ヒトが死ぬことに意義があるのだろうか
生物が死ぬことは当たり前の現象と認識されている。
ヒトが死ぬことは、感情を持つ生き物が故に、大きな悲しみや無力感のような負の感情を生み出す。誰もが「死」から逃れたいと強く願うが、現代のどんな医療技術を駆使しても、「死」から逃れることはできない。
現代の医療技術を駆使しても「死」からは逃れられない
ヒトを含む多細胞生物は、必ず「老化」するように設計されている。細胞が分裂するにつれて染色体(テロメア)の長さが短くなり、染色体の安定性が保てなくなる。またエネルギーを産生する際に発生する活性酸素種により細胞が傷ついていく。結果として遺伝子に異常をきたし、細胞や臓器器官が機能しなくなる。
最近ではどのような細胞にも分化可能な「iPS細胞」が医療に応用され始めている。そもそも、人の体は皮膚、目、肺、肝臓、腎臓などの様々な器官から構成されているが、各器官の細胞は異なった性質を持つ細胞集団である。iPS細胞は受精卵と同様に、どのような細胞にも分化することができるし、iPS細胞を作成すると染色体(テロメア)の長さも改善されて細胞が若返る。
しかし、iPS細胞が各器官細胞に分化ができても、「臓器」のような形態を持たせることはできない。これはまさしく生命の神秘ともいえよう。現段階の医療応用としては、ブタにヒトの臓器を形成させ、それを移植する試みがされている。
「死んでも良いよ」と思う人はいない
「生きること」は生物としての本能だ。誰もが「生きたい」、「死にたくない」と思う。やはり「死」を乗り越えることはできない。
世の中には、精神的な疾患があるわけではないが、「明日死んでもいい。」という人もいる。その人は、「明日死んでもいい」と思えるように毎日を真剣に生きている「覚悟」があるのであって、本心では死んでもいいと思っていないはずだ。
もし、「別に死んでもいいし生きてもいい」と思う人がいるならば、軽いノリで自殺をしてもおかしくないが、そのような死に方をした人を聞いたことがない。自殺をする人は、精神的な負の感情が「生きたい」という本能を上回った場合だと思う。
人が死ぬことには意義があるのだろうか
生物学的に話すと、古い個体が死んで、新しい個体が生まれるサイクルが重要だ。遺伝的性質を変化させることで環境に適応できる可能性があるということに意義がある。「ヒト」という種を存続させるためだ。
ヒトの遺伝子は、23対の染色体のうち父方、母方の染色体をそれぞれ1本ずつもらって形成されている。また、減数分裂の過程で遺伝子に組換えが起こるので、さらに複雑な組み合わせパターンの遺伝的変化を起こす。
結果として、父親、母親とは異なる遺伝体系の個体が生まれる。そして、遺伝子のちょっとした変化が、環境に対して不利に働いたり、有利に働いたりする。環境に適応不利な個体は淘汰され、有利な個体が生き残る、というわけである。
例え話をする。ある遺伝的な変化によって「ほとんど汗をかかないヒト」と「非常に汗っかきなヒト」が生まれたとする。この2人が飲み水が非常に少ない極暑地域に住んでいた場合、水分を貯蓄しやすい「ほとんど汗をかかないヒト」の方が生き残る可能性が高いだろう。このようにして、生存有利な遺伝子を持つヒトが生き残り、生存不利な遺伝子を持つ個体が淘汰されていく。
ここで注意しなければならないことは、環境に適応するために遺伝的変化が起こるわけではないということだ。まず、遺伝的変化が起こり、その後に環境に適応できる個体が生き残った、ということになる。遺伝子自体が意思を持って変化することはあり得ない。
有限な命に意味を持たせるのは自分自身である
ヒトには寿命がある。有限だからこそ、奥深いものがあると思う。そして、ヒトが死んだ際には生涯忘れられない教訓を得ることもある。ヒトの「死」には、生物学的な意味合いの他にも、私たちが強く前向きに生きなければならないというメッセージがある。
私は生きている限り人生に意味を見出すことが使命だと思っている。有意義な人生を過ごせるよう毎日を大切にして過ごしたい。
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