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『スパイの妻』を観ました

サスペンスとは、それが何を意味しているのか観客にその全貌が明らかにされぬいかにも重要そうな身振りを伴った説話論的な細部、あるいは断片と言って差し支えない一つの動きないし言葉が、物語の終局にあってその生々しい連関を明らかにする構造を持った物語の体系である。その点から考えると、この映画においてもっとも観客を惹きつける謎は、高橋一生の不在ということになろう。それは連絡手段の少ない、ほとんど存在しないと言っても差し支えない戦前の環境において、夫が満洲に旅をするときの蒼井優のあの微妙な顔の輪郭と、きわめて原始的な(と言ってもそれは古代ギリシアにおいて物語が明確な形で定義され、シェイクスピアからハリウッドのB級映画まで連綿と受け継がれている高々二十世紀ほどの歴史を持つにすぎないのだが)不在の延長という形で観客の関心を惹きつける。定型的でうんざりするほど明快に、黒沢清は私たちの前に一つの空白を作り出し、その謎を観客の内面に植え付けるのだ。しかしその安易さが、安易であるからと言って批判し得ない巧妙さでもって私たちを映画の世界に没入させるのだから、その手腕には惚れ惚れせざるを得ない。というのも、この謎は物語の中盤で、さも当然かのようにあからさまにその内情を開示するのだ。つまり、うわべのサスペンスはあくまでうわべにすぎない。私たちはその謎を解くことがこの映画を見ることだと勘違いする。それを嘲笑うかのように、高橋一生と蒼井優はあの迫真の演技でもって、映画の性質をサスペンスから一種の冒険活劇に変えてしまうのだ。私たちが目にしている映画は、サスペンスに擬態した夫婦の(ただの)物語であり、その微妙なジャンルの交代がこの映画の運動性を形作る。『スパイの妻』は私たちが午後九時に見るサスペンスを装った新しい物語の形なのだ。これは岩井俊二が黒木華に捧げたと言っても過言ではないあの美しき傑作『リップヴァンウィンクルの花嫁』における物語に似ている。最初の物語を規定する謎は物語の最後まで生き続けることはなく、私たちの安易な眼差しが予想する結論を、この長髪の映像作家は早々に呈示する。私たちはうろたえ、その先にまだ多くの時間が残っていることに思いを馳せて混乱する。サスペンスとしての前提を愚直に信じながら、その行末を見守るだけの愚かな観客は、物語を閉じる(つまり主たる伏線を回収する)その破壊的なまでに迅速な手際の良さに惚れ惚れしてしまう。しかし、物語がそこで終わることはない。岩井俊二ないし黒沢清は、私たちがもっている怠惰な物語の予測を小馬鹿にするように、確固として築き上げられた建造物の一階部分の上に、絢爛豪華な天守閣を据えるのである。『スパイの妻』が優れているところは、岩井俊二の作品においては、土台部分とうまく調和しているとは言えないあの唐突で濃厚な人間関係の奇妙な接近によって彩られた多少派手にすぎる天守閣を、その二者が緊密な関係を保持しているように巧妙な色彩の変化によって偽装し、その接合部に曖昧な連続性を作り出した点にある。つまり全く別の物語が生きているこの映画世界を、さも同じ世界の連続であるかのように見せかけて私たちに提示しているのだ。

などと調子に乗って自分でも何を意図しているのか理解できない文章を、嘘出鱈目をたらたらと感覚のおもむくままに書き連ねた後、文學界11月号に掲載された蓮實重彦、黒沢清、濱口竜介の三者による対談「『スパイの妻』を語る」を読んで私はひどく赤面した。蓮實重彦の映画的記憶は凄まじいものである。私がその模倣を楽しみながら書いた駄文には決して捕まえることのない映画の生き生きとした細部が、例えば風の音が何回吹いただとか、キャメラ(蓮實氏は常にカメラをキャメラと呼ぶ)の動きと人物の動きの複合的な関係だとか、いつまでも物語に固執する視線、つまり彼のいうところの「概念で映画を見ている」まなざしの稚拙さを嘲笑うかのように、その細部に対する絶え間ない関心とその記憶の確かさを根拠に剥き出しになるのだ。私はいまだ画面を見ていない。それは蓮實重彦が嘆いた近代的論理への過信と、絶えず意味を求めるよう教育された私の無意識が支配する堕落したまなざしに他ならない。画面を画面として認識することの困難さが明らかになるのだ。代名詞がもつ曖昧さに身を任せて「私たち」と要約するその漠然とした一つの主体は、内的に組織され根拠を欠いた論理なるものに従って画面を解釈する。それは映画がもつあの美しくも細やかな震えを見逃す一つの理由になっている。だからこそ、私は映画を見続けなければならない。論理の網の目をくぐり抜け、「些細な」と蔑称で呼ばれる美しい細部を見逃すまいと、私は映画を凝視するよう努めなければならないのだ。

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