『鎌倉殿の13人』を復習する(2)
今日はNHKでお昼から『総集編』が放送中だが、ちょうど前半の頼朝パートが終わったところ。その頼朝を扱った2019年に刊行された中公新書、元木泰雄『源頼朝ー武家政治の創始者』を紹介しておこうと思う。
まずはその構成は以下の通り。
はじめに
Ⅰ 頼朝の登場−河内源氏の盛衰
Ⅱ 流刑地の日々―頼朝挙兵の前提
Ⅲ 挙兵の成功―流人の奇跡
Ⅳ 義仲との対立−源氏嫡流をめぐって
Ⅴ 頼朝軍の上洛−京・畿内の制圧
Ⅵ 平氏追討−義経と範頼
Ⅶ 義経挙兵と公武交渉−国地頭と廟堂改革
Ⅷ 義経の滅亡と奥州合戦−唯一の官軍
Ⅸ 頼朝上洛と後白河の死去−朝の大将軍
Ⅹ 頼朝の晩年−権力の継承と「失政」
むすび−頼朝死後の幕府
治承四年(1180)の挙兵から約20年、建久十年(1199)で満51歳の生涯を閉じるまで頼朝がいかにきわどい戦いに勝ち抜き、鎌倉幕府の基礎を築いたかが、大変興味深く論じられている。また他の学説などに対するスタンスも明確であり、素人にもわかりやすかった。たとえば頼朝の父・義朝が藤原信頼と組んで挙兵(平治の乱)したことに対する議論を引きながら「武士と貴族とを対立する階級とする、古めかしい観念の呪縛の強さを痛感せざるをえない」(p.24)など。なお、この時の挙兵がいったん成功(*清盛に逆転されるのはご存知の通り)し、その時の除目によって頼朝は「右兵衛権佐」(佐殿 すけどの)になった。
20年に及ぶ伊豆での流人生活を経て挙兵に成功した頼朝は、富士川の合戦に勝利し、鎌倉に凱旋以後、所領は鎌倉殿・御家人双方の代替わりごとに安堵されることになり、初めて所領を媒介とした継続的な主従関係が成立した(p.80)。これはそれまでの河内源氏当主と家人との関係からの大きな変化であった(同)。
頼朝の朝廷工作についても高く評価されている。たとえば治承5年7月の後白河に送った和平提案(宗盛は清盛の遺言にしたがって拒否)などが寿永2年7月に「平氏都落ち」に追い込んだ義仲上洛の際の「勲功第一という評価を得る原因となった」(p.91)と指摘されている。その平氏都落ちに際して著者は歴史にifはないがと断りつつ、「もしも後白河が平氏に拉致されていたら、平氏は強い正当性を有したに違いない。これに対し、義仲は八条院・北陸宮を擁立し、独自の王権を構築したであろう。王権が分裂し、おそらく内乱は長期化したと考えられる。そして、権威の源泉である後白河を失った頼朝は、著しく立場を悪化させたはずである。後白河の脱出によって、日本は分裂の危機を回避し、頼朝も危機を免れたことになる」(p.101)と述べている。首肯できる主張である。
頼朝と義経の対立については第Ⅵ章・第Ⅶ章で詳しく論じられている。「対立の背景を突き詰めれば、後継者問題の不安定さなど、鎌倉幕府の組織が、まだ幼弱だったことに行き着く」(p.182)。「唯一の官軍」を目指した頼朝は院の勢力と結びつき独自の官軍となろうとした義経を絶対に容認できなかったのである。
第Ⅷ章、第Ⅸ章では奥州合戦の意義と鎌倉幕府が名実ともに成立するプロセス、頼朝が目指したものの完成と内乱の終結が叙述される。そして、「古めかしい王朝権威に依存した頼朝を非難するのはたやすい。しかし、所領の新恩給与は戦時下であったがゆえに可能となったのである。また、内乱以前の武士に対する恩給は官位であった。平時に移行した頼朝が、官位を中心とする王朝権威に依拠して主従関係を維持するのは当然のことだったのである」(p.251)と述べられている。
さて義経没落後、京都守護の役割を一時的に担った北条時政のイメージは大河ドラマとは随分と違うので注意が必要かと思う。時政については(1)で紹介したミネルヴァの評伝シリーズの野口実氏による新著に詳しい。頼朝が晩年に結局はなし得なかった幕府基盤の安定化は、幕府内の闘争を経て、北条氏により成し遂げられる。