮮半島では5世紀ごろから、モンゴル高原や西域の諸国でも同じく5世紀ごろから、ベトナムでは10世紀ごろから独自の元号を作って使いはじめている。こうした系列の中に、日本も含まれるのだ。
東アジア諸国に広まり、現在は日本だけが使う
ただし、日本を除くと、中国の周辺諸国の独自年号はあまり長く続かずに終わっている(ベトナムは例外的に第2次世界大戦後の王朝滅亡まで独自の年号を使いつづけた)。それはひとつには、それらの諸国が中国王朝に服属するかたちをとっていたため、中国王朝から中国の元号を使うことを強いられたからである。たとえば、朝鮮半島の新羅は6世紀から独自の元号を用いていたが、7世紀なかばからは中国・唐の圧力によって公的には唐の元号を用いるように変えられてしまった。
さらに本家本元の中国でも、1912年に清朝が滅亡すると2000年以上も続いてきた元号が廃止されてしまった。ただし、清朝に代わって成立した中華民国はこの1912年を「中華民国元年」と定め、1949年に台湾に政府が移ってからも、この紀年が使いつづけられている。一方の、中国本土に成立した中華人民共和国は、西暦を「公元」と称して用いている。
つまり、元号制度が今現在も明確に残っているのは、まさに唯一、日本のみなのだ。
なぜ、日本だけに元号が残ったのか。それは、ひとつには元号制度となかば一体化している「天皇制」が存続しているからなのだが、それ以外にも、日本ならではの、大きな、そして秘められた理由がある、と筆者は考えている。その理由とはなにか。結論を先にいってしまえば、それは「言霊」なのである。
代始改元と祥瑞改元
ここではまず改元の基本的なメカニズムについて触れておこう。
日本で改元が行われる理由についてはいくつかのパターンがあるのだが、いちばん基本となるのは皇位継承にともなう改元で、これを「代始改元」と呼ぶ。元号を改めることによって新天皇の即位を祝し、時代の更新をはかるわけで、新元号はその天皇の治世の象徴ともなる。実際、歴代天皇のほとんどが代始改元を経験している。
とくに明治時代以降は、天皇一代につき用いる元号はひとつだけとする「一世一元制」が確立されたため、改元は代始改元に限られることになった。つまり、今回のように、天皇が譲位または崩御して新天皇が即位するという事態にならないかぎり、改元は行なわれない。
だが、周知のように、明治以前は、天皇の代替わりがなくても、天皇の在位中にしばしば改元が行われてきた。代始改元以外の改元には、古代をみると「祥瑞改元」が多い。
奈良時代には、縁起のよい出来事(祥瑞)が起きると、しばしば改元が行われた。天子に徳があれば天は祥瑞を現して王朝が続くが、徳を失うと新しい王朝に替わるという思想が中国にあったからで、祥瑞が出現すると、王朝繁栄のしるしを慶賀するという名目で改元が行われたのだ。
たとえば、珍しい白い雉が献上されたことにちなむ白雉 [はくち](650〜654年)、藤原京で美しい雲が目撃されたことにちなむ慶雲(704〜708年)、瑞兆とされた白い亀が献上されたことにちなむ神亀[じんき] (724〜729年)などがそれである。
「天平」の改元と藤原氏の野望
だが、祥瑞改元には、今からみると、ちょっと首をかしげたくなるものもある。
『続日本紀 』によると、神亀6年(729)6月20日、左京大夫 (左京地区の民政を司る役所の長官)の藤原麻呂が、長さ約16センチ、幅約14センチもある一匹の亀を時の聖武天皇に献上した。だが、驚いたのは、その大きさではない。その亀の甲羅にくっきりと文字が書かれてあったのだ。それも1字や2文字でない。「天王貴平知百年」と、ひとつの文章が記されていたのだ。「天皇の政治は貴く平和で、100年続くだろう」というような意味である。
この亀を見た聖武天皇はいたく感激した。賞辞を甲羅に記した亀の出現は、自分が善政を行っていることを神々が祝福してくれていることの証であり、自身の徳を示してくれているものと考えたのだ。
そこでひと月半後の8月5日、改元の詔を発し、甲羅の文言から文字をとって元号を「天平」と改めたのだった。
だが、それにしても亀の甲羅に字が記されてあったということは、いったいどういうことなのだろうか。甲羅の紋様に漢字の形に見えるものがあったということだろうか。それとも、文字が刻まれていたということだろうか。まさか、墨で書かれていたわけではなかろう。かといって、甲羅の紋様や傷が何かの字の形に見えるというのは、1文字2文字程度ならありえそうだが、漢字7文字となると、にわかには信じがたい。
謎解きの手掛かりはある。この祥瑞の亀を献上した藤原麻呂は、ただの役人ではない。奈良朝廷の中枢を担った藤原不比等の4男で、聖武天皇に嫁いだ光明子の兄だ。当時すでに不比等は世を去っていたが、麻呂は当時の藤原氏の実力者のひとりとなっていて、例の改元の詔の5日後には光明子は皇后の地位についている。
瑞亀の出現は、天皇を籠絡し、さらに改元という一種の呪術によって一族の繁栄を期そうとした、藤原氏が巧妙に仕組んだトリックだったのではないだろうか。
呪術的な災異改元と革年改元
代始改元、祥瑞改元のほかには、次のようなものもある。
災異改元…災害・怪異が発生したときに行われる改元。「災異」には、干ばつ、大雨、洪水、津波、地震などの自然災害だけでなく疫病の流行や兵乱、また彗星の出現(凶兆とされた)なども含まれる。災害や凶兆が続いた場合には、縁起のよい意味をもつ元号に改めることで天下の混乱を治め、凶事の発生を防ぐことができると考えられたためで、先述したように、明らかに改元に呪術的な効能が期待されている。平安時代以降に多い。
革年(かくねん)改元…中国由来の予言思想である讖緯(しんい)説にもとづき、大きな変動が起こるとされた、「辛酉(しんゆう)」「甲子(こうし) 」にあたる年に行われる改元。十干十二支の組み合わせで年を数えると60年でひとめぐりするが、讖緯説では、この数え方で辛酉(58番目)にあたる年は「革命」の、甲子(1番目)にあたる年は「革令」の年とされた。
「革」とは改まるという意味だが、要するに、これらの年には社会に大きな変事が起きると信じられたのだ(「革命」は正確には帝王が変わること、すなわち王朝交替をさす)。そこで、年の名前である元号を改めることによってそうした好まれざる変事を未然に防ごうとしたわけで、これも呪術的な改元の一種だといえる。平安時代中期以降幕末まで、若干の例外を除き、辛酉・甲子の年ごとに改元が行われている。
災異改元と革年改元はとくに呪術的な要素の濃い改元といえるだろう。
新元号選定のルール
いかなる理由で行われるにしろ、改元は社会全体に広く影響を及ぼす行為であり、当然、新元号そのものの選定には慎重さが期された。では、具体的にどうやって、どのようなルールにもとづいて新元号は決められてきたのだろうか。
平成以降を除き、新元号はタテマエとしては天皇が決定してきた。ただし現実には、天皇の意向を受けて側近たちが審議して選定し、それを天皇が最終的に追認するというケースが基本となってきた。たとえば、江戸時代までの典型的な元号決定プロセスをまとめてみると、およそ次のようになる。
①改元の勅(ちょく)…天皇が改元を命じる。
②年号勘申(かんじん)…天皇の意向を受けた大臣の指令にしたがって、文章博士(もんじょうはかせ) ・式部大輔(しきぶたいふ)などのポストにある漢籍に詳しい学者が、中国古典を出典として膨大な先例を勘案しながら縁起のよい文字を選んで元号案を作成し、提出する。文書を提出することを年号勘申、提出された文書を年号勘文(かんぶん)という。
③改元定(さだめ)…公卿(朝廷の幹部)たちが集まって会議が開かれ、提出された元号案が審議されて案が絞り込まれる。これを年号定・改元定などという。
④奏聞(そうもん)…絞り込まれた元号案が天皇に報告される。
⑤勅定(ちょくじょう)…天皇が新元号を最終決定し、改元の詔書が作成され、新元号が各地に伝えられる。
ただし、「平成」からは、日本国憲法が「天皇は国政に関する権能を有しない」と定めていることから、元号の決定に天皇は関与せず、「元号法」という法律にもとづき、内閣の責任において新元号が定められるように変わった。今回の「令和」も同様である。
日本固有の言霊信仰と元号の関係
このように、煩雑なプロセスをへて元号は決定されてきたわけだが、なぜそうまでして日本では元号が重視されてきたのか。繰り返しになるが、日本人は、元号そのものに、時代を左右する言葉の呪力すなわち言霊を認めてきたからだ、と筆者は考えている。
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