別の場所の夫/読者のミステリー体験
「ムー」最初期から現在まで続く読者投稿ページ「ミステリー体験」。長い歴史の中から選ばれた作品をここに紹介する。
選=吉田悠軌
別の場所の夫
福井県 66歳 今井富貴子
私の前夫は、ときどき私に奇妙なことをいっていました。
どうやら自分には、もうひとりの自分がいて、その別の自分が別の場所にいることがよくあるらしい、などということです。
でも、当時、まだ若かった私にはそんな話は少しも信じられず、何をバカなことをいっているのだろうと思うだけでした。
そんな、ある日のことです。彼がめずらしく、私をレストランに連れていってくれました。
ひさしぶりの外食が、とにかくうれしくて、私はひとりはしゃいでいたように思います。
やがて、そんな楽しい食事が終わると、彼がそばにあった新聞を広げ読みはじめました。それも、何か気になる記事でも見つけたのか、いつになくとても熱心に見入っていました。
ところが、彼は、そのまま30分も40分も、ほとんど身じろぎもせずに読みふけっているのです。
さすがに私も、少し妙な気がしてきて、何度か声をかけようとしたのですが、そのときの彼には、なんとなく声をかけるのがはばかられるような雰囲気があり、どうしても声がかけられませんでした。
1時間ほどたって、ようやく彼は新聞から顔をあげましたが、自分がそうして新聞に見入っていたことについては、私には何もいってくれませんでした。
その店を出るとすぐに、彼がもう一軒、別のお店に寄っていこうといいました。急に何か思いついたようないい方だったので、ちょっと不思議に思いましたが、黙ってついていくと、そこは一品料理屋のような店でした。
彼はカウンター近くのテーブルに座り、何か注文するために若い女性店員を呼びました。
すると、その女性店員は彼の顔を見たとたんに、
「あら、さっきずっとここにひとりで座っていた人じゃないの。いつのまにかいなくなったから、どうしたのかなと思ってたのよ」
と、妙なことをいったあと、私ににっこり笑いかけたのです。
もちろん、私にはわけがわかりませんでした。彼に聞いても、曖昧な返事をするだけで、なんだかはっきりしません。
そこで、その女性店員に話を聞いてみると、さっきまで彼とそっくりの男性が同じテーブルに座っていて、女性店員が話しかけても何も答えず、しばらくぼんやりしていて何も注文しないうちに、いつのまにかいなくなってしまった、とのことでした。
その話を聞いて、私は、よく彼がいっていた〝あのこと〞を思いだしました。もしかしたら、あのレストランで彼が新聞を広げたままジッと身じろぎもしなかったときに、もうひとりの彼が、この店に来ていたというのでは……と。
しかも、女性店員によれば、その奇妙な男性客が来ていた時間というのが、ちょうど私たちがレストランにいた時間で、彼が新聞に見入っていたころでもありました。
当然、私は彼にそのことをいって聞いてみましたが、やはり彼は曖昧な返事を繰り返すだけで、はっきりと答えてくれませんでした。
もちろん、単に、たまたま同じ時間に、たまたま彼とそっくりの、ちょっと変わった男性客がこの店に来ていたというだけのことかもしれません。でも、それ以来、もう私は彼の、
「どうやら自分には、もうひとりの自分がいて、その別の自分が別の場所にいることがよくあるらしい」
という言葉を、何をバカなことをいっているのだろう、とは思えなくなったのでした。
(ムー実話怪談「恐」選集 選=吉田悠軌)
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