たぶん駄文
物事を二つの側面から捉えるのは一つの技術であり、長く苦しい人生をその苦しみから解放する一つの手段であることは言うまでもない。安易な二項対立がそこには存在するが、その安易さでもって思考を放棄し一時の快楽に溺れるのであれば、呻吟し自ら命を断つ詩人の如き凡人に比べてもいささか幸福であると言わざるを得ない。それは現実的な判断であり、その怠惰が真なる幸福といかなる関係を結んでいるかは各々の考えるべきであるかとも思うが、個人的な選択に対して私が意義を申し立てる権利はない。しかしながら、実のところ思考を放棄し、刹那的な快楽に身を委ねている人間が、さも自分は熟考しているかのような身振りで複雑極まる一つの事象を図式化し、「わかりやすく」などといったわかりにくい枕詞をつけて饒舌に演説するところなどを見ると、早くこの世界から離脱して死後の世界に希望を求めた方が良いだろうとまで考えてしまうのもまた一つの事実である。何よりも恐ろしいのは、そうやって簡略化され、図式化され、無残なまでに解体され汚辱された作品が、端正な顔立ちをした紹介者の「解説」と銘打った屠殺現場においてかつての輝きを取り戻しているように見えているらしいことである。それはさながら古い屋敷から取り出された骨董品を清潔な布巾で拭いているかのようであるが、実のところ彼らは複雑に織られた絨毯に対し、ホームセンターで買ってきたペンキを塗りたくってけばけばしい色彩を重ねているのだ。
例えばその試みが少年のいたずら心であったなら、良識ある大人がその価値を説明することで歴史的な意味を新しく付与することになろうし、時としてその試みは芸術的な価値を高めることにもなろう。あるがままの姿で保存することだけが保存の美徳ではない。しかしながら、時として劣化する一つの物質としての作品が、悪意ある少数の人間によって汚されているとするならば、それには断固として反旗を翻さねばならぬ。それは偶然という言葉が曖昧なまま放置してきた奇跡的な一瞬などではない。風が吹いて塔が倒れたのではなく、彼らは脆くも美しい砂の塔の前に憎らしげに扇風機をしつらえ、壊れゆくものは侘しいなどと聞きかじりの知識を披露しながら大衆を煽動し、愛すべき作品を、まるで闘技場で牛に突き殺される奴隷の立場まで貶めているのである。
私には私の立場なり見解があって、それが昨今の風潮と真っ向から対立しているなどと考えると気も滅入るばかりだが、これほどまでに簡潔でわかりやすいものが求められている現状に対して、それほど年も行かぬ私が絶望的な気持ちでいることだけは申し上げておきたい。多くの方々にとっては雑音でしかない私の言葉が、安易な解釈なり機械的な当てはめによって理解されたように思われるのは心外である。私が言葉を書き並べる理由は、それがしとやかな喜びであるのは大いなる理由であるにしても、そこに安易な対立なり並行関係を超えた、いわば奥深い真理の顕現が見られるに違いないというささやかな確信を抱いているからに他ならない。ロジカルシンキングなどの言葉が書店に並ぶ現在において、図式でなく言葉で思考するというのはなかなか時代遅れなことなのであろう。言語は論理に敗北し、その従順な下僕として辛うじて息をしているばかりである。論理を説明するために言葉が用いられ、その言葉にひとかけらの不純物が紛れ込むと、汚らわしいものを除けるがことく人は手袋をはめピンセットで余計な比喩なり饒舌なりを取り除いてしまう。そこには言葉を用いる喜びなどいささかも含まれておらず、厳密さと称した不寛容が全体を覆っているように映る。そのようにして作られた社会なり論理がいつの間にやら時代全体を包み、甘美な快楽に溺れる最も幸福であるべき人間を怠惰な落伍者として扱うのを許している。
地面に立てられた割り箸がそれ以上の意味を持たずに屹立しているように、書かれた文章はそれ自体で一つの世界を構築している。そこに外から解釈なり図式を当てはめるのは文章に対する、言葉に対する、大きく言ってしまえば世界に対する不敬であり、他者を従属させたいという欲望の現れでもある。彼らが意図する要約なるものは、自分の理解の中に他者を取り込むことであり、他者が自分を変化させることを恐れた弱虫のささやかな抵抗なのである。しかしそのような泣き言を私たちが聞く必要などない。詩を読むとはすなわちその詩を暗唱することであるように、私たちは言葉を言葉のまま、文章を文章のまま、映像を映像のまま理解すれば良い。それを稚拙な理解だと非難する方々もおられようが、彼らは自分の理解とは違った理解の仕方を全て稚拙とみなす幼稚な心をもっているにすぎない。