『青天を衝け』第11回「横濱焼き討ち計画」(2021年4月25日放送 NHK BSP 18:00-18:45 総合20:00-20:45)
第11回のタイトルは今までのタイトルのつけ方と違って「栄一」という文字が入っていない。しかも「横浜」ではなくて「横濱」なのは? 脚本家、演出家の意図は不明だが、一応注意しておきたい。
さて、栄一(吉沢亮)は長七郎(満島真之介)の江戸行きを止めるために深谷から熊谷の旅籠の小松屋(1)へ駆け付ける。血洗島付近から現在のJR深谷駅まで歩くと4時間くらいで20km弱(参考:Googleマップ)だからハーフマラソンくらいの距離感である。よく追いついたというか何と言うか……。ともかく長七郎に追いついた栄一は老中・安藤信正暗殺計画が失敗し、このまま江戸に向かっても幕吏に捕らえられて「犬死」だと説き、長七郎は京へ逃れることになる。このことで長七郎は尊皇攘夷派テロリストたちが跋扈する京で種々の情報を見聞きし、逆に次回、栄一たちの暴挙(「横濱焼き討ち計画」)を食い止めることになるのだから、人生何がどうなるのかわからない。栄一の爆走はある意味歴史を変えたのかもしれない。
その1ヶ月後、栄一に最初の子どもが誕生。市太郎と名づけられる。父・市郎右衛門(小林薫)は「これで攘夷という戯れ言は儚くなるべぇ」と安心するのであったが、実は栄一の心は子どもどころではなかった……。
そして、尾高道場では惇忠(田辺誠一)と喜作(高良健吾)とともに「横濱焼き討ち計画」が話し合われ、惇忠が蹶起のための「神託」を認める。この惇忠起草の神託の原本は深谷の渋沢栄一記念館に所蔵されており、現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館で展示中(後期の会期は4月27日から5月16日まで)である。
ところで合理的な理屈ではなく、“神託を得たので蹶起せよ”という方法は、随分と民百姓をなめたやり方だと思うのだが(実際には近隣の村々から相当の人数が集まったようだが)、惇忠ほどの学者がどうしてこのような方法を取ったのだろうか。あまり神様のお告げや迷信などを信じない風に描かれている栄一もそれになぜ賛同したのであろうか……。一つは、外圧にさらされた時にそれへの抵抗の論理を復古主義的なアイデンティティに求めるという一般論がここでも貫徹しているということであろう。実際、日本で尊攘運動が盛り上がっているこの時期、お隣の中国でも太平天国の乱(1851〜64年)の真っ最中。太平天国の場合、もっとストレートに神託を得たカリスマの洪秀全が古の漢民族による中華復興を掲げて清朝に対抗するのだが、尊攘運動も似ている部分がなくもない。
タイトルバックが流れた後、徳川家康(北大路欣也)による今回(以降)のお話の肝の紹介。将軍後見職という立場で慶喜(草彅剛)が政権に復帰。その復帰に預かって力を発揮したのが薩摩の国父(2)・島津久光(池田成志)だったことが紹介され、ここから慶喜の征夷大将軍就任まで4年余(文久2年[1862]~慶応2年[1867])。どうやって栄一と出会うのかが見所であると東照大権現様。実に丁寧な説明であった。
江戸城では将軍家茂(磯村勇斗)が慶喜に将軍後見職を委嘱。薩摩屋敷では同じく政事総裁職に任命された松平慶永(要潤)と島津久光を囲んでのシーン。攘夷を強行に主張する久光と攘夷は詭弁にすぎないと考える慶喜との意見対立が早くも出て来ている。慶喜の寝所で美賀君(川栄李奈)との会話でその辺の複雑な事情(狸と狐の化かし合い)も視聴者にもわかりやすく解説する体となっている。
場面は再び血洗島。商売から帰って来た栄一を待っていたのは、はしかによる市太郎の死であった。守本奈美アナウンサーのナレーションでは、この時期20万人もの人びとがコレラやはしかによって命を落としたとのこと。栄一が市太郎のために買ってきた青い風車がお墓にさされていて悲しい……。もっとも当時の乳幼児死亡率は今の100倍くらい(江戸時代は統計がないので明治30年代くらいと比較した数値)なのでコレラやはしかがなかったとしても成人するまで子どもが育つかどうかは運次第であった。ゑい(和久井映見)が千代(橋本愛)を慰めるときに例に出していた殿様の子作り数値もあながち大げさではない。ちなみに筆者は1961年生まれだが、出生数千人に対して乳児の間に死ぬ割合は30人弱。現在はこれが2人強である。
場面は再び攘夷決行の密談。南総里見八犬伝に城乗っ取りの着想を得たという話は本当かどうかしらないが、平九郎が加わろうとしたのを押しとどめたという話は本当らしい。しかし、こんな無謀すぎる計画が結果的には流れたとはいえ、いったんは決まって実行の準備までなされていたというのはやはり驚きだ。
文久三(1863)年、尊攘過激派の暗殺テロ=天誅が吹き荒れる京。攘夷派公家の三条実美(金井勇太)が慶喜に対して切れまくるシーン。今回一番バズったシーンらしい・w そして一橋家に平岡円四郎(堤真一)がカムバック。勘定所出仕を仰せつかったが希望して一橋家に再仕官ということになった。慶喜も武田耕雲斎(津田寛治)ももちろん大歓迎であった。
江戸では喜作と栄一が武器調達のために梅田屋を訪ねる。主人の梅田慎之介(渡邊徹)は義商・天野屋利兵衛(歌舞伎では天川屋儀兵衛(3))ばりに栄一たちの申し出を快諾(本当はもっと交渉があったと思われる。あっさり成功しすぎかも)。その武器を血洗島に送るのもいとも簡単。幕府の警備がかなり弛緩していたのかもしれない。江戸の居酒屋で藤田小四郎(藤原季節)と大声で密談もそれこそ幕府のイヌに嗅ぎつけられそうな感じだが……。栄一たちのうしろでこちらを伺いながらじっと飲んでいたのが川村恵十郎(波岡一喜)。この人物も次回以降重要な役どころを担う。
その頃の日本と外国の関係変化(薩英戦争、四国艦隊下関砲撃事件など)と八月十八日政変(攘夷派公卿が失脚。長州へ逃げるといういわゆる「七卿落ち」)はナレーションのみ(三条実美も失脚しました。念のため)。
そんな日本国内大混乱の中、栄一と千代には新しい子どもが授かる。のちの穂積歌子(1863-1932)だ。歌子が嫁いだ穂積陳重は明治期を代表する学者だが、そのお孫さんが穂積重行。大東文化大学の名誉教授で1990−1993年まで学長を務めた。こんなところにも本学と渋沢の縁があったわけである。しかし、そんな生まれたばかりのうたを置いて、次回は「栄一の旅立ち」。
注)
(1)近辺には小松屋という屋号の店がかなりあるようだが、特定はできず。引き続き情報を探したい。
(2)久光は無位無冠だったので、よくわからない「国父」と呼ばれた。
(3)「天川屋の儀兵衛は男でござるぞ、子にほだされ存ぜぬ事を存じたとは申さぬ」の名台詞が有名。
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