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【8日目】時間を『記録する』(セカイのトリセツ)

◆時間のすべては『記録する』ことができる

 前回は「時間の最小単位」という話をしました。

 古くは仏教にもこの「時間の最小単位」という概念が出てきます。それは『刹那(せつな)』という言葉で表されます。現代でも「とても短い時間」という意味でよく使われる言葉です。仏教では、日々はこの『刹那』の積み重ねだ、と教えられるそうです。
 また、現代では物理学の世界でこの「時間の最小単位」が提唱されています。それは『プランク時間』と呼ばれるもので、光が一定の距離(すごく短い)を通過するのにかかる時間、という考え方なんだそうです。
 いずれにせよ、時間には「最小単位」があるぞ、ということを考えていた人はすでにいたのです。古くは2500年も前に……お釈迦様はやはり偉大です。

 では新しい話をしましょう。前回の「時間の最小単位」があると、どうなるのか……。それが意味することは

「時間」というものは『記録』できる

ということです。

 前回のアニメの話を思い出して下さい。アニメーションというのは「一枚一枚の絵が集まったもの」でしたよね。逆にこれをフレームレートで分解すると、一枚の「その瞬間の絵」になる、という話でした。
 アニメや映画がどの映画館でも放映できるのは、それらが『記録』されているからです。一枚の絵がたくさん集まっているなら、その一枚一枚を「とっておく」ことで、どこででも、何度でもアニメや映画を放映できるのです。

 一方、僕たちの住んでいる【地獄世界】が同じような『モトによるアニメーション』の構造をしているなら、同じ理屈で「時間をとっておける」、つまり「すべての「瞬間」「刹那」で起こっていることを『記録』しておくことができる」ということが言えます。

 この原理をつきつめることで、上級編で語ってきたような「時間の構造」が見えてきます。


◆現実の世界は『記録』されている

 僕たちの宇宙【地獄世界】というのは当然「三次元空間」ですので、「その瞬間」というのは「絵」ではありません。宇宙空間全体の「その瞬間」がまるで一枚の立体写真のように『記録』されるはずです。
 空間全体の様子……物体がどの位置にあるか、僕たちがどんな表情をしているか、水しぶきがどのようにハネているか、光がどちらから差し込んでいるか、そして、その時僕たちのココロの『モト』がどういう状態か……そういうすべての「瞬間の様子」が、箱庭のように立体的に記録されるかたちになっているはずです。
 もちろん、その次の瞬間もおなじように記録されているはずです。そしてその次もその次も……それこそ映画のフィルムのように、すべての『刹那』が連続的に記録されているはずです。

 ここで、さきほどの「アニメや映画の話」を考えると、どこかに

宇宙の歴史の『記録』

が完全な形で残っていてもおかしくない、ということになるのです。宇宙誕生の瞬間からずっと、その瞬間その瞬間がどこかにすべて「記録として残っている」かもしれないということが、モト理論から考えられる時間の姿なのです。


◆時間は「流れていない」

 このような『刹那』単位の三次元空間が、映画のフィルムのように「ずらずらーっと連続している」状態の

『時間軸』

というものの中を、僕たちは「過去から未来へ向かって」移動しています。

 そうなんです、一般的に時間というものは、天が昼から夜になるように「流れているもの」だというのが僕たちの認識だと思うのですが、モトという概念がひもとく『時間軸』の概念から推測すると、どちらかというと

僕たちのほうが時間軸の中を一方向に移動している

というのがイメージに近いのではないかと考えています。ほら……上級編で「人生は海賊探検ボートのようなもの」という例え話を出しましたが、本当に僕たちのほうがボートに乗って『時間軸』の中を未来に向かって移動しているんです。
 他にも、上級編で「ガリレオ・ガリレイ」の話をしました。ガリレオが地動説(地球が回っている)をとなえた頃は、世間一般では天動説(宇宙が回っている)が信じられていたんです。だから、今の僕たちが「時間の方が流れているのだ」と信じているとしても、もしかしたら「僕たちのほうが時間という「固定された『時間軸』の中」を移動している」という考え方のほうが実態に近い、ということが、ガリレオの時代と同じような「パラダイムシフト」なのかもしれませんね。

 ともかく、こういった感じで『時間軸』というものがどこかに(おそらく天国の世界か、もっと上の次元に)存在していると考えられます。理由は、そうでないとつじつまが合わないからです。
 どこで「つじつまが合わなくなる」のか、というと……これまた上級編でお話した通り「宇宙の歴史に『終わり』がある」という話と、そのさらに先にある「宇宙というものがなぜあるのか?」という話です。

 この辺の話を、これから先の章でさらにさらに深めていきますね。そしてこれらの話は、僕たちのジンセイというものが「なぜ」「ある」のか? という話とも大いに関係しています。宇宙という『舞台』がないと、僕たちのジンセイは成立しませんからね。
 ですが……今回の話もそうだったと思うのですが、やっぱりかなり「難解」な話になるはずです。少しずつ、話を進めていきましょう。


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日南本倶生(みゅんひはうぜん)
「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)