見出し画像

埃をかぶった本の話

 埃をかぶった机の上に、埃をかぶった本が1冊置いてある。『脳を鍛える大人の計算ドリル』。湿気の多い部屋に置かれていたためか、紙は黄色く変色し、端の方は微かに波打っている。机の裏には蜘蛛の巣が張っていて、何かの死骸か糞だろうか、黒い小さな粒が斑点のように畳の上に散らばっている。


 僕がこの前祖父母の家に来たのはおよそ3ヶ月ほど前のことになる。蒸し暑い夏の日だった。急な夕立に襲われて、天気予報を見ずにやってきた僕は薄暗い部屋のソファーで雨が止むのをじっと待っていた。電気はきちんとつくし、トイレにはトイレットペーパーがちゃんと準備されていた(予備のトイレットペーパーもきちんと並んでタイルの上に置かれていた)。カーテンレールには商店街の服屋で安売りしているような服がびっしりと掛けられていたし、錆び付いて軋むような音を立てるとはいえ、雨戸の開閉にも何の支障もなかった。とはいえエアコンのリモコンは電池が切れてしまったらしく、僕は蒸し暑い部屋で汗と雨でじっとりと濡れたTシャツを乾かさなければならなかった。


 それからしばらくの間、祖父母の家のことを思い出すことはなかった。


 ひょんな用事から、僕は再びこの家を訪れることになった。母が手配したのだろう、以前雑草が生い茂っていた小さな庭も、今では小綺麗な、悪くいえば殺風景な光景に変わっていた。ポストには宅配ピザのチラシが一枚と、水道管工事のマグネットが一つ、茶色く変色した枯れ葉が一枚入っているばかりだ。入り口の門には針金が巻き付けられていて、僕はそこを越えるために周りの視線を気にしなければならなかった。玄関の扉は前と比べても建て付けが悪くなったようで、鍵を開けても開かない扉の前で僕は一分ばかりどうしたものかと頭を悩ませた。冷たい風が頬を刺した。取手に手をかけるのをやめ、僕は思い切り体を扉にぶつけた。


 もう日が傾きかけているとはいえ、その家は異様に暗かった。僕は電気をつけて、蹴り飛ばすように靴を脱ぎ捨て、奇妙なまでに綺麗に並べられたスリッパを履いた。鍵をかけようと後ろを振り返り手を伸ばすと、玄関のタイルの上で、小さな蜘蛛が靴箱の下の隙間に逃げていった。体を懸命に伸ばして鍵を閉め、ホッと息をついて扉から手を離すと、スリッパを履いていたせいで僕はバランスを崩し、危うく転んでしまうところだった。最近転んだのはいつのことかと考えてみたが、全く思いつかなかった。


 しかしどう記憶の片隅をほじくり返してみても、玄関にスリッパが並んでいたことなどない。声変わりをする前だって、野球部で坊主頭だった時だって、僕は祖父母の家でスリッパを目にしたことなどない。祖父は裸足で庭の草むしりをしていたし(サンダルくらいは履いていたかもしれないけど)、祖母は夏の暑い日にも分厚い靴下を履いていた。しかしそうやって思い返すこの家に暮らす祖父母の姿が、だんだんと曖昧でぼやけたものになることに気がついた。祖父は小綺麗なマンションの一室で、その場には似つかわしくない古びたソファーに腰掛けてテレビを見ている。散歩に行った方がいいと母が言うが、まるで聞くそぶりを見せない。祖母はというと、10分ごとにトイレに行って20分出てこない。1時間ほどその家にいたけれど、表現としては「会った」というよりも、「目を合わせた」の方が正確かもしれない。


 そういえばこの前祖父母の家に来た時、ゴキブリの死骸を踏んだ。その時は整然と並ぶスリッパに気がつかなかったから、すり減って薄くなってしまった靴下で、僕は見るも無残に干からびた亡骸を踏みつけたのだ。不思議なことに、祖父母の家に来る前日、僕は下宿で立派なゴキブリを見た。もうしばらくはお目にかかれなかったから、とても驚いて寝付けなくなってしまった。


 ともかく、この家は人が住んでいないことに慣れていないようだった。それはそうだろう、祖父が長いローンを組んで購入した、豪邸と言うには言葉が過ぎるけれど家族4人が生活するにはいささか広すぎるこの一軒家は、およそ半世紀の間、一時も忘れることなく1組の家族と生活を共にしてきたのだ。


 部屋の時計は電波時計を謳っているくせに、まったく頓珍漢な時間を示していた。よく見ると秒針は8と9の間で小刻みに振動しているだけで、まるで迷子の子供があたりを見渡して貧乏ゆすりをしているようだった。こんなものは生活に使えない。誰かが暮らしている部屋の中で、時計が自分の居場所を見失うことなどない。しかしこの時計だけが、もう誰も暮らしていない家の中で最後の命を懸命につなぎとめているようにも思えた。しばらくしたら、内蔵の電池はカラカラに乾いてしまい、秒針も最後の地団駄を終えるだろう。そうすればこの時計に水をやる人はもういない。時間を刻む高尚な仕事を終え、永遠の沈黙の中で安らかに暮らし続けるのだ。


 祖母が認知症らしいことに気づいたのは叔父だ。もう五年ほど前だろうか、僕がまだ両親と暮らしていた頃、部活に疲れてソファーでうとうとしている時にその電話はかかってきた。介護士をしている叔父は、その経験から何かの兆候を感じ取ったのだろう。しかしそれは青天の霹靂だった。その一本の電話が母の人生を一気に変えてしまった、なんてことはない。僕に大盛りの弁当を毎日作ってくれたし、僕の受験勉強を邪魔してまでパートの同僚の噂話をしていた。しかし、少しずつ生活が変わってきたことは事実だった。時折新幹線に乗って祖父母の家に行き、身の回りの世話をするようになった。しかし僕といえば自分のことしか頭になく能天気なもので、帰りに買ってくれる蓬莱の豚まんだけを楽しみにしていたのをよく覚えている。二ヶ月に一度だったのが月に一度になり、あまり時を待たずしてそれは二週に一度になった。


 僕はいつの間にかに高校を卒業して予備校に通い、受験に失敗して泣き喚いたりした挙句、何の因果か家を出て京都で暮らすようになった。カビ臭い下宿の中で、日々増えていく古本と共に少しずつ歳をとった。楽しいことも、悲しいことも、不快だったことも、嬉しかったことも、まあ、ぼちぼち、ある。しかしともかく、僕は家族のことをあまり考えず、初めての一人暮らしで存分に羽を伸ばしていた。
 

(つづく(といいな))

いいなと思ったら応援しよう!

むね
喉から手が出ちゃう