東京ディズニーランドとは? ディズニーを愛する元SVがお伝えしたいこと2-②
東京ディズニーランドとは? ディズニーを愛する元SVがお伝えしたいこと2-②
東京ディズニーランドとは? 色々な迫り方があると思われますが、本noteでお伝えしたいことは、オリエンタルランドで28年間「一強」であった加賀美俊夫元社長(現代表取締役取締役会議長)88歳と東京ディズニーランドの関わりです。
お伝えしたいことは、私が知る限り東京ディズニーランドの誘致とパーク運営には関わっていない、ディズニー・テーマパーク運営の重要性を理解していないということであり、この結果が強気の入園料値上げと以前に紹介した「ありえない苦情」や「混乱」など、パークバリューの低下につながっていると考えられます。
「もう行けないね」という声が私の周りの人からも聞こえてきます。
現在の役員一蘭は以下の通りですが、東京ディズニーランドの誘致、開園、責任者としてパーク運営に携わった人はいません。
役員一覧 | 会社概要 | オリエンタルランドについて | 株式会社オリエンタルランド (olc.co.jp)
「一強」による「一新(新たに制定)」とは、過去(東京ディズニーランドの成功)の延長線上で行うものではなく、前任者(最高運営責任者)の功績を否定するということを意味します。
前noteでこのように書きました。文中の前任者とは誰か、その答えは上澤昇元副社長です。以下に3氏のウィキペディア記事を紹介しますので、内容ではなく情報量の違いだけを確認下さい。
加賀見俊夫 - Wikipedia 髙野由美子 - Wikipedia 上澤昇 - Wikipedia
それでも興味深いのは、1980年の高野由美子現CEOの入社から2003年の舞浜リゾートホテルズ副社長に就任するまで23年間の略歴です。なにも記載がないということは、東京ディズニーランド開園や現場運営に全く関わってこなかったということを意味するすると言えるでしょう。
加賀見俊夫元社長に関する情報量の多さには驚きますが、加賀見氏が高野氏同様に本社一筋であったことから推察して、オリエンタルランド本社一筋の人がウィキペディアに情報を書いたと私は理解しています。
このこと、つまり前会長も現会長もパーク運営に携わってこなかったことを知った上で、東京ディズニーランドとは?という文言が入ったタイトルのnoteでお伝えしたいことを記します。
以下の引用文をお読みください。
中略省く
上澤昇氏は、ディズニー・テーマパーク誘致交渉に初期から最終契約締結まで携わり、その後東京ディズニーランドの最高運営責任者として、運営の基盤を確立してこられた、わが国のテーマパーク経営の第一人者である。
誘致交渉
主要契約条件であるロイヤリティ料率の問題とそれの関連する契約期間の問題に関する親会社の三井不動産社長の坪井東さんとオリエンタルランドのトップの高橋政知さんとの対立である。考えてみれば、それまでのわが国では、せいぜい二百億円もかければ立派な遊園地ができていた時代である。遊園地に一千億円一千五百億円もかける常識など全く無かった時代である。保証をする立場に立つ三井不動産社長としては「たかが遊園地に」と、強い危惧の念を持ったことは無理もない。
今日でこそ分かってもらえるがディズニーランドは遊園地ではなく、エンターテイメントをテーマにしたリゾート都市づくりだと思えばよい。両社間に認識の差があったことは否めない。当時、私は高橋さんから説明を求められると、「ロイヤリティは今までの日本の常識で考えれば高いのは事実だが、しかしこれはディズニー社が七十年に亙って蓄積してきた世界的ブランド力とノウハウを日本で独占使用できるオリエンタルランドの必要コストであるし、契約期間は、そのブランド力やノウハウやクリエイティブといったディズニー社のソフト資産の使用を日本で独占使用できる保証の裏付けをさせたものだと考えるべきだ」と繰り返し説明した。高橋さんの理解は早かった。
一九七八年八月、高橋さんがオリエンタルランドのトップとして初めて、ディズニー社のトップとの交渉の場に臨むことになった。
訪米にはオリエンタルランド側から丹澤さん、堀さんと私が同行し、会議は九月六日から始まった。四年間の交渉を経て残された懸案は、ロイヤリティ料率と契約期間の問題に絞られていた。しかしこの最初の高橋さんの訪米会議では、解決に向けてほとんど実質的な進展はなかった。それどころかディズニー社側から「もう話し合いをこれ以上すすめてもしかたがない。あなた方は東京に戻った方が良いのではないか」と冷たく言われる始末だった。高橋さんにとっては腑に落ちないディズニー社側の出方だった。「オリエンタルランドがディズニー社に支払うロイヤリティが高すぎる、もっと下げて欲しい」というディズニー社に対するレターによる申し入れが、実は坪井東さんから会議に先立って直接ディズニー社側に届いていたのだ。ディズニー社の不信感は増幅と強い反撥の理由を会議の後で知ったのだ。
一九七四年の来日以来ディズニー社首脳陣は千葉県知事、地元町長を数度に亙り表敬訪問し、歓迎を受け、それがその都度マスコミに報道されて、県民・町民のディズニーランド実現に対する期待感もいやがうえにも高まっており、オリエンタルランド社にとってはディズニーランド実現は社会的責任になっており、撤退はオリエンタルランドそして三井不動産にとってもマイナス・リアクションを招くことが予想されるようになっていた。
また、一九七五年九月には天皇・皇后両陛下がアメリカ二百年祭に訪米され、ワシントンからの帰途、アナハイムのディズニーランドを訪問された。園内で昼のパレードをご覧になっていた時に、皇后さまが近くに立っていた小さなお子さんを自分の膝の上に抱き上げて、一緒にパレードをご覧になるというほほえましい光景がテレビで日本全国に放映され、国民の大きな話題になるなど、ディズニーランドが日本人にとってグッと身近なものになっていた時期だった。三井不動産は、事態の非常時を認識して、急遽、高橋さんを米国に派遣することを決めた。ディズニー誘致交渉が最も深刻且つ危機に瀕した時であった。その時、私は高橋さんから、「俺と一緒にアメリカに行こう。これに懸けよう」という話を受けたのである。
現地での五日目、高橋さんは決着条件について二つの決断をしていた。一つがロイヤリティの問題で、料率については今までの交渉でほぼ話し合いがついている条件を受け入れるが、その引き換え条件として、レジャー用地六十三万坪全体にかかることになっていたロイヤリティを開発用地の半分に限定すること。二つめに、東京ディズニーランド事業によってもしオリエンタルランドが経営の危機に瀕した場合には契約の解除について協議すること。
この二つの条件をディズニー社側が受容することで、オリエンタルランド側が基本的に了解していた契約期間の問題含め、全ての事項について正式に合意するというものだった。最終的にディズニー社側がこれに合意して、一週間にわたる交渉は妥結したのである。顧みると、一九七四年(昭和四十九年)十二月ディズニー社との間に最初の交渉をしてからここに至るまで五年四ヵ月の歳月を積み上げたことになる。
<引用終了>
上澤昇著『ディズニー・テーマパークの魅力 : 「魔法の王国」設立・運営の30年』
(顧客サービス・e-セミナー・テキスト ; 1) 全246ページ
国立国会図書館請求記号
DK261-H102
国立国会図書館書誌ID
000004240068
東京ディズニーランドの誘致交渉とパーク運営には、加賀見俊夫元社長は関わらず、上澤昇氏が誘致とパーク運営の成功に導いた、このことが東京ディズニーランドとは?という問いに対する私の答えとご理解いただければ幸いです。