ペトロの手紙一2:15を読んだ感想
これ以上ないくらい、しょうもない感想。
学びの途中で教会に行けなくなった、自称信徒(洗礼は受けたが……)の、感想。
マジで……ただの、感想。
ペトロの手紙一2章15節
善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
「封じる」という強い言葉が出てきたので、衝撃を受けた。
「止める」くらいの柔らかい言葉で良くない!?と。
……結論から言うと、良くない。(後から分かった)
善を行う?
これが分からないと話にならんが、まぁ「長老は若者の手本になるように動け」みたいな事も書かれているからな、この手紙。
その「手本」になりそうな記述がどこかにないか、と思っていたら……あった。
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
昨日書いたこの記事の中でガッツリ触れている、エフェソの信徒への手紙。
多分「善を行って」の「善」は、コイツの事だろう。
「愚かな者たち」「無知な発言」?
なんと失礼な、と思いそうな話だが、実は上で紹介した記事の中に、この二つの答えがガッツリ書いてある。
まぁ見に行けと言うのもなんだかなーという話なので、「愚かな者たち」が誰を指していて、「無知」が何を指すのかを示すであろう箇所を引用する。
そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。 そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。
愚かな者たち:異邦人、彼ら
こうしか書かれてないと謎過ぎるけど、まぁ簡単に言えば「神を神とも思わない人たち」だと思う。
言葉も違うアジアまで伝道の為に歩いたらしいパウロ達。
まさか仏教、ヒンドゥー教、儒教、神道などなど、現地の信仰がガッツリ存在するとは思わなかっただろう。
言ってる事は仏教も近いけど、「自分を見つめる」が主の仏教と、「神を仰ぐ」が沢山あるキリスト教じゃ、だいぶ違う。
異邦人と呼ばれているのは、そういう人達じゃないかね。(やたらアジアで辛い思いをしたっぽいから)
無知:愚かな考え、知性は暗くなり、無知と心のかたくなさ、無感覚
数学を知らない人に「この関数のグラフから、関数の式を導き出しなさい」なんて言って、円形のグラフを見せたって……何も分からんだろう。
「関数?グラフ?この丸は何ぞ?」で済めばまだいいよ。
そうやって疑問をぶつける人は、教えてもらえるから。
でも「考えていけば多分何とかなる」と思って自力でやろうとしたら、「多分これ」とか言いながら、頓珍漢な答えを出す事になる。
前者(疑問をぶつける人)は「自分はこれを知らない」という事を知っている。(誰かが「無知の知」と名付けた)
後者は「自分はこれを知らない」という大事な事実を無視している。
この後者のような人を「愚かな者」としたら、「無知」も「愚かな考え」も「心のかたくなさ」もよーく分かるだろう。
ちなみに円のグラフは、何をどうしたら式を作り出せるのか、私は知らない。
そういうグラフが存在するらしい、という話だけは知っている。
「無知な発言を封じる」?
こんな強い言い方しなくてもいいじゃん、と、初見の私は思った。
が、先程軽くまとめた「エフェソの信徒への手紙」の話を元に考えると……とある考えが浮かんできた。
子が非行に走ったら悲しむ親はいくらでもいる。神も、子である“人”がそうなるのは望まない。
そんな“愚かな者”になってしまった“子”が、もし“善”を見て“ふしだらな行い”をやめたとしたら……きっと「放蕩息子のたとえ」のように、神は喜ぶだろう。
放蕩息子のたとえ
ルカによる福音書15章11節から32節。
……これを、探し回った。
マタイによる福音書なら短くパリッと書いてるんじゃね?くらいに思って、たとえ話といえばアイツ!と思って、マタイによる福音書を探し回ったけど……見つからず。
マルコによる福音書も流れ作業的に探したけど、見つからず……というか長かった……。
結局いつも読むルカによる福音書から探し出した。
まぁ長ったらしい話だからな。
概要だけサクッと書く。
とある人(父親)には息子が二人いた。兄と弟、二人いた。
弟が父に「財産をそのうちくれるんだよね。自分の分をくれ」と言った。
父親は兄と弟、それぞれに財産を分け与えた。弟はなんと、貰った財産で贅沢をして、お金を使い果たしてしまった!(アホか!)
何をしても上手くいかず、生活に困った弟は、父に頭を下げて許しを乞おうと考えた。そんな我が子を遠くから見つけた父親、その弟に駆け寄ると抱きしめてキスをして、全身で再会の喜びを表した。
弟は思わず「いや、自分なんてもう息子に相応しくもないよ」と言ったが、父親は「離れてしまっていた息子が帰ってきた!」という喜びを感じながら、それを祝った。一方、兄は真面目にコツコツと働いていた。(変なとこ真面目なのは長子あるあるなのか?)
当然、贅沢三昧で身を滅ぼした弟の帰りを祝う父の気持ちが理解出来ず、怒って家に入ろうとしなかった。兄は父に「何故言いつけに背いた事のない自分より、あの贅沢三昧をした弟を祝うのか」と疑問をぶつけた。
父は「お前はいつも私といるじゃないか。だから私のものはお前のものだよ。でもあの子は違った。離れてしまっていた。その離れていたあの子が帰ってきたんだよ。無事に我が子が帰った事を祝わない親、どこにいる?」と言った。
ざっくりした内容は、こんな感じ。
「兄を愛していない訳じゃない。むしろ愛している」
「兄も弟も、同じように愛していた。その愛に差はない」
「兄は自分の側にいつもいてくれたけど、弟は離れた場所に行ってしまって、一緒にいられなかった」
「その弟が今帰ってきたんだよ!これからはずっと親子一緒なんだ!嬉しいよ!」
父親目線の話はこうだろう。
……。
可愛いな。
思わず、変な想像をしてしまった。
父:夜蛾正道(学長)
兄:五条悟
弟:夏油傑
こんな想像をしてしまった。
いや……帰ってきてくれよ、弟……。
放蕩息子のたとえみたいに、帰ってこいよ!!
多分この組み合わせだったら、父も兄も弟を許すよ!!
くそっ!帰ってこい!!
頭下げて「ごめん」って言いに来いよー!!
神は悪い事してる人を見たら悲しむから、とりあえず悪い事してる人を止めようよ
みたいな話をしているのは分かった。
でも今のあの想像のせいで、「なんでこっちは帰ってこねえのよ!!」と思ってしまった。
アイツマジで……頑な……。
最初から「夜蛾先生、そもそも高専生に星漿体の警護押し付けるの、絶対おかしいですよ。しかも二人でやれとか無理でしょう」「何でこんな辛いのに私に休みがないんですか。少しくらい休ませてください」って言うくらいで良かったのよ!!
……何故か私の推しはそうやって、帰ってこない。
言えばいい事を言わないで、そのまま終わってしまう。
そういやイスカリオテのユダもそうだな。
アレも「あの時銀貨で売ったの本当ごめん」って言えば……
「もうしない、本当ごめん」って言えば……。
何でどう足掻いても死ぬの、アイツ!!
みんなそうよ!
ルシファーもそうなのよ!
何で「いやぁ、あの時本当ごめん」って言えばいい場面で言わないの!
まぁルシファーは言いそうにないけど。
というか、言う暇もなく終わりそうだけど。
本当にね……ダメね……。
聖書の中における推しすら、頑なでしたね……。
アイツ、マジで……何で相談せんの……。
心の中にある通りにしろと言われた、その時によ。
ちょっとでも思いとどまってくれよ。
相談してくれよ……!
不安なら不安って言っていいのよ!
やりたくないとか言っていいのよ!
何でやるのよ!
……本当、どこ見ても私の推しは、死ぬ。
何でやねん。
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