5,狭山茶ミステリー 菩提寺が江戸時代初期に増えた理由

前記事で菩提寺について触れました。タイトルの狭山茶ミステリ―と関係がないようですが、このシリーズでは狭山茶ミステリ―の中核をなす旧元狭山村合併問題について述べることになります。このことは、今を生きる日本人のほとんどが知らないことであり、これもまたミステリ―でもす。

元狭山村 - Wikipedia

本記事においても引用文が多くなることをお許しください。

「江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた」講談社プラスアルファ新書 古川愛哲著

<引用開始>
 島原の乱が日本人の宗教生活に与えた影響は大きい。
 寛永15年(1638)檀家(だんか)制度、寺請(てらうけ)制度が全国的に確立されたからである。これにより日本人全員がどこかの寺を菩提寺(ぼだいじ)にして、檀家の関係をもたねばならなくなった。菩提寺とは葬式をしてもらう寺のことである。そして寺の檀家に登録してもらう。これを「寺請証文」といい、寺請証文がないとキリシタンと疑われる。そこで寺が必要になってくる。
 中世後期以来、持仏堂(じぶつどう)、阿弥陀堂(あみだどう)、観音堂(かんのんどう)など、無住の堂宇(どうう、堂の建物)があった。それらの堂には季節ごとに僧侶が訪れるだけだったが、これらに住職を置き常駐の寺に昇格させた。そうでもしないと、村人全員の菩提寺が足りないからである。寺院の由来書で中興の僧が江戸時代の人物であるのは、この檀家制度が原因である。
 ところが、本山が無住の堂宇に住職を派遣して昇格させる費用を出してくれるわけではない。そこで、村人が三十五石以上の出費をして住職を派遣してもらい、寺として昇格させてもらうことになった。ところが、一人年間一石の時代だから三十五石というと、三十五人分の年間生活費を出し合ったことになる。大変な出費である。
 このようにして、この時期、全国で爆発的に寺院が増えることになった。一村一寺院で、一つの村があると必ず寺院がそびえるという風景が誕生した。慶長6年(1601)から元禄13年(1700)の百年間に、各宗派の寺院の82パーセントが開創されたとみられている。
 ここでふたたび困難が生じた。仮に檀家120軒の村ならば、その約一割の12軒から毎年葬儀が出るという。そうなると、月一回の葬儀で寺院は生活を維持しなければならないが、それでは経営的に苦しい。
 そこで一周忌(二回忌)を作ると、毎年二倍の収入になる。さらに三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、三十三回忌、五十回忌、百回忌を増すと、約十一倍に跳ね上がる。この一周忌に始まる年回忌の法要は、江戸時代の寺院経営者のために作られたものといってもいい。
<引用終了>

筆者は仏教徒でも仏教を否定する者でもありませんが、このことが現代の仏教に連続しているのであり、日本人の宗教観に大きく影響していることは間違いないと思います。新自由主義下の日本仏教が今後どうなっていくのか心配しています。

参考
東京都西多摩郡瑞穂町にある富士山栗原新田はなぜ埼玉県(入間郡元狭山村(現入間... - Yahoo!知恵袋

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