【エッセイ】出来杉君のポジショナルプレー
◆完璧人間という『ポジション』
僕は出来杉君に憧れる子供だった。運動も勉強も得意、雄弁で勇敢、そして広い交友関係。完璧人間だ。
だが出来杉君はいわゆる「ドラえもんファミリー」に入れてもらえない。どんなドラえもんグッズにも「出来杉君」のイラストはない。こんなに完璧人間なのに。
◆完璧人間のマネをする人、という『ポジショニング』
集団の中で人は「ポジショニング」を迫られる。なぜなら「キャラ性」というものがないと、集団の中でどう振る舞うべきかがお互いに分からなくなるからだ。
リーダー格、サポート役、インテリメガネ、優しさ、はっちゃけ、お茶目…そういう『わかりやすいキャラ付け』を自分自身でしていかないと、クラスがイツメンの集団で分割されたときに困る。周りも扱いに困るし、自分も振る舞いに困る。
僕は憧れの出来杉君を目指そうとした。そして実力もないくせに秀才を気取って孤独を愛する「キャラ」として振る舞い、その結果当然のごとくクラスで孤立していった。その「ポジショニング」のクセは大人になっても抜けず、気づけばドラえもんファミリーのような中心的集団に受け入れられないことが自分の当たり前になっていた。
◆モノマネの代償
出来杉君ならそれでも他の集団でうまくやっていたろう、完璧人間なのだから。でも僕は出来杉君ではなかった。むしろ欠点の多い人間だった。憧れの「完璧人間」の振る舞いだけマネて、最後に残ったものは孤独と貧困だった。
真っ暗なワンルームの中、病気で動けず食事も取れないまま、一人でひもじい誕生日を迎えた20代のあの日、やっとそれに気づいて僕は泣いた。嗚呼、僕は間違っていた。本当はただ寂しかったのだ。
今は積極的に人に話しかけるように心がけているし、少しだけなら会話を楽しめるまでにはなれたはずだが、その背後にはきっと「根暗で小生意気なアホにイラッとした人々」が死屍累々だと思う。誠に申し訳ない。
(2021年9月 日南本倶生(ひなもとともき))
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